─第1章─29話「由比ヶ浜ケイの野望」
【由比ヶ浜ケイの受難】
舞台袖
準決勝のその先にいる『神野愛理』を見据えて、
城ヶ崎莉杏は静かに、そして不気味に笑っていた。
【先攻・城ヶ崎莉杏】
準決勝、第2試合。
幽霊にも花嫁にも見える幻想的な白と黒のドレスに身を包んだ莉杏がゆっくりとステージに上がっていく。
そして城ヶ崎莉杏がステージに立った瞬間、会場の空気が変質した。
いつもの眠たげな雰囲気は霧散し、そこには人知を超えた「怪異」が顕現していた。
ギィィィ……ン……
流れたのは、不協和音と重低音が絡み合う、怪奇で幽玄なメロディ。
そこに、莉杏の幻想的なセイレーンの如き歌声が乗る。
美しく、そしておぞましいほどに甘美な毒。
そして、ダンス。
彼女が腕を上げるたび、関節が存在しない軟体動物のように、不可思議な曲線を描く。
重力が消失したかのようなステップ。空間が歪む錯覚。
観客は息をすることさえ忘れ、その悪夢のような美しさに飲み込まれていく。
フィニッシュ。
莉杏は威厳のある女神のような、しかしどこか残酷な微笑みを浮かべた。
しばらくの静寂の後……。
ワアアアアアアッッッ!!!!!
悲鳴にも似た、今大会で最も大きなどよめきと歓声が会場を揺らした。
まさしく「幽玄の悪夢」。
神野愛理への挑戦権を持つ者だけが描ける、絶望的な芸術だった。
【後攻:由比ヶ浜ケイ】
「…………」
舞台袖で見ていた由比ヶ浜ケイは、完全に戦意を喪失していた。
勝てるわけがない。
人間が神に勝てないのと同じだ。ここまで頑張ったし、もういいだろう。
だが。
ふと、ケイの脳裏にある「野望」が芽生えた。
それは、アイドルの風上にも置けない、醜くて、下衆な野望。
「……もう、どうにでもなれ」
神の領域を垣間見た由比ヶ浜ケイは、完全に吹っ切れていた。
恐怖もプレッシャーも、どうでもいい。
こうなれば華々しく散ってやる。
ポロン……ズガガガガッ!!
ゆったりとしたピアノの音色から急転し、激しいドラムンベースとエレキギターが絡み合う「アートコア」が疾走する。
ケイが舞う。
スパルタレッスンと理詰めによって突き詰められた、儚さと力強さが共存する美麗なダンス。
ケイが腕を振るたびに、ターンを決めステップを踏むたびに、観客の視線が吸い寄せられる。
(……軽い)
吹っ切れたことで、身体から余計な力が抜けていた。
歌声は透き通るガラス細工のように、どこまでも高く、優美に響き渡る。
本人ですら確信する。『今までの中で最もハイパフォーマンス』だと。
だが、『幽玄』にはまだ届かない。
会場の空気は、まだ城ヶ崎莉杏の「悪夢」に支配されている。
ケイは踊りながら思考を巡らせる。
幽玄を越えるためには、幽玄以上のインパクトがいる。
世界を塗り替えるための、たった一つのピース。
(……これは朝陽ノ高校主催の大会。由比ヶ浜ケイは「笑わないアイドル」として名は知れている)
由比ヶ浜ケイは笑わない。クールで、冷徹で、影がある。
それが世間の認識。
ならば…。
(……何より、今の『野望』を持った私には『それ』ができる……!)
曲はサビに入り、最高潮の盛り上がりを見せる。
ケイが華麗なターンを決め、客席へと振り向いた、その瞬間。
「………!!」
由比ヶ浜ケイは、笑っていた。
それは、引きつり笑いでも、営業用のアイドルスマイルでも、冷たい微笑でもない。
心の底から湧き上がる、クシャッとした満面の笑み。
笑わないアイドルが魅せた、闇を照らし、氷を溶かすような、光り輝く星のような笑顔。
生の感情が爆発したかのような、純度100%の輝き。
その瞬間、城ヶ崎莉杏が作り上げた「幽玄の悪夢」が、音を立てて崩壊した。
悪夢は、星の輝きによって霧散する。
ケイの笑顔は、会場中の空気を一瞬で「希望」へと塗り替えたのだ。
美しいロングトーンからのフィニッシュ。
ケイは満面の笑みを崩さず、肩で息をしながらポーズを決めた。
そして。
会場は、さきほどの莉杏のステージ以上の、爆発的な熱狂に包まれた。
ほどなくして…
運命の投票結果が、スクリーンに映し出される。
城ヶ崎莉杏:45%
由比ヶ浜ケイ:55%
「……勝った」
ケイは息を切らしながら、その数字を呆然と見つめていた。
あの『神の領域』を打ち破った。
自分でも信じられない、大会史上最大のジャイアントキリング。
技術では間違いなく負けていた。
だが『アイドル』としてのインパクトで、ケイは『幽玄』を上回った。
一方。
城ヶ崎莉杏は、ステージ上で立ち尽くしていた。
神野愛理と戦うための通過点。
そこに転がっている、踏み潰すだけの石ころだと思っていた相手に、敗北した。
「……ぐッ………!」
莉杏は、ギリリと奥歯を割れんばかりに噛み締めた。
彼女は何も言わず、ステージを後にした。
「ありがとうございました!!」
ステージの上。
ケイは珍しく、観客一人一人と目を合わせるように微笑み、手を振った。
それはいつもの愛想笑いではなく、心からの感謝だった。




