7.回し車
「必ず助かる。俺を信じて付いて来てくれ!」
軌道エレベーターの崩壊まで間がないことを知った絢斗は逸る心を抑え、授業で習った避難マニュアルを思い出していた。
――各部屋には非常時の脱出用にレスキューボールが設置されているはずだ。少しでもここから離れなくては……。
少女の手を握って走り出すと、来た道を戻って少女の部屋に飛び込んだ。
壁際の装置を見つけて貼られている取扱説明書に目を通す。
――くそっ、内容が頭に入ってこない。焦ると余計に時間を食うぞ……。落ち着くんだ。
絢斗は震える手で操作手順をなぞった。
空気圧によってレスキューボールが広がるのを確認し、絢斗は少女を手荒に掴んで中に押し込んだ。
少女のあげた小さな悲鳴を気にも留めず、続いて絢斗も中に飛び込んだ。
「走れ! 死ぬ気で!」
絢斗はレスキューボールの中を這うようにして走り出した。
ハムスターが遊ぶホイールのようにレスキューボールが回り始める。勢いについていけない少女は上に下にぶつかりながら転がった。
轟音と共に訪れた衝撃波でレスキューボールは横っ飛びに吹っ飛んだ。
絢斗と少女はもみくちゃになりながら抱き合って身をかがめた。
「大丈夫か?」
レスキューボールが止まったのを感じて、絢斗は少女に声をかけた。
しかし、少女からの返事はなかった。
絢斗は手早く自分と少女の身体に異常がないか確認する。
少女は気を失っているようだが、怪我らしい怪我もなく、浅い呼吸を繰り返していた。
「はああああああああああ」
一先ず生き残ったことを実感して、絢斗の口から長い溜息が漏れた。
――レスキューボールが破れなかったことは、幸運以外のなにものでもないな……。
「んっ」
「おっ、気が付いた!」
少女は意識を取り戻すと、絢斗と見つめ合った。身を固めたまま視線だけを忙しなく動かして状況を把握しようとする。
眠りから覚めたら狭いレスキューボールの中で絢斗と抱き合っているのだ。少しぐらい挙動不審になっても仕方ないだろう。
「落着いてくれ。俺のことがわかるか?」
少女は無言で頷いた。ショートボブの栗色の髪が流れて顔にかかる。
「俺たちはレスキューボールの中にいる。危険が迫っていたので、緊急避難させてもらった。取り敢えず今のところ命の危険はない。オーケー?」
絢斗は少女を安心させるようにゆっくりと言葉を紡いだ。
「はい、あなたが助けてくれたんですね」
恰好を付けたつもりだったが、意外と普通の反応が返ってきて絢斗は気恥ずかしくなった。
「まあ、まだ助かったとは言えないんだけどな」
透明な素材で作られた小さな丸い窓を指さすと、離れた場所に施設が見えた。
「少し遠いですね……」
「しかも窪みに引っかかって動けない」
少女は目を見開いた後、レスキューボールの中から四方を押して確かめた。
「動きませんね」
「信用ないなあ……」
「あっ、いえ。そんなつもりじゃ」
「確かにどこの誰とも知れない怪しい男の言うことじゃな。俺は……」
絢斗は苦笑気味に名乗ろうとした。
「絢斗先輩、ですよね?」
「あれ? どこかで会ったか?」
「最初にそう名乗ってくれました」
少女は初めて不安げな表情以外の顔を見せてくれた。
「よく覚えていたな」
「はい、私、記憶力はいいので」
「それはかなり羨ましい。少し分けて欲しいぐらいだ」
「良いことだけでなく、嫌なことも忘れませんが」
少女ははにかんだような笑顔を向けて、深々とお辞儀をした。
「ラクウェル・クルーズ、航行科の一年です。助けてくれて、ありがとうございます」
「さて、助かる見込みだが……。誰かが救命信号に気付いてくれることを待つしかない」
「それは困りましたね。気付いてくれるでしょうか?」
「……難しいだろうな。向こうもきっと大混乱だ」
「では、こちらから積極的に動くしかないですね、先輩」
――彼女、全く取り乱さないな。こんな状況なのに、どうして落ち着いていられるんだ?
「何かいいアイデアはないか?」
「そうですね、この距離なら個人端末で連絡してみてはどうでしょう?」
絢斗は背中に流れる嫌な汗を感じた。
「あ、ああ、そうだな。試してみるか」
個人端末でエミリオを呼び出すと、ワンコールも鳴らない内に通信がつながった。
「絢斗! お前、生きていたのか! 一体、どこにいるんだよ!」
顔が火照るのを感じて、絢斗はラクウェルの顔を見ることができなくなった。
――エミリオ。俺、死にたい……。
しばらくして火星探索用のローバーに乗った宇宙飛行士たちが現れた。
周囲を入念に調べた後、レスキューボールはローバーに乗せられて施設に送り届けられた。
エアロックが解除されると、小さな窓越しに宇宙服のヘルメットを脱いだエミリオが手を振っていた。
絢斗はもどかしく感じながらも、手順に沿ってレスキューボールの扉を開けて飛び出した。
「エミリオ!」
抱き着こうとした絢斗の頭を片手で押さえて、エミリオがひらりと身をかわした。
「男に抱き着かれる趣味はねえ!」
「お前、こんな時に! 空気読めよ!」
「ははは、元気そうでなによりだ。生きていてくれて良かったよ……」
エミリオの目元が照明を受けて光った。
「俺もこうして再び、お前に会うことができて嬉しいよ……」
「ああ、レーシャにおごるのが俺一人でなくて、とっても嬉しい」
口をあんぐり開けたままの絢斗の背中を、エミリオが笑いながら何度も叩いた。
「お久しぶりです。エミリオ先輩」
「ラクウェル……、か?」
「はい、先輩も相変わらずですね」
「……お前も元気そうで何よりだ」
「ふふっ、心配してくれたんですか? 幸運にも絢斗先輩に助けられましたから」
ラクウェルは絢斗の腕にすがって身体を預けた。
「そうか、生きていてくれて良かったよ……」
微笑み返したエミリオの声は心なしか寂しげだった。