1.灯台守
火星――。
最接近時には地球との距離が5600万kmと、金星に次いで地球から近い惑星。
カーボンナノチューブの発見によって、何度も計画されてはとん挫していた軌道エレベーターが、アメリカ、中国、ロシア、サウジアラビア、インドの五ヶ国の協力によって遂に実現した。
人類はこれまでと比べ物にならない程、安価な宇宙への切符を手に入れたのだ。
その結果、起こったのは世界中を巻き込んだ熱狂的な宇宙開拓だった。最も手近な開拓地である月には各国の旗が立ち並び、大航海時代のアフリカ大陸を想起させた。
各国の利害が対立し、いくつかの不幸が重なった結果、最終的には軌道エレベーターを建造した五ヶ国が中心となって新たな世界秩序の枠組みが作られることとなり、混乱は終息した。
月から安定して資源が採掘されるようになると、人類の目は外へと向けられ始めた。
火星、金星、木星と順調に版図を広げつつあるが、そこに大きな問題が立ちはだかった。
時間だ――。
月で採掘されたヘリウム3を燃料とした核融合エンジンの開発により、火星までの行程が約三ヶ月に短縮されたが、木星まではまだ三年余かかる。
宇宙開拓の最前線で働くパイロットたちは地球までの長旅を二往復もすればもうベテランだ。
宇宙空間における推進力の技術革新も停滞気味となれば、人的資源の枯渇は現場の運用でなんとかするしかない。
比較的安全性の確保された火星や金星の資源採掘では、学生たちが主な労働力となっていた。
「なあ、なんで火星研修がマグロ漁船って呼ばれてるんだ?」
トクタル・バエケノフは宇宙船の操縦席で背もたれに身体を預けながら、隣で航行コンピューターと格闘中のフリストス・ペルナキスに声をかけた。
「昔はマグロを求めて一年以上も船に乗って漁をしたらしいよ。高額の給料と引き換えにね」
フリストスは頭が良い。成績はトクタルとそう変わらないが、どうでも良い蘊蓄は豊富に持っている。
そして何も起こらない監視任務の暇つぶしにはもってこいの相棒だ。
「嫌な話だねえ。今も昔も金に縛られるってのは……」
「船に乗るかどうかは自由意志だよ。金の稼ぎ方なんて無限にあるんだから」
トクタルもフリストスも奨学生だ。学生支援機構から奨学金を借りて学んでいる。
奨学金がなければ、学校に通い続けられるほどの経済的な余裕はなかった。
だが、火星研修に参加すれば、少なくない賃金が発生し、奨学金の一部が免除される。
奨学生に選択の余地など最初からなかった。
「自由意志をうたいつつ、選択肢を絞ってくるところが嫌らしい。自由に解約できますよって言いつつ、いろんなオプションで雁字搦めにする保険契約のようだ」
「何か保険に嫌な思い出でもあるの!? まあ、学校側は人員を確保できるし、学生側も金銭的に助かるんだから、それなりに良心的な制度だと思うけど?」
「個人的には奨学金という鎖で船に縛られて売られる奴隷の気分だがなあ……」
「随分悲観的じゃない。僕は研修のことがそんなに嫌いじゃないけどね」
フリストスの曇りのない笑顔に、トクタルの暗く濁った心が浄化されていく。
トクタルはそれほど強い不満を持っているわけではなかったが、こうして思ったことを口にすることで過度なストレスを貯めずに精神的なバランスをとっていた。
「お前、本当に……」
「えっ、何?」
「悩みが無さそうだな」
フリストスの笑顔が陰ったことに、トクタルは密かな愉しみを得ていた。
深い、深い海の底から水面を見上げたように、真っ暗だった視界の中で、揺れ動く映像が徐々に形を成していく。
時折走るノイズが分断されていた脳内のシナプスに信号が走り出したことを伝えた。
意識がゆっくりと覚醒していく感覚に絢斗は心地よさを感じていた。
――二度寝して微睡みの中にいるようだ。
「おはよう。気分はどうかな?」
浅黒い肌に白い歯をのぞかせて笑顔を見せる少年は、くっきりとした目鼻立ちをしているが、どこか幼さを残していた。
「……悪くない。というか割といい気分だよ」
「それは良かった」
絢斗は少年が差し出した右手を強く握り返すと、アイソレーションタンクから上体を起こした。
宇宙空間での長距離航行には然程、多くの搭乗員を必要としない。コンピューターが人間の代わりに働いてくれるからだ。AIでは判断できないようなトラブルのための監視員を数名置いておけばいい。
しかし、この宇宙船の目的は学生たちを火星へ送り届けることだ。多くの人間を生かすためには多くのリソースを割かなければならない。空気、水、食料、生活環境、何か一つが欠けただけで、あっけなく人命は失われてしまう。
宇宙船を動かすエネルギーは質量に比例して増大する。乗せる荷物は少なければ少ないほど良い。
結果、航行に必要のない人員は眠ったまま目的地へ送り届けられることになる。
コールドスリープ技術はまだ確立されていなかったが、パーフルオロカーボンを主体とした液体が充填したタンクの中で人間を冬眠状態とすることは可能となっていた。
「身体に異常はない?」
自分の身体でないような感覚は多少あったが、意思通りに手足は動いた。
絢斗はタンクの縁につかまって外に身体を引っ張り出すと、手足の関節を確かめるように動かしてみた。
魂と身体が二重写しになったような、はっきりしないもどかしさだけが残る。
「……問題なさそうだ」
少年は答えを聞いて微笑むと、改めて右手を差し出した。
「航行科一年のフリストス・ペルナキスです」
「二年の白石絢斗だ。よろしく」
「監視任務の交代です」
「ああ、灯台守か……」
眉をひそめた絢斗にフリストスは苦笑を返す。
「まあ、そう言わずに。麗しの姫君と一緒ですから、楽しんできてください」
トクタルが覚醒処置を行っているタンクには金髪の少女が眠っていた。華奢な手足は折れそうなほど細いが、インナーを押し上げるように存在を主張する胸が女性であることを声高に語っていた。
トクタルはタンクの扉を開けると、半覚醒状態の少女の両肩を掴んで引き上げた。
「おはよう! 気分はどうだ?」
少女はトクタルの顔をじっと眺めると、周囲の状況を理解したのか瞳に強い意志が現れた。
「……ええ、とってもいいわ。夢の国にいるみたい」
「差し詰め白雪姫ってところか?」
「毒リンゴを吐き出したりはしないけどね」
トクタルの無遠慮な視線を感じて、少女は両腕で肩を抱いた。腕に押しつぶされた胸をチラチラと横目で見ながら、トクタルは監視任務の引継ぎ処理を個人端末に打ち込む。
「……えーっと、先輩だよな。あんた名前は?」
「レーシャ・リトヴァクよ」
「レーシャ先輩か! いい名前だ」
「私も気に入ってるの。ありがとう」
レーシャは上目遣いでトクタルを見上げると、甘い声で囁いた。
「それじゃ、俺たちは眠らせてもらうぜ」
「後はよろしくお願いします」
トクタルとフリストスの二人は欠伸交じりに言い残すと、自分たちのタンクに身体を潜り込ませた。タンクが液体で満たされる音が響いた後、蓋につけられた緑色のランプが点灯した。
残された絢斗とレーシャは互いに動こうとしない。
船内を静寂が支配した。
「おはよう。気分はどうだ?」
沈黙に耐えられなくなった絢斗は、そっけなくレーシャに声をかけた。
「ああああああ、もう最悪よ! サ・イ・ア・ク! イライラするわ! なんなのあのゴリラ!? 自分が王子様にでもなったつもり? 野獣じゃない、野獣。人類から遠く離れてるっての! 誰の許しを得てベタベタ私に触っているのよ! 寝てる間にイタズラとか、性犯罪者として宇宙に放り出すべきね!」
レーシャの口から罵詈雑言が雨霰と飛び出してきた。
その程度では怒りが収まらないのか絢斗の胸倉を掴んで揺さぶりながら、ありとあらゆる悪態をつき始める。
絢斗は肯定の意志を機械的に返すしかない。こんな状態で意見を述べようものなら、矛先が自分に向いたうえに、何十倍にもなって返ってくることを姉との会話で学んでいた。
――麗しの姫君って……、外面だけは完璧なんだけどな。
レーシャも最初からこんな態度を絢斗に見せていたわけではなかった。
普段はどこに出しても恥ずかしくないお嬢様然としていて完璧な擬態で周囲を欺いている。
絢斗がレーシャの本性を知ったのは人間観察に長けていたからではなく、不幸な出会いのせいだった。