19ーリーゼ
とっても、はらっても、しつこい蜘蛛の巣
そんな絡み方をする人っていますよね…
知らない間に関わると疲弊してしまう…
北方辺境伯家では、隣国との婚姻に合わせた交易路の整備が本格的に始まっていた。冬季に閉ざされる街道を避ける経路を調べ、どこに中継倉庫を置けばいいか、どの商品なら冬でも運べるかを一つずつ整理していく。忙しかった。
王宮にいたころと変わらないくらい遅くなる日も、たまにはあった。けれど、不思議と朝は怖くなかった。忙しい理由がわかるからだ。何を終わらせれば今日は帰れるのかがわかる。間に合わなければ、間に合わないと言える。何かを追加するなら、その分何を後ろへ回すのかを相談できる。それだけで、同じ「忙しい」がまるで違った。
半年ほど経ったころ、アデラインに呼ばれた。「これ見て」
渡されたのは、領内の物流費をまとめた表だった。
前年と比べて、かなり下がっている。
「あなたが経路を組み直したところ、特に大きいわよ」
「冬季の迂回便をまとめたのが効いたんだと思います」
「それもあなたが提案したんでしょう?」
「はい」
「じゃあ、あなたの成果じゃない」
あまりにも普通に言われて、返事が遅れた。
「どうしたの?」
「いえ」
リーゼは表を見た。王宮にいたころなら、こういう成果は部署の成果になった。それ自体は別におかしくない。ただ、誰が何をしたのかまで曖昧になった。
ここでは、アデラインは「あなたがやった」と言う。もちろん、全部を一人でしたわけではない。
だからリーゼも言った。「経路の確認は現地の方にかなり手伝っていただきました。倉庫の条件はテオドールさんにも」
「うん。だからその人たちの成果でもある。あなたの成果が消えるわけじゃないでしょう?」
簡単な話だった。リーゼは少し笑った。
「そうですね」
「やっとその返事するようになったわね」
「以前は違いましたか?」
「何か褒めると、すぐ誰かのおかげですって逃げてた」
「逃げていたつもりはありません」
「知ってる。でも、最近はちゃんと受け取るようになった」
そうだろうか。自分ではよくわからない。
けれど、昔の手帳へ書いてあった「助かった」「次から任せる」という言葉を見ても、もう胸が痛まなくなっていた。
王宮へ入る前の自分と、今の自分が少しずつつながってきたような気がした。昔アデラインが探していた保温魔石も、改良品が完成した。北方の山村でも十分使える。
試験導入の日、リーゼも現地へ同行した。小さな家の中で魔石を起動すると、冷え切っていた空気が少しずつ緩んでいく。
村の老女が、何度も手をかざした。「暖かいねえ」
アデラインがリーゼの横で言った。「覚えてる?」
「もちろんです」
「あなた、最初のやつ売ってくれなかったのよね」
「使えませんでしたから」
「商売人失格」
「店主にも似たようなことを言われました」二人で笑った。
十六歳のころには、こんなところまで来るとは思わなかった。あのとき売らなかった魔石が、何年も経って別の形でここにある。仕事というものは、こういうところが面白かったのだ。すぐ結果が出るものばかりではない。調べたことが何年もあとで役に立つこともある。誰かと話して、できないことをできる形に変えていく。リーゼは、そういうことが好きだった。
テオドールとも、仕事で顔を合わせることが増えていた。
ある日、隣国側から届いた輸送計画を見て、リーゼは眉を寄せた。
「この日程では無理です」
向かいにいたテオドールが資料へ目を落とす。「理由は?」
「峠を越える荷馬車が足りません。予定どおりなら、こちらの鉱石便を二日遅らせる必要があります」
「鉱石便を遅らせると?」
「工房が止まります」
「では、こちらを三日延ばせば?」
「それなら可能です」
「そうしましょう」話が終わった。
リーゼは思わずテオドールを見た。
「何です?」
「いえ」
「何か見落としが?」
「ありません」
「では?」
少し迷ってから、リーゼは笑った。「話が早いなと思いまして」
テオドールは不思議そうだった。「無理なものを無理だと言われたので、できる日程を聞いただけですが」
「そうですよね」
「ほかに何を?」
「何でもありません」
「そうですか」
テオドールはまた書類へ戻った。愛想はあまりない。けれど、話が通じる。それがリーゼには心地よかった。
別の日、テオドールから、「あなたは確認が細かいですね」と言われた。
反射的に、「申し訳ありません」と答えた。
テオドールが顔を上げた。「なぜ謝るんです?」
「細かすぎましたか?」
「いいえ」
少し考えてから、「間違いが減るので助かっています」と言った。
リーゼはしばらく黙った。同じ性質を、王宮では考えすぎだと言われた。
融通が利かない。
要領が悪い。
細かいところばかり見る。
ここでは、間違いが減るので助かると言われる。
「リーゼ?」
「すみません」
「また謝っています」
「あ」
テオドールが少しだけ笑った。初めて見た気がした。
「癖ですか?」
「……たぶん」
「では、直すのは時間がかかりそうですね」
「そうですね」
「急がなくてもいいでしょう」
それだけだった。なぜか、その日は一日気分がよかった。
***
アデラインの婚姻の日取りが正式に決まると、隣国との往来はさらに増えた。婚約者は国境伯家の次男で、兄が家督を継ぐため、婚姻後はアデラインのもとへ婿入りする。当然、彼に仕える者の一部もこちらへ移る。
テオドールもその一人だった。
「こちらへ来られるんですね」確認のつもりで言っただけなのに、テオドールがこちらを見た。
「はい」
「そうですか」
「何か問題が?」
「いえ。交易の調整がしやすくなると思いまして」
「そうですね」それで終わった。
少し離れたところで、アデラインがこちらを見ていた。目が合った。妙な顔をしている。
「何ですか」
「別に」
「何かありますよね」
「ないわよ」
絶対に何かある顔だった。
***
翌春、リーゼは二十四歳になった。辺境伯家で働き始めて一年。交易管理の仕事も正式に任されるようになった。
その春、新しい職員が一人入った。地方の農村出身の少女だった。初日の説明をリーゼが担当することになった。
「こちらが基本手順書です」
冊子を渡すと、少女は厚みに驚いた。「こんなにあるんですか?」
「全部を最初から覚えなくて大丈夫ですよ。最初の頁に、最初の一月で必要なところをまとめています」
「はい」
「わからなければ聞いてください」
少女は少し迷った。「こんなことも知らないのかって、思われませんか?」
その言葉に、リーゼは手を止めた。昔の自分なら、何と答えただろう。いや。昔の自分は、そんなことを心配していなかった。最初の商会では、わからなければ聞けと言われたからだ。
「思いません」
少女が顔を上げた。
「知らないことを聞くのは、恥ずかしいことではありません」
「でも、常識だったら」
リーゼは少し笑った。
「教えてもいないことを常識と呼んで責める人がいたら、その人の説明が足りないんです」
少女が目を丸くした。
少し言いすぎたかもしれない。
「それに、私にも知らないことはあります。そのときは一緒に調べましょう」
「はい」今度は安心したように笑った。
その顔を見て、リーゼも少し笑った。自分が昔してもらったことを、ようやく誰かに返せた気がした。
その日の夕方、国境から届いた書簡が机に置かれていた。差出人はテオドールだった。
大半は仕事の報告である。予定どおり読み進め、最後まで来たところで、一行だけ私信らしいものが添えられていることに気づいた。
――春に来られると聞きました。こちらも、そのころには雪が解けています。
しばらく、その一行を見た。
「何て?」いつの間にかアデラインが後ろにいた。
リーゼは書簡を伏せた。「業務連絡です」
「へえ」
「業務連絡です」二度言った。
アデラインは笑った。
「何ですか」
「何でもないわよ」
「最近、そればかりですね」
「そのうち自分でわかるんじゃない?」
「何がですか?」
「ほら、そういうところ」
また笑われた。
何の話なのか、やはりよくわからなかった。仕事が終わり、窓を閉めようとして、遠くの山を見た。
まだ雪が残っている。
王宮を辞めたばかりのころ、リーゼは仕事そのものが嫌いになったのだと思っていた。
朝になるのが嫌だった。
通信を開くのが怖かった。
誰かに名前を呼ばれるだけで、今度は何を間違えたのだろうと考えた。
自分はもう、働くことに向いていないのではないかと思ったこともある。
でも、違ったらしい。知らないことを覚えるのは、今でも楽しい。昨日できなかったことができるようになるのも嬉しい。誰かの困り事が片づいて、助かったと言われれば嬉しいし、自分が調べたものが何年もあとに誰かの役に立つのも嬉しい。仕事は、嫌いではなかった。嫌いになったのは、何をしても間違いにされることだった。
話しているのに話が通じないこと。
助けを求めても、求めた先まで機能しないこと。
それでも、自分の方がおかしいのだと思わされ続けること。
王宮にいたころの自分を思い出すと、やはり蜘蛛の巣に絡まっていたのだと思う。
一本一本は細い。
払おうと思えば払えるように見える。けれど一本を取ろうと手を伸ばすと、その指に別の糸が絡む。そちらを取れば今度は手首につき、髪につき、顔につく。そのうち、どの糸が最初だったのかわからなくなる。動けば動くほど絡まって、最後には、自分がどうしてそこでもがいているのかまでわからなくなる。
外へ出て、ようやくわかった。
蜘蛛の巣の中にいるときには、自分が捕まっていることさえ、わからないことがある。
リーゼの場合は、身体が先に止まってくれた。そして、外から見て「それはおかしい」と言ってくれる人がいた。もしアデラインとあの日会わなかったら。もし蕁麻疹が出なかったら。まだ王宮にいたかもしれない。
そう思うと、少し怖い。
十五歳で村を出たとき、自分がどこまで行くのかなど知らなかった。
二十歳で王宮に採用されたときは、ようやく辿り着いたと思った。
二十三歳で辞めたときには、五年かけて手に入れたものを全部失ったような気がした。
どれも違った。王宮も途中だった。そこを出たから、今ここにいる。リーゼは机の上の書簡をもう一度見た。春になれば、また国境を越える。
向こうでは、もう雪が解け始めているらしい。
その先で誰が待っているのかについては、今はまだ考えないことにする。ただ、今年はいつもより、春が来るのが少し楽しみだった。
――完――
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