*幕間* 涙味のスープ。
今回はフェデラーの視点です。
「今日は風が気持ち良さそうねぇ……」
おっとりとベッドの上で、枯れ木のようになった泣き虫女のマスターが微笑んだ。俺はベッドから少し離れた場所からしばしその顔を眺めていたが、それが自分に向けられたものだとは気付かなかった。
そのせいで「ちょっと、貴男に言ってんのよ?」泣き虫女のマスターの表情が微笑みから苦笑に代わる。どうやら俺はまだ戻らない泣き虫女の代わりに、この弱り切ったマスターの話に付き合わなければならんらしい。
片時も離れたくないとしがみつく泣き虫女は「霞を食べて生きていけるなら、そうなさいな」と一蹴されて、渋々日中は店とこの部屋をウロウロしているのだ。一度泣き虫女にすがりつかれて「俺が店番をすればいいのではないか?」と提案してみたが「隻腕の男が香水工房の店番に? ここが武器屋なら丁度良かったのにねぇ?」と全く笑っていない目で告げられ、泣き虫女はその後、例によって例に漏れずバケツの恋人となった。
バケツの恋人となる香水……いや、あの悪臭を持続的に発動させる恐ろしい毒霧はこの老婆の姿をした悪魔の切り札だ。前回のヘルムート達の時に使用されたのは“硝石の浮き始める真夏の牛糞堆肥”の臭い。今回のは“牛乳を拭いて放置された雑巾”の臭いだった。
本来香水と呼ばれる物自体が元は悪臭である物を薄めたり、中から特に好ましい一部の香りを掬い取った物なので副産物としてはそれなりに取れる。その他にもまだまだバリエーションがあるというから空恐ろしい女だ。
――それ以来、面倒だが俺が様子を見ることになっている。何よりここに残ったのは自分の意思なので、仕方がない。俺は手招かれるままベッド脇に近寄った。
ふとベッドから見える位置にとられた大きな窓の外に目をやれば、目抜き通りの街路樹が整然と立ち並ぶのが見える。ヘルムートとパウラが去ってから季節が一つ過ぎて、あの時は街路樹の緑が眩しかったというのに、その街路樹もすっかり葉を赤く染め上げて通りを夕暮れ色に彩っていた。
けれどあの二人からは小言ばかりの手紙と、傷口に塗布する薬やら何やらがこまめに届くので、時間としてあまり離れている気がしていないから不思議だ。
「何だ? 水が欲しいのか?」
「違うわよ~、そこにある水差しくらい自分で取れます。貴男って筋は悪くないのに、全然女性の扱いが分かっていないわねぇ? 婆さん心配になっちゃうわ」
「まだ婆さんじゃないだろう。少なくともまだ七十年と半分くらいしか生きていない奴は、俺達の世界では小娘だ」
「あら嬉しい。でも残念ねぇ、減点が一つあるわ。女性の歳を大っぴらにするのは頂けないのよ。あとはその換算でいくと、わたしの夫はあちらではかなり有名な幼女趣味なのかしら?」
「……幼女とまでは言わないが……まぁ、恐らくはな」
「あらあら、可哀想なうちの人。見た目はわたしよりうーんと若いのにね」
そこまで喋って、急に胸を押さえて咳き込み出したその背中を残った方の左手で撫でる。触れた指先から体内を流れる命の熱量が、ここ最近徐々に薄れていっているのが分かった。
いくら高い効果を望めるポーションがあったところで、ここまで命の枯渇した状態の個体を全快させることなど不可能だ。ヘルムート達の作ったポーションだからまだ保っているのであって、普通ならとっくに土の下だろう。
「あまり無理をするな。またあれが泣くぞ」
「あれだなんて、呼ばないで、頂戴な。わたしと、あの人の、可愛い馬鹿娘なのよ?」
「待て。その方が余程酷い気もするが」
「う、ふふ……わたしのは、愛情が、あるから、良いの」
苦しげに息をしながらも黙る気はないらしい。仕方なくその背中を支えて気道を確保してやる。あの泣き虫女のせいで、すっかり俺までニンゲンの老人の世話に詳しくなってしまった。さらに起こした背中の後ろにクッションを二つほど置いて、上体を安定させる。
「あら、ありがとう――だいぶ楽になったわ」
そう微笑むものの閉ざした目蓋は落ちくぼんで、根底にある命の減退を嫌でも俺に知らしめた。外で一際強い風が吹いたのか、部屋の窓ガラスがガタガタと揺れた――と。
「ねぇ、フェデラー。あの娘を呼んできてくれないかしら?」
そうベッドに身体を起こした状態のまま言うが、俺は窓ガラスの向こうに“いる”者の姿に目を細めたまま思わず言った。
「――明日では駄目なのか?」
別に今日でなくとも良いのではないか? 先送りにしかならないと言われればそうなのだろうが、俺にはまだあの泣き虫女が堪えられるようには思えなかった。
「フェデラー……貴男は本当に良く気がつく良い男ねぇ。だけど、一応こうみえてこれまでだって頑張ってたのよ? ただねぇ……ごめんなさい、流石にもう、しんどいわ」
掠れた声に視線をやれば、苦く笑ったその表情に差す影の濃さに、俺もそれ以上の言葉を続けることの無慈悲さを悟る。
そのせいか思わず「分かった。すぐに呼んでこよう。他に何か頼みはあるか?」という、らしくもない発言と声に、自分でも少し驚いた。だがベッドの上の泣き虫女のマスターは、病床の身には似合わない“ニヤリ”という表現がぴったりの人の悪い笑みを浮かべる。
「そうねぇ、それじゃあ……あの娘を呼んできてくれたら、頼みたいことがあるんだけど良いかしら?」
どことなく見覚えのある笑みを浮かべる人物を思い出すなと感じていたら、何と言うことはない。“マスター”という人種が使役する者に対して浮かべるあの笑みだ。
“ふふふ、またそんな困った顔をして。哀れで、可愛い――のフェデラー”
不意に耳の奥に聞こえる声に失った右腕がジンと痺れる。この感覚を訊ねた時に確かヘルムートは――、
『あぁ、それは幻視痛と言ってね。無くしたはずの部分がまだあるように痛んだりする現象のことだ。動物が何らかの事故で自分の一部を失った時に起こるものだが――植物きみたちにもそういう感覚機能があると、僕は思う』
傷口から上げた瞳にあるのはパウラが惚れ込む、まるで俺達を“同族”として見るような労りの視線。あのむず痒い感覚は俺も、嫌いでは……ない。
***
「お呼びですか……先生」
店から呼んできたは良いものの、泣き虫女は部屋に入るなりふてくされた声でそう言った。流石にもうバケツの恋人ではないが、あの毒霧噴射事件から警戒しっぱなしだ。……当然だろう。
泣き虫女としてはベッドの脇に寄りたいようだが、死の影と匂いのする自分のマスターに近付くことを躊躇っているようだ。俺は気が進まなかったが、ずっと戸口に立っている訳にもいかないので、泣き虫女の背中をソッとベッドの方に押す。すると一瞬怯えたように見上げてくる泣き虫女の視線とぶつかった。
声をかけずに頷き返すと、泣き虫女は諦めたように細く溜息をついてベッドに歩み寄る。ベッドに身を起こした泣き虫女のマスターは、そのやつれた頬にえくぼを作って、自分の愛弟子であり娘代わりでもある相手の気配に微笑みかけた。
小さく手招きをすると、堪らずというようにベッドの上に飛び乗った泣き虫女の頭を枯れ木のような腕で抱いて何度も撫でる。
俺がそれを黙って見ていると、泣き虫女のマスターがこちらに向かって小さく頭を下げた。こちらから頷いたところで見えない相手だとは知りつつ、何となく頷く。ベッドの上の相手は、そんな俺の方を見たまま微かに笑った。
「……良い子、良い子ねぇ、泣き虫さん」
そう言いながらまるで子供をあやすように背中を撫で続ける泣き虫女のマスターと、遂にはしゃくりあげながら泣き出した泣き虫女。ふと窓ガラスの向こうで“ヒュウゥ”と切なげな音を立てて風が巻く。そのせいでガチャガチャと鳴る窓の金具の音に、少しだけ舌打ちしたくなった。
――と、ベッドの上でまさに泣き虫女のマスターが舌打ちする。一応聞いていた話では外にいるのは夫だったはずなのだが……この期に及んで舌打ちとはな。
「“お前ばかり狡い”ですって? 女の子は女親の方が好きなのよ。ねぇ?」
なかなか滅茶苦茶な持論を展開する泣き虫女のマスター。すると窓ガラスの向こうの風がみるみる弱まった。若干気の毒だが仕方ない。
しかし俺の観察している前で、泣き虫女のマスターは枕の後ろをゴソゴソと漁り始めた。何となくこれまでの流れで嫌な予感がする。
「おい、泣き虫女――、」
俺が“その凶悪なお前のマスターから離れろ!”と教えてやるよりも早く。見た目だけはまともな香水瓶が泣き虫女の鼻先に毒霧を噴射した。
――直後。
「え、な、にコレって……目に、沁み……痛ぁぁぁぁっ!? それに、先生っ、これ、強烈に玉ネギ臭いですぅぅぅぅ!!」
「ホホホ、引っ掛かったわね、この馬鹿娘。今度から玉ネギを刻むたびに涙に咽ぶと良いわよ?」
本物の悪魔か、この女。今回ばかりはこれを師匠に持った泣き虫女には、さすがに同情を禁じ得んのだが……。
「ひ、酷いですよぉぉぉ、何でこんな時にふざけるんですかぁぁぁ!」
当然怒りに声を荒げて身体を起こした泣き虫女は、一目散に俺の立つ辺りまで退避してきた。しかも何故か恨めしげな視線をこちらに向けてくる。
「俺のせいみたいに睨むな。お前の師がおかしいだけだ」
目を真っ赤にさせた泣き虫女にそう言うと「知ってますよ!」と言い返された。完璧なとばっちりだ。
「あら、そりゃあ、あれよ……誰も、玉ネギを刻んでる時に泣いたって泣き虫だなんて言わないわ。でしょう?」
ベッドの上で楽しげにそう笑う泣き虫女のマスターの顔色は蝋のようだ。見た感じで痩せ我慢も限界なのだと悟る。
「――じゃあ……じゃあ、もう、玉ネギなんて使いません!!」
怯えた小動物が威嚇するように俺の横で叫ぶ泣き虫女。威嚇する相手は自分のマスターに絡みついた死出の蔦か。
「あらあら、駄目よぉ。貴女の作るオニオンスープ、絶品なんだもの」
そう――愉快そうに、寂しそうに笑う。最近ではその絶品スープですら上澄みしか飲めなかったくせに、だ。そして俺と同じことを考えているのか、泣き虫女は震える手で自分のスカートを握り締めている。
「ねぇ、フェデラー? さっきのお願いなんだけれど……この娘が泣かないでオニオンスープが作れるようになるまで、ここにいてはくれないかしら?」
そんなことを言い出した泣き虫女のマスターに俺は緩く首を横に振る。冗談じゃない。
「悪いが断る。この泣き虫女に付き合っていては、俺がマスターの元に帰れないだろう」
非道な発言だと思われたところで構うものか。窓ガラスの向こうで“それ”がだいぶ文句を言っているが、誰が何と言おうとも当初の目的通り俺は“見届けたら帰る”つもりだ。
「――って、この場で強メンタルの貴男なら言うと思ったから……」
フッとそれまでとは違った穏やかな表情になった泣き虫女のマスター。その表情はこれまでの無体など働かなさそうな老婦人だった。
「ねぇ……わたしの愛しいお馬鹿さん。貴女は明日の朝とびきり美味しいオニオンスープを作りなさい。そしてそれを食べたら“フェデラーさん”にお礼を差し上げて見送るの。ちゃあんと出来るわね?」
一瞬何を言われているのか分からないという表情になった泣き虫女を前にして、微笑む。
「それから……フェデラーさん。貴男その娘をつれて部屋を出る前に、その窓を開けていって下さるかしら?」
放心状態の泣き虫女を引き立たせて、言われた通りに“それ”の待つ窓の鍵を開けて部屋を出る。
――直後に大きな音を立てて窓が開き、部屋の中に突風が巻く音がしばらく響いて、ピタリと止んだ。
左腕に掴んでいた泣き虫女が膝をついて泣き伏しても、扉の向こうから「“……良い子、良い子ねぇ、泣き虫さん”」と囁く声は、もう二度と聞こえてこない。
***
翌日、前日に交わした約束を見届けた俺は日の出と共に――は出発しなかった。
一応ケジメとして「葬列者に手紙を出すまでくらいならいてやっても良い」と言い出してやった俺からの新しい提案に、泣き虫女が泣き笑う。そこで泣き虫女と相談の末に取り敢えず、第一枚目はウォークウッドのお人好し二人に決めた。
せめて当日は一人で泣くよりは救われれば良いと、柄にもなく思う自分がいる。
次回から本編に戻りますよ~。