第2話 陽だまりの介護
午後の柔らかな光が差し込む高校1年生の教室で、まさ子は、どうしても重くなる瞼に抗えずにいました。
教壇に立つ教師の言葉が、遠い波音のように聞こえます。限界でした。まさ子の頭が、こくり、と小さく揺れます。
「山本さん。山本まさ子さん」
教師の声に、まさ子は弾かれたように顔を上げました。
「……はい。ごめんなさい」
何も言い訳はせず、ただ、椅子から立ち上がり、深く頭を下げました。
早朝、邦明叔父さまのマンションで朝食を作り、起きた彼の枕元を整え、それから登校する。まさ子にとってそれは充実した日々の生活の喜びであっても、身体には確かな疲労が蓄積していました。
「センセ-、ちょっとは理由とか聞いてあげてくださいよー」
隣の席で、川野詩織が気怠げにペンを回しながら声を上げました。
「まあちゃんはこのところ『介護疲れ』なんです。ご高齢のおじいさまのお世話を毎日一人で頑張っているんだから、学校で少しくらい気を抜いて休むのは、大目に見てあげてください」
「介護……? そういえば、お祖父様のエス先生はもう九十を超えていらっしゃいましたよね。お母様もお忙しいのでしょうし、大変なのね」
このお嬢様学校には、執事やメイドに傅かれて身の回りの世話をされている生徒は多数いても、自らの手で家族の介護をしているような生徒は、ほとんどいません。
教師の視線が、叱責から労りへと変わります。まさ子は慌てて首を振りました。
「いえ、そんな……。授業中に居眠りをするのは、私が悪いんです。気をつけます、ごめんなさい」
「まさ子さん、無理をしてはだめよ。お世話をしているあなたの方が潰れてしまったら、おじいさまだって悲しむわ。周りの力を借りることも覚えなさいね。そのために、介護のプロの方がいらっしゃるのだし」
「……はい。ありがとうございます」
休み時間、まさ子は溜息をついて、詩織に向き直りました。
「しいちゃん、ありがとう。でも、駄目ね。私、これくらいのことで居眠りだなんて……」
「まあちゃんの駄目なところはね、全部自分で完璧にやろうとするところよ。先生も言ってたでしょ? 周りに助けてもらうのが『できる人』の嗜みなの」
詩織は、高級そうなネイルをこすり合わせて研ぐような仕草をして、不敵に微笑みました。
「いいから、私にも手伝わせなさい。今日の帰りは、おじさんのところ、私も一緒に行くわ。こう見えて私、下のお世話だって慣れているんだから」
「ひどいよ、介護だなんて……」
まさ子が困ったように笑うと、しおりは真剣な表情で彼女の肩を叩きました。
「いいから、今日は私を連れて行くの。こういう関係って、当事者だけで煮詰めちゃうと、いつか不幸になるわよ。望んで日陰者になったまあちゃんだからこそ、定期的にお日さまに当たらないとね」
「……あなたがお日さまってこと? ……分かった。いいわ。お願いする」
この日の夕方、邦明のマンションに出現した二人の女子高生は、嵐のように家事を片付けていきました。
戸惑いながらも、二人のペースに巻き込まれ、されるがままに世話を焼かれる邦明。
詩織は、まさ子の「完璧すぎる献身」が邦明を息苦しくさせないよう、あえてガサツに、けれど明るい空気を部屋に振りまいていきました。
「じゃ、私はここまで! おじさん、まあちゃんをあんまりこき使わないでくださいね!」
嵐の去った後のような静寂の中で、まさ子は邦明の前に座りました。
「ごめんなさい、叔父さま。詩織ちゃんが、どうしても一緒に行くってきかなくて……。落ち着いて休めなかったでしょう?」
「いや。……詩織ちゃん、いい子だね」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、まさ子の指が、邦明の太腿をぎゅっ、とつねりました。
「……いててっ。いや、まさ子、変な意味じゃないよ。お前のことを心配してくれているのが伝わって、安心したって意味だ」
「……いつも私だけだと、重いですか? 煮詰まりますか?」
まさ子の瞳に、少しだけ湿り気を帯びた不安が宿ります。邦明は、まさ子の頭に手を置き、優しく撫でました。
「そんなんじゃないさ。ただ、俺も……ここではない場所でのまさ子が、どんな表情で友達と笑いあっているのか、それが見られると安心するんだよ」
まさ子は、溢れそうになる感情を抑えるように、邦明の広い胸に顔を埋めました。
「……ありがとうございます。やっぱり、まだまだですね、私」
「大丈夫。まさ子は、そのままのまさ子でいいんだよ」
背中に置かれた邦明の手のひらの温かさに、まさ子は、自分がいつのまにか背負っていた「完璧でありたい」という呪縛が、少しずつ溶けだしていくのを感じていました。
(十五歳の領分 完)




