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ノブリス・オブリージュ ~引きこもり令嬢が何故聖女と呼ばれたか  作者: 剥製ありす
第四章 貴族令嬢の彼女が何故革命を叫んだか
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第9話 “名は体を表す、魔法は心を顕す”

「ぁ……?」


 ルナの叫び声に続いて、背後でベルさんとミラさんの言葉にならぬ声が聞こえた。未だに状況を掴みきれない中、ルナを見つめる視界の端で、通路を作る左の壁――――即ち、本棚がぐらりと此方に揺らいでいるのが見えた。それでようやく私は現状を察知した。危険、危ない、逃げなきゃ……そんな言葉だけが頭をぐるぐると回って、けれど体はそんな思考について行けずに硬直して動かない。時間にすればほんの一秒にも満たぬ間、ただ私の頭の中は不思議と冴え渡り始めた。体感時間が何十倍にも伸ばされ、ゆっくりと倒れてくる棚と、そこから雪崩落ちようとしている大量の本。必死の形相を浮かべるルナと、ルナを掴んで下がろうとするステラさんに、背後で動き始めたミラさんとベルさん。そのすべてが鋭敏に感じられた。ともすれば、各々の呼吸や心臓の音さえもが詳細に認識出来た。


「な、に……これ」


 ぐにゃりと、自分以外の時間だけが歪められたような感覚。けれど体は相変わらず混乱と驚きで硬直したままで、上手く頭からの伝達が伝わらない。そんな鈍い反応の中、唯一命令に従った目だけを倒れてくる棚に向けて、なんとか更なる混乱を収めようと、ただ落ち着くことだけに努める。思わず漏らした自分の声は、実際には最後まで発せられていないのかもしれない。その証左に、唇は最初の一字の形から動いていていなかった。


「ひ……め……!」

「ア……リ……ス……」


 引き伸ばされて音の高さまで変わった二人の声が、耳を通って徐々に頭に響いていく。その言葉の波が震わせる鼓膜の一つ一つの振動を明瞭に感じながら、ドクリ、と。私の中で、何かが脈動した。その正体を掴む間もなく、棚が、そしてついに今放り出されようとしている無数の本が、頭上の空気に乱れを生じさせていた。


 見える、視える。


 何もかもが見える。そうして私の目が捉えるものは、更に広がっていく。最初は崩れ落ちる一つ一つの本や、棚、そして私たち。順に見える範囲が広がるそれは、それぞれが違った“色”を有していた。

 ……私はふと既視感に包まれた。時間が引き伸ばされたような感覚、そして見えるようになった色。これに、見覚えがあったのだ。どれも、どれも知っている。市場でベルさんの傷を治そうとした時。メリーランド農園の近くで襲いかかるアヤメと対峙した時。過ぎった記憶の中、その時は必死で気付かなかったそれが、私を何かへ導いていく。今まで、この感覚はただ目の前に迫った危機に思考が加速したのだと思っていた。けれど、違う。これは、そんなものではない。


 そして私は気付いた。見えているそれぞれの“色”が、蠢いている。ぐるぐると皆の中を、或いは棚が倒れるべき先を目指して。その色が、蠢いている。そうだ、これは、きっと。


 ――――なが、れ……?


 そう、“流れ”だ。流れが見えている。あらゆるものの流れが、色として見えている。例えばルナに見える赤色はきっと血流で、ミラさんとベルさんが動こうとする体を巡っていく黄色は脳からの電流で、そして、その後ろ。いや、後ろではない。それらすべてを包み込むようにして存在する、大きな流れ。認識した途端、私の意識はゴウ、と凄まじく波立つ大海原へ呑み込まれたかのような錯覚に襲われた。巨大で、抗えない、そんな未知を感じた私を恐怖が覆おうとして、しかし。ダメだ。呑まれては、ダメだ。棚の行先を示す色が反対側の棚へぶつかっているのを考えるに、上手くその隙間に収まっている私たちはそのままの勢いで倒れる棚には直撃せずに済むかもしれない。そうすれば、きっとベルさんとミラさんは大した怪我は負わないだろう。そしてミラさんは、恐らく身体強化の魔法を発動させようとしている。私を庇うように動くベルさんとは反対に棚の方へその魔法でブーストされた体中の力を向けようとしているミラさんは、きっと倒れる棚を支えるつもりなのだろう。騎士とした鍛え抜かれた力に、身体強化が加わればそれは容易なのかもしれない。でも、ダメだ。棚は止められても、そこから落ちてくる本の一つ一つまでは流石のミラさんでも手が回らない。ならば、当然それらは落ちてくる。ぎっしりと人々の叡智が詰め込まれ、相応の重量を持ったそれら無数の本は、人に傷を付けるには十分な力を持っているように思えた。このまま何もせずにいるなら、きっと私に覆い被さるようにしたベルさんに、この無数の“色”が襲いかかるのだろう。


 それでは、ダメなのだ。結果として私は助かるかもしれない。でも、それでベルさんが怪我をするくらいなら、自分が怪我をする方がいい。私を守るなんてことのために、優しい笑顔が痛みで歪み、また……



 ――――『ありす、さま、大丈夫、ですか、っ……?』



 また、あんな紅に塗れた声を?



 ……いやだ、みたくない。そんなのはいやだ、もういやだ。いやだ、いやだ、いやだ――――迫り来る現実の否定で埋め尽くされていく意識。本当にそこに思考が存在するのかも不明瞭な混沌の中、けれど私は捉えた。大海原を、迫る波を捉えた。今さっき私を恐怖で包もうとした、その大きな流れ。そこに論理なんてものは存在しない。直感……いや、“知識”として、私はそれの正体を理解した。これは、“時間”。あらゆるものに普遍として存在する流れ、時間だ。途端、点と点が結びついていく。唐突に頭の中の引き出しを漁り始めた思考が、一つの記憶を私に提示した。



 “魔法とは、即ち時間なのじゃ”



 祖父の言葉だ。ただ一言、その言葉だけが耳に思い出された。

 でも、それで十分だった。



 ――――迷いは、なかった。



「――――様ッ……!」


 段々と引き伸ばされた時間が元に戻っていく。猶予はない。体の底から膨大な魔力を集め、それを手のひらから本棚の周囲に放出した。がくり、と体中の力が抜けていくのが感じられた。相変わらず、体力のない体である。だが、まだだ。まだ、もう少しだけ。


「……瞳が」


 呆然と呟くルナの声を拾った気がした。でも今はそれに構っていられない。思考と意識のリソースすべてを眼前の自らの魔力に集中する。大丈夫、流れはまだ視えている。放出した魔力を、本棚と落ちかけの本のすべての色に馴染ませていく。溶かし合うように、掻き混ぜるように自らの魔力を流れに潜り込ませる。それと同時、ぐらりと決定的に傾いた本棚が、今度こそ私たちの方へと勢いよく倒れてくる。隣でミラさんが本棚の木枠に手を置いて支えようとするのが見えた。本棚の勢いが緩くなっていって、それに同期して流れの行き先も変わっていく。けれど案の定、そこから投げ出される本までは止まらなかった。ぱらぱらと開いたページが落下の風で捲れる音を聞きながら、私は目を瞑った。


 魔力をエネルギーに変えて、引き戻す。自分に還すのではなく、流れを数秒前の位置に戻す。私はまだ自分の魔法についてよくわかっていない。もしも加減がわからずに氷の魔法が発動してしまって、本棚だけではなくそれを支えているミラさんの腕まで凍らせてしまっては本末転倒。それに、上手く床に固定できるかもわからない。もしかすれば本当にただ棚を凍らせるだけの結果となって、逆に重量を増して危険を拡大させてしまうかもしれない。だから、するのはいつかベルさんにした時の応用だ。魔力を視える色に混ぜ込み、その流れの方向を操る。並みの向きを徐々に、強引に曲げて、元の位置へ戻しながら、広がる波紋を消す。

 ……掴んだ。きっと、この感覚だ。大丈夫、出来る。出来る、上手くやれる。そうして自分を励ましながら、奇妙な確信さえ抱いて。私は閉じた瞼を、もう一度開いた。


「もどって……!」


 回る。巡る。ギュルリと私の魔力で捻じ曲げられた流れが、世界の法則に抗って反対に進む。そのイメージの通り、本棚の、落ちる本の動きが緩やかになって行って。やがてピタリと、空中で静止した。ミラさんが困惑したようにまるで重量の無くなった本棚を見つめ、恐る恐る手を離した。しかしミラさんの強い支えを失ったにも関わらず、本棚はその斜めに倒れ掛かった状態からぴくりとも動かない。


「これは……一体」

「まさか、アリス様――――」


 出来た……! 止められた!

 ひとまずの安堵が心を満たして、まだ気は抜かない。止めただけだ。後は戻さなければ、結局私の集中が切れた時に崩落する。冷静になりながらも感じた喜びは束の間、私の頭を激しい痛みが襲った。


「ぁぐ……っ、ぅ!」

「アリスっ!?」

「だめです、ルーンハイム様!」


 気を飛ばしそうなそれに崩れ落ちそうになりながらも何とか緊張を保つ。私に駆け寄ろうとするルナはステラさんが止めてくれた。今隣に寄られて触れられでもしたら簡単にこの均衡が崩れてしまい、ルナまで巻き込んでしまうだろう。ベルさんとミラさんは下手に私に触れることも出来ず、どうすればいいかわからないように佇んでいる。出来れば今の内に棚の範囲から逃れて欲しいけれど、それを言葉にする余裕はない。


「……もど、す、もどすっ……!」


 ならば、やはり最後まで頑張るしかない。更に激しくなる頭痛を堪え、じっと目を凝らす。確認する悠長などは当然なかったが、瞳が眩く輝いているような気がした。本来の法則と、それを捻じ曲げた魔力。その均衡が流れをその場で押し留めている。ただ、それは止まったのではなく、実際には鍔迫り合っているだけだ。それを、魔力で強引に押し戻していく。言うなれば力比べ。ずっしりと押し返してくるそれを、少しずつ、少しずつ取り込んでは反転させていく。


「時が、巻き戻って……!?」


 無表情を崩したステラさんが口調も忘れて、悲鳴とも驚きともわからぬ声を上げた。その隣で、あの食堂の一件の時の少女がぺたんと腰を抜かして目を見開いたまま固まっていた。あなたが、やったのか。そんな悲しみが湧き上がりそうになって、しかし違った。その瞳には、憎しみや敵意の色は見えなかった。ハッと、感情の流れさえも視えているのに今更気づいて驚きながら、彼女の意思を覗き見る。その混乱の中を辿って辿って、奥に見つけた。これは、後悔だ。……そして。


「ん、ぐぅっ……もう、ちょっと、だから、おねがい……!」


 びぎん、とまた強くなった頭痛が、私の意識を粉々に砕かんと思考を叩き割る。でも、もう少し。もう少しなのだ。棚も本も、倒れる前の位置へ。本はもう、ほとんどが逆再生のようにゆっくりと棚の中に戻っていた。しかし物の大きさに比例して流れの力も変わるのか、本棚は中々元の位置に戻ってくれなかった。まるで強い粘性の液体の中から重いものを引き上げるような思いで、必死に流れを巻き戻す。際限なく激しくなっていく痛み。もう少し、もうちょっと。


「っ、ぁ、……――――ううううぅぅッ!」


 もう持たない。咄嗟に悟った私は、最後の気力を振り絞って一気に魔力に指令を送った。ぐぐぐ、と今までの数倍の速さで動いた本棚がほぼ垂直に達したのを見て、限界が来た。注いだ魔力が霧散していく。流れに抗うための燃料となった魔力は呆気なくそのすべてが消費されて、その分の疲労と脱力が手応えとして私の中に残った。


「はっ、は、ぁ……ふ、……でき、た……」


 力の(せめ)ぎ合いから解放されて、少しだけふらりと揺れた本棚はしかし、その重量によってしっかりと床に縫い付けられ、安定を取り戻した。ホッと、荒いだ呼吸を肩を上下させて整えるのに混じって安堵の息が溢れる。ベルさんも、ミラさんも、ルナもステラさんも、原因となってしまった少女も。そして私も。誰にも、怪我はない。


「よかっ、た……えへへ」

「アリス様、これは……アリス様、が?」

「うん、そう、みたい……、ひゅっ……なんか、できちゃった」


 達成感と安心で自然と頬が綻ぶ。皆が固まる中、唯一私だけが笑顔なのがなんだか可笑しくて。くすりと余計に微笑みが漏れた。その中でもいち早く混乱を脱したルナが、思い出したようにキッと脇で崩れ落ちたままの少女を睨んだ。


「あんたッ……!」

「ま、まって、るな!」


 怒りを噴火させようとしたルナに待ったを掛ける。違う。そう、違うのだ。ルナに見つかった瞬間、慌てた彼女が呟いていた通り、違うのだ。彼女は何も、こんなことがしたかったわけではない。嫌がらせをしに来たわけでも、そのために隠れて覗きに来たのでもない。先ほど彼女の心の流れを覗いた私は、彼女が本当は何をしたくてここに来たのかわかっていた。ああ、確かに、それなら後からおずおずと出て行くよりも先に図書室で待ってそのタイミングを伺いたいに違いない。予想外のルナの来訪には大層混乱して、ひとまず隠れて様子を見ようとするに違いない。


「だいじょうぶ、だよ」


 ふらつく体を、最後の力を振り絞って。怯える彼女の傍に寄る。びくりとそ跳ねたその肩に、そっと宥めるように手を置いた。大丈夫。


「なかなおり……しようとしてくれたんだよね」

「ぇ、ぁ……ち、ちがっ」

「ちがう?」


 彼女の心の奥に見つけたのは、後悔と、そして、謝りたいという気持ちだった。なんてことはない、偶々不幸にもこんなことが起きてしまっただけで、彼女は私に謝ろうと、仲直りをしようと図書室に来てくれていたのだった。きっと、ずっとその機会を伺っていたのだろう。でも食堂であれだけ目立った手前、人前でそうするには覚悟が付かなかったのだ。そうしてただ私を追いかけていたところへ、どうやら図書室に向かっていると来た。図書室は滅多に人が来ない。絶好のチャンスだと考えたのだろう。そうしようと思った切っ掛けが何なのかまでは私にはわからない。……でも。


「――――ごめん、なさい。……フェアミールさん」

「……うん。ありがとう」


 謝ってくれた。それだけで、もう十分だった。元々、私の不注意でもあったのだ。ルナはこれでは納得がいかないと思うかもしれない。……でも、私は嬉しかったのだ。やっぱり、人の気持ちは変えられるんだって。全部が全部、そうではないのかもしれないけれど、剣を向けた人とも、やり直せるんだって。きっとこれは、私の望む“しあわせ”への第一歩で。


「ごめんなさい、ほんとうに、ごめんなさいっ、わたし、くだらない嫉妬なんかで、あなたを……っ」

「だいじょうぶ、だいじょうぶ」

「お人好しにも程があるわ。はぁ……」


 受け入れられた安心からか、積もらせていた後悔と自罰の念が一気に表に出たのだろう。鼻が垂れるのも構わずに泣きじゃくる彼女を私は抱きしめて。ルナがふんっと呆れたような顔をする横で、嗚咽で引きつる背中をそれが収まるまで撫で続けた。


「アリス様……」

「どうし……ぁ、ぇ?」


 穏やかに、ただ黙ってそれを見守っていてくれた私の大切な人たち。けれどその中で、どうしてかベルさんだけは、何処か不安そうな瞳を向けていて。


 その瞳の意味は、結局尋ねられることなく。


「姫っ!?」

「アリス!」



 私の意識は、深く暗い夢へと沈んでいった。

次回更新は本日18時です。

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