48.永い眠り
赤い砂が舞う荒野を一台のローバーが駆け抜ける。火星は生命の痕跡さえない不毛の大地だが、風景は実に多彩だった。丘陵や峡谷、砂漠からクレーターまで様々な顔を見せる。旅路を楽しむような心の余裕は生まれなかったが、飽きることのない美しい眺めに絢斗の興味は尽きなかった。
タイヤが大きめの岩を噛み、ローバーが大きく弾んだ。着地と同時に後輪が砂でスリップし、ハンドルを取られてルートを少し外れた。目的地までのルートは衛星からの映像を解析して、走り易い地形を選んでいる。高低差の激しい場所や足が取られる砂地を避けているが、細かな地形までは実際に走ってみるまでわからない。自動運転に全てを委ねることはできなかった。
すでに施設を出発してから20時間が経過していた。その間、絢斗は休むことなくローバーを走らせ続けている。AIによるナビゲーションを頼りに、ラリーに出場したドライバーより過酷な状況で運転する絢斗の精神は、得意先を回る営業の靴底のように徐々にすり減らされていた。
――予定より30分遅れている。もう少しペースを上げないと、タイムリミットまでに帰ることは難しいだろうな……。
最初からかなり無茶な計画だった。走行可能なルートは地形によって複雑に入り組んでいる。アウトバーンのように目的地まで最高時速で走り続けられるわけではないのだ。
想定外の小さな遅れが積み重なり、やがて取り戻せなくなるような大きな時間のロスを生む。そのときに犠牲にできるのは、元からそれほど多くもない安全マージンしかない。睡眠時間を削って走り続ける絢斗は、クライアントの無茶な要求を叶えようとする長距離トラックのドライバーのように、事故と紙一重の場所に立っていた。
車体の大きな振動を感じて不意に絢斗の意識が覚醒した。運転をしながら自分でも気付かない内に眠ってしまっていたようだ。大きな事故を起こさなかったことに胸をなでおろすと同時に背中を冷たい汗が流れる。少しでも睡眠を取るべきだ。それが正しい選択であることは理解している。
しかし、目的地に着いてから太陽光パネルの回収にどれだけ時間がかかるかわからない以上、ここは無茶をするところだと考えていた。あらかじめ用意していたカフェインの錠剤を飲んで無理矢理にでも意識の覚醒を促した。
薬を使って睡眠から解放されることは、身体の中に貯めこまれた生命力を絞り出しているに過ぎない。自分の身を削って輝くロウソクのようなものだ。いずれはその身を燃やし尽くしてしまうだろう。
気を紛らわす話し相手もいない長く辛いドライブは徐々に思考をネガティブなものに変えてしまっていた。旅の目的を疑い、杜撰な計画を罵り、自分の選択を嘲笑う。この行動は本当に正しい選択だったのか、今更答えを出しても遅い問いを何度も繰り返してしまっている。良くない傾向だと頭の片隅ではわかってはいても、問い続けること止められない自分がいた。
――俺は、一体何をしている? こんなことが何の役に立つ? いや、この旅が成功しないと、みんな生き残れないはずだ。レーシャの命も、そうだレーシャは……。
思考が断片的になり、上手く考えがまとまらない。既にハンドルには手を載せているだけで、八割方を自動運転に任せてしまっている。意識を失うと同時に覚醒したように感じるが、だんだん時間の感覚が把握できなくなってきていた。
絢斗はナビゲーションシステムが鳴らすアラームの耳障りな音で目を覚ました。ハンドルに突っ伏していた顔には帯状の跡がついている。どうやら運転しながら気を失っていたようだ。予定到着時間を1時間遅れた程度だったこと確認して、シートの背もたれに体重を預けた。
ほとんど綱渡りのような旅だった。大きなトラブルもなく、到着したことは幸運以外のなにものでもない。スケジュールの遅れを取り戻すために、すぐにでも回収を始めるべきだと頭の中では警告が鳴り響く。しかし、今は目的地に到着した達成感を噛みしめるように、しばらくその場を動けなかった。
なんとはなしに視線を巡らせると、そこに周囲から浮いた人工物があった。大気圏から落下した太陽光パネルは一見すると、大きなダメージを受けているようには見えない。薄い大気と低重力は深刻な影響を与えなかったようだ。ここまでの旅が無駄ではなかったことに、絢斗はありとあらゆる神に感謝した。
太陽光パネルは600kg以上の重さがある。そのままではいくら低重力とはいえ、一人の力では持ち上げられない。パネルを持ち上げられる大きさに分解して、次々にローバーに積み込んでいく。作業は順調に進み、全ての部品を詰め込んだのは二日目の夜だった。
――帰りは来た道をトレースするだけでいい。この調子なら間に合いそうだ。
絢斗はナビゲーションシステムにルートを設定すると、ローバーを発進させた。気を失っている間に少し睡眠が取れたようで、気分もそう悪くない。
暗闇の中でヘッドライトが照らし出す幻想的な風景に目が奪われた。夜空に輝く星の中には地球も含まれているのかもしれない。改めて地球から遠く離れた地にいること不思議な感慨を覚えた。
それは小さなきっかけだった。往路と同じようにタイヤが岩を噛んだだけだ。しかし、その結果は大きく異なった。大きく弾んだ車体が着地すると、荷台に積んでいた荷物が崩れ落ち、重心が大きくずれた。後輪はスリップし、慌てて踏んだブレーキによって、状況はさらに悪化した。車体は速度を落とさずに横滑りしながら進んだ後、横倒しになって転がった。
車体が裏返しにならなかったのは奇跡だった。洗濯槽で洗われた衣服のように、車内でもみくちゃにされた絢斗がドアを開けてふらふらと外に出てくる。宇宙服のヘルメットに頭を強く打ち付けた絢斗は額からおびただしい血を流していた。目に血が入りそうになるが、宇宙服の中では手で血を拭えなくてもどかしい。絢斗はそのまま地面に座り込んで、荒い息を整えた。
宇宙服から酸素が漏れ出している様子はない。額からの出血は気になるが、動脈が傷ついているわけではないだろう。自然に止まることを期待するしかない。頑丈な車体は転がった程度では壊れなかったようだ。荷台の中は崩れ落ちた荷物で酷いことになっているが、積み直している時間はないだろう。絢斗は意を決すると、ローバーに乗り込んで運転を再開した。
流れ出た血が右目の視界を奪って距離感がつかみにくい。車体の重心も偏ったままで速度を落とさざるを得なかった。このまま問題なく走らせたとしても到着時間はギリギリだ。一つのミスも許されない。焦る心を無理矢理押さえつけて絢斗は運転を続けた。
止まる様子のない血が胸元を濡らしていた。目の前の視界がぼやけて気を失いそうになる。それが睡魔によるものなのか、多量の出血によるものなのか、最早、絢斗にはわからなかった。途切れかけた意識を意志の力で無理矢理に呼び戻し、車を走らせ続けた。
――レーシャ、俺は必ず帰る、キミの下へ。だから、待っていて、くれ。
やがて絢斗の視界は真っ白な光に包まれて、そして意識を閉じた……。




