8.噂話
宇宙服を着た学生たちが資材を手に施設の破損個所へと向かっていた。
地球であれば一人で持ち上げられない重さの資材も、重力が四割程度の火星なら重機を使わずに運べる。
しかし、一歩間違えば待っているのは死であることには変わらない。過酷な環境での作業はじわりと学生たちの精神を少しずつ削っていた。
「フリストス、そこ押さえておいてくれ」
トクタルは壁に補強材を当てると、手際よくトーチを動かして溶接した。
破損個所を塞いでから充填材で隙間を埋めて気密を確保する。
――施設の修理が終われば、三人部屋からも解放されるな……。
「結構上手いね。整備科に入っても良かったんじゃない?」
「何が悲しくて家業と同じことをしなくちゃならないんだよ」
フリストスの褒め言葉を素直に受け取れず、トクタルは憮然とした表情を返した。
トクタルの父親は自動車の修理工だった。幼い頃からレース場に連れて行かれ、車好きになったのは、自然な成り行きだったのだろう。
誕生日に父親が与えてくれたカートにのめり込んだのも、今となってはどこまで自分の意思だったのか自信がない。
その頃から父親の工場で働く年の離れた兄は、トクタルを冷ややかな目で見るようになった。
遠い記憶では仲のいい兄弟だったが、顔を合わせる度にトクタルを否定する言葉以外かけなくなった兄を疎んじていたとしても仕方のないことだろう。
トクタルがドライバー、父親がメカニックとなってレースに出るようになったのは、果たしどちらが言い出したことだったか。
ドライバーの腕もメカニックの腕もそれなりにあったのだろう。休みごとにキッズクラスのレースに出ては入賞するぐらいの結果を出した。トクタルは夢に向かって一歩ずつ進んでいる確かな手応えを感じていた。
風向きが変わったのはジュニアクラスに上がった頃だ。それまでとは比較できないほどレースに金がかかるようになった。
そしてトクタルの家には、そんな余裕はなかった……。
呆気なく夢が潰えたトクタルは、何もする気が起きないまま、父親の工場を手伝っていた。昔を思い出したかのように兄は優しく接してくれた。整備や溶接を教えてもらったのもその頃だ。
ある日、酔った兄が告解するかのように話し始めた。自分は何度も止めたが、父親と一緒にレースにのめり込むトクタルを止められなかったと。
そして自分も嘗ては父親と共にレースで夢を追っていたと……。
トクタルはいずれ潰えることがわかっている夢を与えた父親を恨むべきか、感謝すべきか、今でも答えが出せない。
ただ一つ、実家からは離れたくなり、無理を言って宇宙飛行士の道を選んだ。
「……問題なさそうだ。空気循環システムを再起動してくれ」
施設内に低い振動音と共にダクトから空気が流れだす音が続いた。
しばらくしてセンサーは気圧と酸素濃度が、生活に問題のないレベルであることを指示したまま安定する。
慎也は宇宙服のヘルメットを脱いで見せた。
「おう、修理完了だ! みんな、お疲れさん!」
固唾を飲んで見守っていた修理班から歓声が上がり、各々がヘルメットを脱いで新鮮な空気を肺一杯に吸い込んだ。
「ただの空気なのに美味いな……」
「空気の美味さは酸素濃度に左右されるらしいよ。宇宙服の中は酸素しか供給されないんだけどね」
フリストスの蘊蓄にトクタルは眉をひそめた。
「気分だよ、気分。労働の後の一杯が美味いみたいなもんだ」
「アルコールを飲める歳でもないじゃないか。まあ、解放感は感じるよね。施設から出られないとしても」
――いつも害のなさそうな笑顔をしているが、フリストスの奴でもイラつくことがあるんだな。
「何、イラついてるんだよ? フリストス」
トクタルはニヤッと口の端を上げると、フリストスの肩に手を回した。
「……そんな普通にしていられる方が僕には驚きだよ」
「三大欲求を満たしていれば、そうそう不満は出ないもんだ」
「安全欲求は満たされてないじゃないか……」
「その前に性欲の解消じゃねえか? 三人部屋だったしな」
「バ、バカなこと言うなよ!」
小声でやり取りをしていたが、突然ボリュームが上がった反応を気にしてトクタルは周囲を見渡した。
「お前、女には性欲がないと思っているタイプか?」
「そんなわけじゃないけど……。相手がいなくちゃ話にもならないよ」
「俺が友人として一肌脱いでやるって言ってんだよ」
「えっ、性的マイノリティーを差別するつもりはないけど、僕は女の子が好きなんだ」
「誰と誰がやるって思ってんだ……、そういう冗談はいらねえ!」
「……良かった。トクタルとはいい友人でいたいからね」
フリストスがいつもの陰りのない笑顔を向けた。
――俺は今、友人を止めたくなったよ。
「女を紹介してやるって言ってんだよ。相手も後腐れなくビジネスだ」
「……そういうこと!? でも、こんな時にお金を貯めたって仕方なくない?」
「対価は金じゃないな。物資だったり労働だったりってとこだ」
説明を聞いてフリストスが考え込むように顎に手を当てた。
「なるほどね。刑務所内の経済活動みたいだ。価値のあるものが貨幣として流通するのか……」
「そんなとこだな。相手の欲しいものを提供する。ウィンウィンの関係でいいじゃないか」
「トクタル、そのこと前から知ってたの?」
トクタルは首を左右に振って、噂を聞いたときのことを思い出した。
トクタルは食堂で遅い夕飯を食べていた。作業が長引いて深夜近くだったせいか、人影はまばらだった。
配給される食事は制限されて量はかなり少ない。皿の上に載せられた料理はフランス料理のように慎ましやかだった。異なるのは味を楽しむというよりは栄養を取得する目的の方が強い点だ。それは成長期の学生たちに不満を抱かせるには十分な理由だった。
「これっぽっちかよ! 俺たちは労働で死ぬほど腹が減ってんだぜ!」
配られた食事を見て声を荒げた長身の男が、配膳係の小太りの男に詰めよっていた。
トクタルは小太りの男は知らなかったが、長身の男を知っていた。警備科三年の三田慎也だ。あまり良い噂は聞かないが、人を使う術に長けているのか作業の監督役としては適任だった。肉体労働に回されるトクタルとは現場で良く顔を合わせていた。
「そんなこと言われても、制限がかかっているんだ。みんな同じ量だよ」
小太りの男は慎也の剣幕に押されながらも抗弁した。既に何度も同じことを言われて慣れていたのか、おどおどしながらもマニュアル対応のように淀みがない。
「あっ、そう。そういうことを言うわけだ」
慎也はすっと近くに寄ると、見下ろして威圧の度合いを高めた。
「ルールを破るわけにはいかないよ」
「お前が食糧を横流ししていることを知ってんだぜ」
慎也の声は小さかったが、トクタルの耳は捉えていた。
トクタルは面白く無さそうに皿の上のブロッコリーをフォークで転がしながら、無関心を装って事の次第を見守った。
「な、なんでそれを……」
「一年のアイツに貢いで、代わりに処理してもらってんだろ?」
「あ、いや……。なんでそれを」
「そんなことはどうでもいいんだよ。な、俺にも友情のお裾分けをしてくれよ」
小太りの男は力なく頷き、慎也の皿に料理を盛った。
「まあ、そんなことはどうでもいい。で、どうなんだよ?」
その後、トクタルは性欲に任せて心当たりを聞いて回ったことは記憶の隅に追いやった。
「気持ちはありがたいけど、断るよ」
「はあ? 本気で言ってるのか?」
「いや、正直凄く惹かれるけど、僕は身体だけじゃなく心でも繋がりたいんだ」
フリストルの真っ直ぐな目に貫かれて、トクタルの暗く濁った目が浄化されていく。
――何、こいつ……。天使か!?