第10話 “本当の魔法”
「ああ、アリス様……」
こうして眠るアリス様をお見守りしながら不安を零すのは、もう何度目だろうか。いや、ただ単純にそれが当てはまる日を数えるならば、ほぼ毎日だろう。正しくは、何らかの事件、事故によって倒れたアリス様をお見守りしながら、と付け加えるべきだろうか。別に、誰に吐露するわけでもないのにそんな、半ば現実逃避に近い心情を抱えながら、体温の高い小さな手を摩った。
「ん、ぅ……」
一体どんな夢を見られているのか、魘されてはまではいないもののその顔色はあまりよくない。甘えるように繋ごうとしてくださる細い指に自らの指を絡ませ、きゅっと握った。アリス様は、この手の繋ぎ方が好きだ。それではまるで恋人がするようだとミランダさんたちに指摘された時は慌てて離そうとしたけれど、アリス様はそれでも繋いだままでいたいと、離れかけた手を固く握って示してくださったのだ。きっと、お互いの繋がりを深く感じられるのが安心されるのだろう。
……安心。そう、安心。私は今回のことを、どう捉えるべきかまだ結論を出せずにいた。アリス様に嫉妬を抱いていたあの少女と和解できたのは、確かに良かっただろう。アリス様の身の安全的にも、そして何より精神的な余裕という面で。一見落ち着いていて、とても大人に見えることもあるアリス様だけど、しかしそれは他ならぬアリス様がそう見せているからなのだと、私は確信している。それは私だけでなく、ハッティリア様は勿論、カルミア、ミランダさん、そしてきっと、王女殿下も。アリス様と関わりの深い方々は皆多かれ少なかれそれに気付いている。実際のアリス様のお心は年相応の面が強く、相応に傷ついたり壊れたりするのだと。でも、アリス様はそれを私たちに見せない。心配させてしまうからと隠してしまわれる。だから、それを知らぬほとんどの人々からはとても強い人だと思われているのだ。
……確かにそれは間違いではない。アリス様は強いお方だ。でも、同時に人よりも傷つきやすいお方でもある。だから困っているのだ。私がずっと抱いている不安を、今回で更に強まったそれを、アリス様に伝えるべきか、それとも黙っているべきか。それが判断出来ずにいる。
「アリス様」
――――貴女にとって、ご自身の価値はどれくらいですか……?
聞けるわけがなかった。無礼とか不敬だとか、そういうことではない。優しさに甘えるようで前提とするのはあまり良くないが、アリス様ならそれくらいのことは笑って受け入れてくださるだろう。きょとんと、珍しいといった反応はするかもしれないけれど、そういった主従では有り得ないような質問や会話をしたからといってお機嫌を損なわれるなんてことはまったく想像も出来ない。それなのに躊躇しているのは、この質問がアリス様の傷口を抉ってしまう可能性が高いからだった。
……勿論、私とてアリス様のすべてがわかるわけではない。けれど、アリス様の中でご自身の優先順位がかなり低いことくらいはわかっていた。でも、その原因が何なのかまではわかっていない。それにアリス様にとって私は大きな存在であるというのも、傲慢などではなく普段からの接してくださる様子でよくわかっている。だから、迂闊にそれを刺激するようなことは言えないのだ。私が尋ねたことによって、深く傷つかれるかもしれない。もしもそれが取り返しがつかないことになったらと思うと、どうしてもその一歩が踏み出せない。
しかし、このままではいつか大事に至るというのも容易に予測出来ることで、諭さないわけにもいかない。……事実として、既に幾度もそうなりかけているのだから。あの市場でのこともそうだし、金狼、アヤメと出逢った時。そして、今回の事故。結果として誰も傷は負わなかったけれど、一つ間違えばアリス様はきっと大怪我をしていた。ミランダさんはあのまま棚を支え、元の位置に戻せただろう。そして傷一つなくとはいかないだろうが、大人の私が幾つか落ちてくる本に当たったところで命の危機に至るような大事にはなり難い。けれどアリス様は動いた。本来なら守られる立場だというのに、それらを考慮すれば私がアリス様を庇う方が自然で確実だというのに、それでもアリス様は自らで何とか危機を脱しようとされた。それは何故か、なんて考えるまでもなかった。私やミランダさんを守るためだ。つまりそれは、アリス様の中で、ご自分の命よりも私たちを傷一つから守る優先度の方が高いということだ。全部間違いですとは言わない、いや言えない。私だって、アリス様の安全と自分の危機を天秤に掛けるなら、迷いなくアリス様の安全を選ぶのだから。でも、その重さの差が私とアリス様では違うのだ。
どうか、もう少しご自愛ください。つまるところ、その一言が私のずっと抱いている不安だった。
……そして、今回のことで生まれた懸念がもう一つ。
「時を巻き戻す、ですか」
ステラさんが驚きに放ったあの言葉は、かなり的を射ているように思えた。いや、わかっていたことではある。アリシア様の魔法を考えるに、アリス様も同じような性質の継承魔法を持っているのであろうことは。
市場でアリス様が私の傷を治してくださった時はそれが発現したのかと一瞬考えたが、アリス様にその傷が移っていくのを見てそうではなさそうだと改めた。教会でのクロリナさんの検査で、感応水を凍らせたのを見て、また違う、更に変質したような魔法を持たれているのだと思った。
……でも、違った。アリス様は明確に本棚や本を“巻き戻し”た。あの氷の魔法だと思っていたものはきっと、アリス様の本当の魔法……アリシア様から引き継がれた魔法の、ほんの一面にすぎないのだ。
私も詳しいことを知っているわけではないけれど、アリシア様の魔法には色々と特殊な背景があるらしい。私の知る魔法の知識からして、“あんなこと”はマッグポッド様の喚起の魔法で出来るとはとても考えにくい。ならば、アリシア様の母上、アリス様の祖母にあたるお方の魔法の影響が大きいはずだった。素人考えだけど、恐らくそれも継承魔法で、アリシア様の魔法はその二つの継承魔法を受け継ぐことで変質した結果なのではないだろうか。すべて憶測なのはアリシア様ご自身も、唯一詳しくを知るラブリッド様とマッグポッド様のお二方も決してそれを語ろうとはしなかったからだ。それを考えるに秘匿しているのは明らかなのだから、勿論私も変に探ろうとはしなかった。
……ただ、何となく、時間に干渉出来るようなものなのだということだけは察していた。
その根拠は、今も変わらず館の部屋の花瓶の中で咲いているだろう一輪のアイリスの花にある。
――――アリス様がお生まれになられた日に頂いたあの花が、今もずっと“あの時のまま”の姿で咲いていられるなんてことは本来有り得ないのだから。
「反体制派どころでは……」
そして、そんな魔法が広く人に知られればどうなるかなんて、言うまでもない。その範囲や限度はわからないものの、時を巻き戻すようなことができる。それだけで誰もが喉から手を出すほどの有用性と稀少性がある。ほんのさっきまでアリス様の魔法だと信じていた氷の魔法は、どちらかといえば、銀色の髪も相まって聖女様を連想させるということが、反体制派や聖ネージュムール教の一部に利用される危険を生んでいた。しかし、これは話が違う。様々なことへの応用性や、その他期待される事柄が多すぎるのだ。それも、どれも世界が一変するくらいのもの。年老いて自分の寿命が近いことに焦っている貴族などは、どんな手を使ってでもアリス様をその手中に収め、利用したいと考えるだろう。全員が全員ではないけど、王国の貴族というのはそういう人間ばかりだ。騎士は軍事への利用価値を見出すだろうし、強いて言うなら研究にのみ情熱を捧げる魔導師は幾分かマシかもしれない。つまり多少の程度の差こそあれ、この魔法が明るみに出た瞬間、アリス様はその情報を知ったすべての人から狙われるような事態に発展しかねないということ。流石にそんなことになれば、私やミランダさん、ハッティリア様、或いは王女殿下も、そのアリス様の幸せを望む面々全員が力を合わせたとしても、数の不利は避けられない。
幸い目撃したのは親しい関係の者ばかりで、唯一そこに当てはまらないあの御令嬢も絶対に口外しないと約束してくれた。彼女は罪悪感の他に、それでも許してくれたアリス様へ心酔とも言えるほどの好意を抱いたようで、あの様子ではその言葉を信じても大丈夫そうだ。ある程度緩めはしたものの、警戒を解いていない王女殿下が見張るように対処すると言っていたし、そこは一安心……だけど、利用する人は少ないとはいえ、図書室は王都学園に所属する生徒、教員全員に解放されている場所。偶然本を借りに来た誰かが目撃している可能性がまったくないとは言い難い。かといって一人一人聞いて回るわけにもいかず、もしも漏れていた場合はただの噂としてすぐに風化するように工作するしかないだろう。しかし王女殿下とステラさんに私やミランダさん、そしてあの御令嬢にも協力してもらって連携すればそれほど難しいことでもないようにも感じていた。
問題は、アリス様の精神への影響だ。元々アリス様が現状の王国に憂慮を抱き、体制の革命を志しているのは知っているし、共感も応援もしている。でも、その前にアリス様は一人の幼い少女だ。そんな茨の道に進んで御身が危険に晒されるよりも、多才で聡明な貴族令嬢としてただ安穏とささやかな幸せを掴んで欲しいという気持ちもあった。今回の魔法の目覚めによって、その道は閉ざされたとまではいかなくても、アリス様がそれを選ぶ可能性はかなり低くなったと見積もらざるを得ないだろう。アリス様は、ノブリス・オブリージュを体現したかのような考え方をされるお方だ。ご自身が世界を一変させかねない魔法を持っているとわかれば、この魔法で民をより良い方へ導くのだ、と。そんな義務感を更に強めてしまうだろうことは簡単に察せられる。私たちがどれだけ動こうと、世界がアリス様を表舞台に立たせるのを望んでいるかのように、事態が進んでいく。そんな世界に私は、半ば恨みのようなものさえ感じていた。どうして、そっとしておいてくれないのかと。お生まれになったその時からずっと、荒波ばかりが優しい彼女を襲う。
「ずっとお側で、お守り致しますからね」
静かに寝息を立てる可憐な顔ばせをじっと見つめて、真っ白の頬に手を寄せる。儚げな垂れ目にかかる銀糸を指で耳に除けて差し上げて、そのままそっと頬を撫でやった。心なしかその表情が少し安心に緩んだ気がして、自然と私にも微笑みが浮かんで。しばらく絹のように滑らかな髪を撫で梳いていると、不意に扉が開いた。ミランダさんだろう。
「ただいま戻りました。姫は……」
まだ眠っておられますね、と。私が指を唇に立てる前に、その声は二段ほど小さくなった。ミランダさんは王女殿下とステラさんのお二方と共に、学園長、マッグポッド様の執務室へ出向いてくれていた。今のところただ疲労で眠っておられるだけで異常は見られないが、それでもあんな魔法を使ったのだ。もしかすれば体調にも大きな影響があるかもしれない。大事を取って、せめて二日程度は様子見として休養するべきだろう。それを伝えに行ってくれていたのだ。
「ありがとうございます」
「いえ。ノクスベルさんは姫のお側にいるべきですから」
「……ありがとうございます」
アリス様だけでなく、私の心境も配慮してくれていたのに、重ねて頭を下げる。ミランダさんは謙遜しながらもそれを受け取ってくれて。やがてマッグポッド様との会話の様子を話してくれた。特に問題もなく、むしろマッグポッド様の方からもう少し休んだほうがいいのではないかと提案してくれたらしい。とりあえず最初に言っていた二日間は授業を休み、大丈夫そうだったらアリス様の意思に合わせてまた学業を再開して欲しいとのこと。孫だからというのもあるのだろうけど、マッグポッド様はアリシア様の魔法を知っているはず。だから一通り話を聞いて、色々と察したのではないだろうか。何やらこの後来客があるらしく、詳しい状況などはまた明日伝えに行くことになっているようだ。
「……ノクスベルさん」
「はい、どうされましたか」
ミランダさんはそこで言葉を一旦区切ると、何かを迷うように顔を俯けて。一体、どうしたというのだろうか。再び顔を上げた彼女の碧は、強い輝きを携えていた。
「帰り際、私はマッグポッド様に呼び止められ、ある話をされました」
「話、ですか?」
「……とある、王国中枢にも秘匿されている独立諜報機関についてです」
言葉が、詰まった。マッグポッド様が知っていたことに驚きはない。アリシア様に諜報技術を授けたのは彼なのだろうし、何より喧嘩別れした娘であるアリシア様の身辺くらいは追っていただろうから。言葉を失ったのは、彼がそれをミランダさんに伝えたということ、そしてミランダさんがそれを知ったということだ。
……勿論、時間の問題ではあっただろう。ミランダさんはそもそもラブリッド様がいずれそうするべくしてアリス様の親衛騎士に選んだ方だ。遅かれ早かれ、その名を聞き、所属することになっていただろう。
「……マリアーナ・アイリス。ですか」
「はい。ノクスベルさん……いえ――――」
ならば、不透明ながらも既にカルミアの任務も知っている彼女は当然気付く。諜報技術の訓練を受けた彼女なら、不自然なそれに気付く。フェアミール家に仕えるメイド、その全員が“均一な練度”で以て迅速に仕事をこなし、規律を保っている、その王家でも見られない過剰な優秀さという違和感に。また、騎士というもう一つの経験と合わさった思考が、指摘するだろう。全員に護衛技術の訓練を受けた形跡が見られるということを。当たり前だ。彼女も同じ訓練を受け、いつでもすぐに動けるような姿勢から歩き方までを体に刻み込まれたのだから。
そこに聞かされた、マリアーナ・アイリスという、ラブリッド様とアリシア様によって創設された諜報機関。どこまで聞いたのかにもよるが、その二つは簡単に結び付けられるはずだ。そして結びつけた後で、浮かび上がる。若しくはそこまでをマッグポッド様に聞いたかもしれない。
……カルミアを始め、それらマリアーナ・アイリスに所属しているフェアミール家のメイドたちを統括する立場にある私がそれを知らないはずはないのだと。そしてカルミアが、どうして、私を。
「――――マリアーナ・アイリス、統括諜報課長」
――――マム、と。そう呼ぶのか。
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