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ベストフレンズ  作者: 菊池まりな


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3/3

第3話 レンズの外側

 写真部の部室は、旧校舎の二階にあった。


 新校舎と渡り廊下でつながってはいるが、床の軋み方が違う。窓枠の色が違う。空気の重さが違う。新しい建物には染みつかない時間の厚みが、旧校舎にはある。


 悠真はそこが好きだった。


 理由を言葉にしたことはないけれど、カメラを持ってここに来ると、何かが少し落ち着く感じがした。


 放課後。


 部室のドアを開けると、先輩の西川さんが引き伸ばし機の前で作業していた。三年生で、写真部の部長だ。小柄で静かな人で、悠真が一年の時に入部を決めたのも、この人が


「好きなもの撮ればいいよ」と言ったからだった。


「朝比奈、今日見学者来るって聞いたよ」


「はい。転校生なんですけど」


「橘さんだっけ。城島先生から話が来てた」と西川さんは手元を見たまま言った。「ちゃんと案内してあげて」


「分かりました」


 悠真は自分のロッカーを開けて、カメラを取り出した。


 中古で買ったミラーレス一眼。ボディに小さな傷がある。レンズを付け替えながら、窓の外を見た。


 グラウンドでは野球部が練習している。声が遠く聞こえる。西の空に薄い雲がかかっていて、光が柔らかく拡散していた。


 (今日は光がいい)


 そういうことに気づく感覚だけは、少し磨かれてきた気がする。撮るのが上手いかどうかは、まだよく分からないけれど。


 十五分ほどして、ドアがノックされた。


「失礼します」


 橘玲奈が入ってきた。


 昨日と同じセーラー服。髪も同じように結んでいる。ただ昨日より少し表情が柔らかかった。教室で転校生として見られている時の、あの慎重な顔とは少し違う。


「来たね」と悠真は言った。


「はい。お邪魔します」


 西川さんが振り返って、「どうぞ」と短く言った。玲奈は軽く頭を下げた。


 悠真は部室の中を簡単に説明した。引き伸ばし機、現像用の薬品棚、作品を貼るためのボード。デジタルとフィルムの両方が使える環境で、好みで選べること。活動は週三回で、強制はないこと。


「発表の場はあるんですか」と玲奈が聞いた。


「秋に学内展示があります。あとは文化祭」


「文化祭でも?」


「展示コーナーを持てるので。去年は十二点出しました」


 玲奈は部室の壁に貼られた写真を見て回った。


 先輩たちの作品が並んでいる。風景、人物、建物、光。悠真が撮った写真も何枚かある。隅の方に貼ってある、川沿いの夕方を撮ったやつ。


 玲奈はそこで少し立ち止まった。


「これ、誰が撮ったんですか」


「俺です」


「……川ですか」


「学校の近くを流れてる川で」


 玲奈はその写真を少しの間見ていた。何かを考えているのか、ただ見ているだけなのか、悠真には分からなかった。


「水面の光が、きれいですね」と玲奈は言った。


「光が良かっただけで、俺はあんまり上手く撮れてないと思ってます」


「それって本音ですか」


「本音です」


 玲奈はわずかに笑った。


「正直なんですね」


「そうでもないですよ」


 言ってから、悠真は少し思った。


 自分は本当に正直なのか。


 写真については正直に言える。でも他のことは──どうだろう。


 しばらくして、玲奈が聞いた。


「朝比奈くんは、何を撮るのが好きですか」


「人、ですかね」


「人物?」


「人、というか——人がいる場所の空気、みたいなもの」


 うまく言えないな、と思いながら続けた。


「誰かがいた痕跡とか、人と人の間の空間とか。そういうのが好きで」


「具体的には?」


「例えば、誰かが置いていったコップとか。使いかけの消しゴムとか。さっきまで誰かがいたのに、今はいないっていう場所の空気」


 玲奈は少し考えるような間を置いた。


「それって……人がいない写真なんですね」


「そうなりますね。でも人のことを撮ってる感じがするんですよね、自分では」


「不思議な感覚ですね」


「他の人には分からないって言われます」


「私には少し分かります」


 悠真は思わず玲奈の顔を見た。


 玲奈は壁の写真を見ながら言った。


「いなくなった後の方が、その人のことがよく分かることって、あると思うから」


 悠真は返す言葉を考えたが、何も言わなかった。


 何かを返すより、そのままにしておく方がいい気がした。


 一時間ほどで見学は終わった。


 玲奈は「入部を考えます」と言って部室を出た。


 悠真も荷物をまとめて廊下に出ると、玲奈がまだ廊下の窓の前に立っていた。


 外を見ている。


「待ってたんですか」


「少しだけ」と玲奈は言った。「一つ、聞いてもいいですか」


「はい」


「柊さんって、朝比奈くんの彼女ですか」


 直球だった。


 悠真は一瞬答えに詰まった。


「違います」


「幼なじみ、ですよね」


「そうです」


「仲いいですよね」


「……まあ」


 玲奈は窓の外を向いたまま言った。


「クラスで見てて思ったんですけど」


「何を」


「朝比奈くん、柊さんのことを見る時と、他の人を見る時、目が違います」


 悠真は何も言えなかった。


「気づいてないんですか」と玲奈が聞いた。


「……自分では分からないです」


「そうですか」


 玲奈はそこで初めて、窓から悠真の方へ視線を向けた。


「聞いてごめんなさい。転校初日に変なこと言いました」


「いや」


「ただ、気になったので」


 悠真は廊下の床を一度見て、また玲奈を見た。


「橘さんって、人のこと、よく見るんですね」


「昔からそういうところがあって」と玲奈は言った。「転校が多かったので。新しい場所で、まず周りを見る癖がついてるんだと思います」


「転校、多いんですか」


「三回目です、今回で」


「それは……慣れましたか」


「慣れる、というより──慣れないことに慣れた感じです」


 その言い方が、悠真には少し刺さった。


 慣れないことに慣れる。


 それがどういう感覚なのか、悠真には正確には分からなかった。でも、何かが伝わってきた気がした。


「また話しましょう」と悠真は言った。


「はい」と玲奈は答えた。


 昇降口を出ると、紗奈が待っていた。


 スマホを見ながら壁にもたれている。悠真が近づくと顔を上げた。


「遅かった」


「見学の案内してた」


「転校生?」


「うん」


 紗奈はスマホをしまいながら、何気なく聞いた。


「どうだった?」


「落ち着いた子だよ。話しやすい」


「そう」


 また、「そう」だった。


 悠真はそれ以上言わなかった。


 並んで歩き始める。いつもの道。いつもの距離。


 (橘さんに言われたことを、紗奈に話すべきか)


 考えた。


 やめた。


 話すとしたら何と言う。「お前のことを見る時、目が違うって言われた」──それを言ったら、何かが変わる気がした。


 変わることが怖いのか、変わりたくないのか、それも分からない。


 ただ、今日の帰り道は、このままでいい。


 そう思った。


「明日、小テストあるよ」と紗奈が言った。


「化学?」


「英語」


「勉強してない」


「知ってた」と紗奈はため息をついた。


「帰ったらやって」


「一緒にやる?」


「今日はそれぞれでやろ。電話しながらでもいいけど」


「じゃあそれで」


 他愛ない会話が続いた。


 六月の夕方。光が斜めになって、二人の影が道路に長く伸びた。


 悠真はその影を見ながら思った。


 玲奈が言っていた言葉。


朝比奈くん、柊さんのことを見る時と、他の人を見る時、目が違います。


 気づいてない、と答えた。


 本当に気づいていないのか。


 分からない、と答えた方が、正確だったかもしれない。


 ──でも、もし分かってしまったら。


 悠真は考えるのをやめた。


 隣を歩く紗奈が、「何か考えてる?」と聞いた。


「別に」と悠真は答えた。


「そう」


 それだけで、紗奈はそれ以上聞かなかった。


 そういうところが─と悠真は思った。


 そういうところが、ずるいとも言えるし、優しいとも言える。


 何と呼べばいいのか、悠真にはまだ分からなかった。


 その夜。

 

 電話をしながら英語の問題集を解いた。


 互いにほとんど無言で、ページをめくる音と、ペンの音だけが聞こえていた。


 たまに紗奈が「これ分かる?」と聞いて、悠真が答えて、また静かになる。


 ただそれだけのやり取り。


 でも悠真は、その無音の時間が好きだった。


 電話の向こうに紗奈がいる、ただそれだけで、なんとなく落ち着けた。


 (これが、友情なのか)


 自分でも笑えるような問いを、一人で繰り返す。


 答えは出なかった。


 今夜も、出なかった。


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