第1話 午前零時、私だけが置き去りにされた
王子様に選ばれなかった少女は、午前零時に死ぬ。
少なくとも、この国ではそういうことになっている。
もちろん、本当に命を落とすわけではない。
鐘が十二回鳴り終わると、魔法が解ける。馬車はかぼちゃに戻り、白馬は小さな鼠になり、舞踏会に集まった人々は夢から覚める。
そして、王子様はガラスの靴を手がかりに、運命の少女を探し始める。
誰もが知っているおとぎ話だ。
最後には少女が王子様と結ばれ、幸せに暮らしました。
めでたし、めでたし。
ただし、その物語に登場する少女が、たった一人だったとは限らない。
「エラ。聞いているの?」
母の声に、私は顔を上げた。
「聞いています、お母様」
「それなら、返事をなさい。今夜の舞踏会には、あなたも出席するのでしょう?」
「私が、ですか?」
思わず聞き返すと、母は露骨に眉をひそめた。
「ほかに誰がいるというの?」
母の隣では、姉のアデリーナが鏡の前で髪飾りを合わせている。
金糸を織り込んだ淡い桃色のドレス。首元には真珠の首飾り。彼女の姿は、絵本から抜け出してきたお姫様のようだった。
一方の私は、洗濯物の山の横に立っている。
舞踏会に着ていくドレスなど、持っていない。
「お母様、私には着ていくものがありません」
「そうね」
母は、少しも悪びれずに答えた。
「だから、あなたは家に残りなさい」
「……はい」
いつものことだった。
期待して、失望して、それでも翌朝にはまた期待してしまう。
そんな自分が嫌になる。
アデリーナが鏡越しに私を見た。
「かわいそうなエラ。王宮の舞踏会なんて、あなたには縁のない場所よ」
「そうね」
「王子様に見初められるのは、きっと私だわ」
「そうなるといいわね」
本心からそう答えたつもりだった。
少なくとも、このときの私はそう思っていた。
夜になった。
母と姉を送り出したあと、私は一人で暖炉の火を見つめていた。
薪が爆ぜる音がする。
窓の外では、王宮の方角から音楽が聞こえていた。
遠く離れているはずなのに、弦楽器の音色は風に乗って、かすかに届いてくる。
王子様は今頃、誰と踊っているのだろう。
そんなことを考えて、私は自分の頬を軽く叩いた。
馬鹿みたいだ。
私が舞踏会に行けないことくらい、最初から分かっていた。
それなのに、どうして胸が痛むのだろう。
「……一度くらい、行ってみたかったな」
誰にも聞かれないように呟いた。
そのときだった。
背後で、乾いた音がした。
振り返ると、暖炉の火が青白く揺れていた。
炎の向こう側に、見知らぬ女性が立っている。
銀色の髪を結い上げ、古びた杖を持った女性だった。
「そんなに行きたいの?」
「え?」
「舞踏会よ」
女性は、私の顔を覗き込んだ。
「行きたいなら、連れていってあげてもいいわ」
私は目を瞬かせた。
「あなたは……?」
「魔法使い。そう呼ばれることが多いわね」
冗談だと思った。
けれど、女性の手に握られた杖の先から、小さな光がこぼれている。
「ただし、ひとつ条件がある」
「条件?」
「あなたは、今夜のことを忘れてはいけない」
「どういう意味ですか?」
魔法使いは答えなかった。
代わりに、杖を振る。
灰色だった私の服が、淡い銀色に染まっていく。
袖口には細かな刺繍が浮かび、裾には星屑のような光が散った。
鏡の中にいたのは、見知らぬ少女だった。
「素敵なドレスでしょう?」
「……はい」
「それなら行きなさい。あなたにも、今夜を楽しむ権利はあるわ」
女性が微笑む。
「ただし、午前零時までには帰ってくること」
私は頷いた。
このときの私は、まだ知らなかった。
このドレスが、何度夜を繰り返しても、私から離れなくなることを。
王宮の舞踏会は、想像していたよりもずっと眩しかった。
天井には無数のシャンデリアが吊るされ、磨き上げられた床には光が反射している。
楽団の演奏に合わせて、着飾った人々が踊っていた。
誰もが笑っている。
誰もが幸せそうだった。
私は壁際に立ち、手袋の裾を握りしめた。
場違いだ。
ここにいる誰もが、私よりも美しく、賢く、立派な身分を持っている。
それでも、帰りたいとは思わなかった。
「お嬢さん」
声をかけられた。
振り返ると、そこに一人の青年が立っていた。
金色の髪に、澄んだ青い瞳。
王宮の紋章が刺繍された礼装を身につけている。
王子様だった。
「お一人ですか?」
「は、はい」
「よろしければ、一曲踊っていただけませんか」
差し出された手を、私は見つめた。
夢を見ているのかと思った。
彼が、私に。
私のような人間に。
「私でよろしいのですか?」
「もちろん」
彼は笑った。
その笑顔を見た瞬間、私は恋に落ちた。
たった一曲。
ほんの数分。
それだけで、私の世界は変わってしまった。
彼は優しかった。
踊りに慣れていない私が足を踏みかけても、笑って許してくれた。
好きな花を尋ねられ、答えに困っていると、庭に咲いていた白い花の話をしてくれた。
「あなたのお名前を聞いても?」
「エラです」
「エラ。素敵な名前ですね」
彼は私の名前を繰り返した。
たったそれだけのことが、どうしようもなく嬉しかった。
踊り終えたあと、彼は別の招待客に呼ばれて離れていった。
私はその背中を見つめていた。
もう一度、話がしたい。
もう一度、名前を呼んでほしい。
そんな願いを抱いた自分に、少しだけ驚いた。
そして、彼は再び戻ってきた。
今度は、一人の少女を連れて。
彼女は、淡い金色の髪を持ち、月明かりを閉じ込めたような白いドレスを着ていた。
その姿を見た瞬間、周囲のざわめきが止まった。
まるで、世界中の人々が彼女だけを見るために息を潜めたようだった。
「皆さんに紹介したい方がいます」
王子様が少女の手を取る。
「こちらは、今夜私が出会った、特別な方です」
少女は恥ずかしそうに俯いた。
頬を赤く染め、王子様の手を握り返す。
誰もが二人を祝福していた。
私は拍手をした。
ほかの人たちと同じように。
指先が痛くなるほど、強く。
彼が幸せそうに笑っていたから。
それだけでよかった。
それだけで、よかったはずだった。
十二時を告げる鐘が鳴った。
一回。
二回。
三回。
私は窓の外を見た。
魔法使いの言葉を思い出す。
午前零時までには帰ってくること。
けれど、もう遅かった。
四回。
五回。
王子様と少女は、広間の中央で見つめ合っている。
六回。
七回。
私は自分の手を見た。
八回。
九回。
ドレスの裾が、少しずつ光を失っていく。
十回。
十一回。
そして、十二回目。
世界が白く染まった。
目を覚ますと、私は自分のベッドにいた。
窓から朝日が差し込んでいる。
「エラ! いつまで寝ているの!」
母の声が聞こえた。
私は跳ね起きた。
暖炉のそばには、昨夜と同じ洗濯物の山がある。
鏡の前には、姉のアデリーナがいる。
金糸を織り込んだ淡い桃色のドレス。
首元には真珠の首飾り。
「今夜の舞踏会には、あなたも出席するのでしょう?」
母が言った。
私は息を呑んだ。
その言葉を、私は知っている。
まったく同じ声で。
まったく同じ表情で。
昨日、聞いたはずの言葉だった。
「お母様……今日は、何日ですか?」
「何を寝ぼけたことを言っているの。舞踏会の日でしょう」
「そんな……」
「エラ?」
私はベッドから飛び出し、窓に駆け寄った。
空には雲ひとつない。
時計の針は、朝の八時を指している。
昨日と同じ朝だった。
いや、違う。
昨日の続きではない。
昨日が、もう一度始まっている。
「エラ。聞いているの?」
母の声が遠くなる。
私は自分の胸元に手を当てた。
そこに、何かが触れた。
布だった。
灰色の布。
昨夜、魔法使いが着せてくれた銀色のドレス。
その一部が、私の寝間着の下に残っていた。
私は震える指で、それを引き出した。
銀色だったはずの布は、色を失い、くすんだ灰色に変わっていた。
けれど、消えてはいなかった。
その布には、小さな染みがついていた。
王子様と踊ったとき、彼の靴が踏んだ場所。
私は覚えている。
あのとき、彼は謝ってくれた。
「申し訳ありません。大丈夫ですか?」
たった一度の会話。
彼にとっては、忘れてしまっても構わないような出来事。
それなのに、私には忘れられなかった。
「……夢じゃ、なかった」
私は布を握りしめた。
その瞬間、暖炉の方から声がした。
「そう。夢じゃないわ」
振り返る。
そこには、昨夜の魔法使いが立っていた。
銀色の髪も、古びた杖も、何ひとつ変わっていない。
ただ、昨日と違うことがひとつだけあった。
彼女は、私の手にある灰色の布を見て、ひどく悲しそうな顔をしていた。
「あなた、覚えているのね」
「どうして……時間が戻ったんですか?」
「それは、あなたがまだ物語の結末を迎えていないからよ」
「結末?」
魔法使いは答えず、窓の外を見た。
「今夜も舞踏会が開かれるわ」
「また……?」
「ええ。王子様は、今夜もあの少女を選ぶでしょう」
胸の奥が痛んだ。
昨日と同じ結末。
昨日と同じ失恋。
そして、昨日と同じ午前零時。
「どうして私だけが覚えているんですか?」
魔法使いは、しばらく黙っていた。
やがて、私の手を取る。
その指先は、ひどく冷たかった。
「エラ。ひとつだけ、覚えておいて」
彼女は私の灰色のドレスを見つめた。
「そのドレスを、決して脱いではいけない」
「どうしてですか?」
「それはね」
魔法使いの瞳に、初めて恐怖が浮かんだ。
「あなたが、この物語の登場人物ではなくなり始めている証拠だから」
そのとき、時計が鳴った。
午前九時。
舞踏会まで、あと十五時間。
私は灰色の布を握りしめた。
昨日と同じ一日が、また始まる。
けれど、ひとつだけ違うことがある。
私はもう、何も知らない少女ではなかった。
王子様が誰を選ぶのかも。
午前零時に何が起きるのかも。
すべて知っている。
それでも。
それでも、私は彼に会いたいと思っていた。
どうしようもなく、愚かなことに。




