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5話 小さな幸せのパイ包み

「気に入らない?」

「ええと……」


 ベルは必死に頭を動かす。

 ベルはいま、ブルージャムが用意してくれたドレスを着ていた。

 光を吸い込むほど濃い黒の生地に、夜色の大きな羽根が飾り付けられている。ウエストは細く絞られ、そこから滑らかに広がるスカートの縁にも細かな羽根が散りばめられていて……ブルージャムのドレスほど派手さはないが、確かに静かな存在感を持つドレスは、自分がドレスを着ているのではなくドレスに着られている気がした。

 それでも、せっかくブルージャムが用意してくれたドレスだ。


「脱ぎたいとは、思っていません」


 感じていることを、素直に伝える。

 むしろ、今朝これを着たあとのベルは無意識に鏡の前にずっと立っていたほどだ。


 途端にブルージャムは大きな瞳をより大きく見開いて「まあああぁ……っ!」と、震え声を上げた。そして、興奮気味にベルの頬を両手でむにっと挟む。


「むぎゅ……」

「いいのよ。それでいいのっ」

「な、なにが、ですか?」


 困惑するベルの頬を、ブルージャムはまるで子猫でも撫でくりまわすようにムニムニと弄ぶ。それから頭も撫でられて、そのまま髪を一束指に絡めると笑った。


「少しずつ、感じていきましょうね」


 自分の心を――

 そう囁いて、そっと耳に髪をかけられる。白い指先に耳の縁をなぞられて、背筋にぞくっと痺れが走った。

 なんとなく、ベルは半歩後退りをする。


「…………」

「あら」


 跳ねた心臓を服の上からギュッと押さえると、ブルージャムがおかしそうに一笑した。


「さあ、今日は楽しみましょう!」


 ブルージャムに手を引かれる。

 二人は華やかな喧騒に飛び込んだ。


 まず、昼食を兼ねて屋台で蜂蜜の掛かったパンと数種類のパイを買った。そのあと果実を飴で包んだ菓子を食べ、次はドライフルーツのケーキ、チョコレートチップクッキー、アイスクリーム……それから、それから。


「っ……すみ、ません」


 フラフラとベルは口を押さえる。

 ブルージャムが手当たり次第に屋台に寄るものだから、ベルは次から次へと押し寄せる味の嵐に舌が痺れ、お腹ははち切れそうになっていた。


「わたしが調子に乗っちゃったから。ごめんなさいね、大丈夫?」

「……はい」

「絶対に嘘。無理しないで休んで」

「……すみません……」


 ベルの強がりを察したブルージャムがベンチに座るよう促してくれた。

 食べ歩きを楽しみにしているブルージャムに申し訳なく、時間も勿体ないと思ったが、血糖値が上がりすぎたのか頭痛すら感じてきたので渋々とベルは従った。


(もう、甘いものは見てるだけでお腹いっぱいです……)


 元々ベルは少食だ。それでもブルージャムの手前断るわけにはいかず、頑張った結果、嫌いという感覚がなんとなく分かってきてしまった。


「それ、わたしがもらっていいかしら?」

「……お願いします」


 ベルは手にしていた食べ掛けの揚げ菓子をブルージャムに手渡した。

 隣に腰掛けたブルージャムは、手のひらサイズのそれをものの数秒で平らげる。油でてらりと輝く唇を、後味すら堪能するようにゆっくりと舐めた。


「ベル。どれが一番美味しかった?」

「どれも、美味しかったですよ」

「当たり障りない受け答えはやめて」


 拗ねたふうに唇を尖らせたブルージャムに額を小突かれる。

 でも、本当だ。いままでに経験したことのない味ばかりで混乱はしたし、確かに、お腹は苦しいけど。


 なにより、ベルはブルージャムが好きなものなら自分も好きになりたいと強く思った。

 彼女は甘いものが好きだ。

 悪魔も、甘くて美味しいと笑う。

 彼女が笑顔で味わうものを嫌いになる選択肢は、ベルにはなかった。


 ただ……一番美味しいものは?

 と問われた時に頭に思い浮かんだのは甘いものではなくて……だから、どことなくベルは答えたくなくなってしまった。

 そんなベルの手を、ブルージャムがそっと握ってくる。


「わたしはわたし。ベルはベルよ。それは分かるわよね?」

「もちろん、分かります」

「だからね、わたしの一番とベルの一番は別だと思うのよ。感じ方は、それぞれですもの」

「別で、いいんですか?」

「当たり前じゃない。わたしはベルの意見が聞きたいのよ?」


 そんなこと、初めて言われた。

 自分の意見は持ってはいけないとキツく教えられたから。自己を持たず、忠実に、逆らわず、同調し、言われたことだけを遂行する。

 ベルの意思は、邪魔なものだと。

 そう教えられたのに……。

 ブルージャムはいつもこうだ。


「ねえ、なにが好きだった?」


 あまりにも呆気なく、ベルの身に深く重く染み付いた血腥い教えを拭ってくれる。


「その……」


 それでも、まだ、自分から自分の気持ちを言葉にするのは難しいが……。

 ブルージャムはこちらが喋るのを静かに待ってくれるから、ベルはゆっくりと胸の内を吐露することができるのだ。


「一番、美味しいと思ったのは……あります。多分」

「聞かせて?」


 ブルージャムの手を震える手で握り返し、ベルは深く息を吐く。

 ただ一言を口にするだけなのに、カーニバルの喧騒が聞こえなくなるほど緊張している。

 だって、彼女の好みとは違ったから……。

 それでもブルージャムなら受け入れてくれると、微笑み返してくれると確信して、ベルはそろりと伝えた。


「ミートパイ、です……」


 肉汁と塩気が効いたミートパイを頬張った瞬間、視界が輝くほどの衝撃を受けた。

 干し肉とは違って柔らかな肉と、ドロドロになっていないしっかりとした野菜。噛む度に肉汁が溢れ出し、塩気の効いた熱い旨味が口いっぱいに広がった。

 甘いお菓子も美味しかった。蜂蜜も果物も、いままで知らなかった味でドキドキした。

 たくさんそれを味わったからこそ、甘いものよりも塩気のあるもののほうが好きだとベルは気が付いた。


「……ふふ」


 ベルの答えを聞いたブルージャムは、予想外だったのか小さく笑った。

 ベルは反射的に肩を竦める。


「すみません」

「どうして謝るのよ。いいじゃない、ミートパイ」

「でも、ブルージャムは甘いものが好きです」

「好きよ?」

「だから……」


 だから同じものを好きだと言えなかったことが悔しかった。

 言葉にしなくても伝わったのだろう。

 ブルージャムは眉を下げて、あのそっとした笑みを浮かべた。


「ベル」


 名前を呼ばれる。

 それだけで胸が跳ねた。


「もしわたしに合わせて、甘いものが一番だって言ったらね。わたし、すごく悲しいわ」

「……え」

「それはベルの言葉じゃないもの。わたしはね、ベルがなにを見て、なにを感じて、なにを好きになるのかが知りたいの」


 好きなもの。

 欲しいもの。

 やりたいこと。

 自分の気持ち。

 そんなものを持つ資格はないと思っていたから、ブルージャムの言葉にはいつも驚かされる。


「いつも言ってるでしょ?」

「そう、ですね。そうですけど……やっぱり……えっと」


 ベルは言葉を探る。

 うまくまとまらなくて、結局は自分の身に起こっていることをそのまま口にした。


「なんだか、ムズムズするんです」


 胸の奥が――


「それは、嫌な感じ?」


 ブルージャムに訊ねられると、ベルはすぐに首を横に振った。

 その逆だから対処法に困っている。


「これは……どうすればいいのでしょう?」

「あら、どうしようもしなくていいのよ」


 ブルージャムは、ふわりと微笑んだ。


「それが、幸せって気持ちだと思うわ」


 幸せ。

 その言葉を聞いた瞬間、ベルは目を瞬かせた。

 これが? この感覚が?


「……ブルージャム」

「なあに?」

「幸せって、こんなに小さいものなんですか?」


 思わず口から溢れた疑問に、今度はブルージャムがぱちりとひとつ大きな瞬きをする。

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