第1話 透明な純愛
初更すぎ、静まり返った山本家のリビングには、微かな茶葉の香りが漂っていました。
凜は、ソファに深く腰掛けて居ずまいを正し、帰宅したばかりのまさ子を見つめました。
15歳のまさ子は、高校1年生になったばかりですが、その可憐な容姿はまだ幼さを色濃く残しています。今日の下校のバスを降りる際に、「お嬢ちゃん、子ども料金は半額だよ。もらいすぎた分返すから、ちょっと待って」と運転手に優しく声をかけられたことを、まさ子はどこか遠い国のことのように思い返しながら、ふわりと姉の前に座りました。
「おかえりなさい、まさ子。今日はわりあい早かったのね。叔父さまのところへ行っていたのでしょ…」
凜の声は、長姉らしい厳格さを保とうとしていましたが、その奥には妹を案じる微かな揺らぎが見え隠れしていました。傍らでは、次姉茜が、いつものお気に入りクッションを胸元に抱きしめて、不安そうに凜とまさ子の顔色を窺っています。
「はい、凜お姉さま。叔父さま、今日はとてもお疲れのご様子だったから。……お部屋を少しだけ整えて、いつものお茶を淹れて、早めに帰って来ました」
まさ子の微笑みには、一片の衒いもありませんでした。誰かに認められたいわけでも、見返りが欲しいわけでもない。ただ、大好きな叔父さまが、少しでも穏やかに休めるように。その一心で動くまさ子の所作には、万事、何の迷いもありません。
「まさ子。……お母さまたちには、まだ何も言っていないけれど。叔父さまとあなたの関係は、普通の家族の形とは違うわ。いつか、誰かを傷つけることになるかもしれないのよ。まず傷つくのはあなた自身。そして、お父さま、お母さま」
まさ子はそっと首を振りました。
「傷つけるなんて、そんなこと……。私はただ、叔父さまの側にいたいだけなんです。叔父さまの眉間の皺が、私の淹れたお茶でほんの少しだけ緩む。それを見ているだけで、私は胸がいっぱいになるの。……凜お姉さま、私は何かを頑張っているわけじゃないんです。何かが欲しいわけでもありません。叔父さまの身の回りのお世話をすることが、私にとって一番の幸せというだけ」
その瞳には、ふわゆるの奥に、鋼のような決して折れない意志が宿っていました。けれど、それは「戦い」の強さではなく、一切の不純物を排したしなやかな「受容」の意志でした。
「お父さまやお母さまが何を仰っても、私の気持ちは変わりません。だって、私の心はもう、叔父さまの隣にあるんですから。そしてもし、叔父さまが私を遠ざけようとしたとしても、私の心はただ、変わらずにそこにあるだけです。……叔父さまが、また健やかに眠れるようになるまで、何度でもお茶を淹れに行きます」
まさ子のそのあまりに透明な純粋さに、凜は息を呑みました。
凜が佑くんとの関係で悩み、自分たちが釣り合っているかに囚われて答えを出せずに苦しんでいる「愛」というものが、まさ子の前ではあまりに単純で、そして絶対的な真理として示されていました。まさ子は、自分自身の幸せすらも、邦明の安らぎの中に溶かしてしまっていたのです。
「……まあちゃん!あんたって子はっ……」
沈黙を守っていた茜が、堪えきれなくなったように声を上げて泣き出しました。
茜は、まさ子のその迷いのない瞳に、彼女が背負っている「想い」のあまりの深さを見てしまったのです。それは15歳の少女が抱えるには、あまりに美しく、そして切実な重みでした。
「まさ子、ごめんね……。あたし、まさ子がそこまで叔父さまのこと、一途に想ってるなんて、分かっていなかった。……応援する。あたしが、まさ子のこの幸せを絶対に守る。お母さまたちには絶対に内緒にする。まさ子が叔父さまの側で笑っていられるために、あたしが盾になるからね!」
茜はまさ子の肩を抱き寄せ、顔を埋めました。茜の涙は、まさ子の無償の愛に対する共鳴であり、その強さに対する最大の敬意でした。
「茜……、あなたまで」
凜は、抱き合う妹たちを見つめながら、自分の手をのせた分厚い参考書の感触を確かめました。正論、倫理、世間の目。それらが、まさ子のこの柔らかな、けれど決して揺るがない微笑みの前では、どれほど無力であるかを噛み締めざるを得ませんでした。
「……まさ子。分かったわ。そこまでの覚悟で、あなたが叔父さまの安らぎそのものになろうとしているというのなら。……私はもう、何も言わない」
翌朝。まさ子は早起きをして、まだ街が眠っている時間に邦明のマンションへと向かいました。
鍵を開けて入ると、仕事の疲れで深く眠っている邦明の姿がありました。まさ子は物音を立てず、手際よくキッチンに立ちます。出汁の香りが部屋に広がり、朝日が差し込む頃。
「……叔父さま。朝ですよ」
まさ子の穏やかな声に、邦明は微睡みの中で目を開けました。まだ意識が混濁している彼を、まさ子は優しく、流れるような所作で抱き起こします。寝ぼけている邦明を食卓に座らせ、その口に優しい味の煮物を運び、自分も隣で一緒に食べながら、時おり手を伸ばして彼の寝癖を指先で整えていく。
邦明は、されるがまま。まさ子の献身は、押し付けがましい「サービス」ではなく、朝露が草木を濡らすように、あまりにも自然に彼を包み込んでいました。
彼女の存在は、すでに邦明の日常における「安らぎ」そのものとなっていたのです。
「……まさ子。今日も、早いな」
「はい。叔父さまの朝ごはんを作るのが、私の一日の始まりですから。部活の朝練みたいなものです」
まさ子の微笑みは、春の光のように邦明の孤独を溶かしていました。
15歳の彼女にとって、これがこの世で最も誇らしく、そして代わりのきかない「自分」の在り方でした。
(了)




