─第1章─30話「由比ヶ浜ケイの決意」
【由比ヶ浜ケイの受難】
「……まずいわね」
控え室へと続く、人気の無い廊下。
足を引きずるように歩いていた由比ヶ浜ケイは、誰にも聞こえない声で呟いた。
2回戦での「フルスロットル」。
そして準決勝、城ヶ崎莉杏という怪物を倒すために捻り出した「限界を超えた笑顔」とハイパフォーマンス。
由比ヶ浜ケイの身体は、すでに悲鳴を上げていた。
節々が軋み、筋肉には鉛のように重い乳酸が溜まり、指一本動かすのも億劫だ。
まさに満身創痍。
(……しかも相手は、愛理さん……)
どんなに理詰めしても、勝機が見出だせない。
ケイが壁に手をつき、重いため息をついたその時だった。
「お疲れ、ケイちゃん!」
「……愛理さん」
目の前に、馴染みの影が現れた。
ステージ衣装からジャージに着替えた神野愛理。
彼女はニッと笑い、まるで散歩のついでといった様子で近づいてきた。
「ケイちゃんのあんな笑顔、初めて見たよ……。あの時、何考えてたの?」
「……さぁ?」
いつもの会話。だが、そこには言い知れぬ重苦しい湿度が漂っていた。
すると愛理は、核心に迫る質問を、笑顔のまま投げかけた。
「……ケイちゃん。あたしに、勝つ気?」
「……どうかしらね」
ケイは軽く受け流す。愛理はケラケラと笑った。
「……あーあ。莉杏先輩が勝ち上がってきてたらさ、あの『幽玄』のダンスを完コピして勝ってやろうかと思ってたんだけど、あたしの計画崩れちゃったな〜!」
「……は?」
笑顔でとんでもない事を口にする。
あの人間離れした『幽玄の悪夢』を、コピーした上で、オリジナルの前で披露して絶望させるつもりだった、と言ったのだ。
御空ユミにしたことと同じ。いや、それ以上の『公開処刑』。
「……どうして、そんなことするの?」
ケイの声色が低くなる。
わざわざ相手の土俵に立った上で、心を折るような勝ち方を選ぶ愛理に、深く疑念を抱いた。
すると愛理は、やれやれと言ったポーズで答えた。
「そりゃ、こんなちっぽけな大会でフツーに優勝したって意味ないじゃん? それなら、ド派手な勝ち方して『実力がない』とか言ってくるアンチを黙らせる踏み台に使うのが、丁度良いんだよね!」
プツン。
ケイの中で、何かが切れる音がした。
「踏み台……?」
それは、2カ月間レッスンを共にし、涙を流して挑んできた御空ユミを、そして全ての参加者を愚弄する言葉だ。
御空が血の滲むような努力をしていた事も、不器用ながら常に自分を気遣ってくれた優しさも知っている。
それを「踏み台」呼ばわりすることは、許せなかった。
「……歪んでるわ、愛理さん。今の言葉は、ユミ達の努力を踏みにじった言い方よ」
その言葉を聞いた瞬間。
愛理の瞳から、スッと光が消えた。
「努力……ね」
フッ、と吐き捨てるような乾いた笑い。
愛理は無表情で続けた。
「……芸能界ってさ、頑張れば頑張るほどファンも増えるし……心ない事を言う『アンチ』も増えていくんだよね。ケイちゃんも分かるでしょ?」
「……」
「前に『アンチの言葉なんて気にしない』って言ったけど、アレ嘘。……本当は見るたびに気が滅入る。怖い。傷付く」
愛理は、自身の腕を抱くようにして震えた。
それはトップアイドル・神野愛理ではなく、ただの怯える少女の姿だった。
「だから私は、常に『圧倒的なNo.1』であり続けなければならない。こんな小さな大会なんて圧倒的に勝って、誰にも文句を言わせない存在にならなきゃいけないの」
「そしたら、私を叩く人もきっと減るでしょ? ……ま、そういう事だよ」
目を逸らし、わざとらしいため息をつく。
3歳から芸能界という荒波に揉まれ、とてつもないプレッシャーと戦ってきた彼女の言葉は、あまりに重く、そして冷たかった。
そして。
今度は凍てつくような冷徹な視線を、由比ヶ浜ケイに向けた。
「……だからケイちゃん、ごめんね?」
それは『完膚なきまでに叩き潰す』という予告であり、勝利宣言。
今の神野愛理にとって、由比ヶ浜ケイは幼馴染でも友人でもない。
自らの安寧のために踏み潰すべき『敵』。
「それじゃあね、ケイちゃんっ!」
神野愛理はパッと営業用の笑顔を貼り付け、ひらひらと手を振って控室へと消えていった。
「………はぁ」
廊下に一人残されたケイは、天井を仰いだ。
由比ヶ浜ケイは、どこまで行ってもお人好しだ。
2カ月間苦楽を共にした友人を貶されて、黙っていられるような人間ではない。
──何より、進むべき道を間違えて、恐怖に震えながら虚勢を張っている親友を、放ってはおけない。
「ケイちゃん!! 決勝進出おめでとーーーーーーー!!!!」
空気を読まない大声と共に、瓦幸慈がキラキラと目を輝かせて突進してくる。
ケイはそれをひらりとかわし、険しい顔で告げた。
「……瓦さん」
「ん? どうしたの?」
「次の決勝曲。……『Piercing Stars』で行くわ」
「えっ!?」
瓦の動きが止まった。
『Piercing Stars』。
それはあのBPM200超えの『シンフォニック・アートコア』。
人間が歌って踊ることを想定していない、あの第4の楽曲だ。
「で、でもケイちゃん! あれは練習でも一度もフルで成功したことないじゃん! 失敗したら……」
「一か八かよ。……神野愛理に勝つには、この曲を完璧にこなすしかない」
ケイはモニターに表示されたトーナメント表に目をやり、グッと拳を握りしめる。
御空ユミのため。
そして何より、神野愛理という孤独な少女を救うため。
「この勝負、勝ちに行くわ」
それは友のために戦う『お人好し』、由比ヶ浜ケイの固い決意だった。




