幕間 緑が青々と輝き始めれば
何となく書きたくなったので。
同じく、読まなくてもまったく問題ありません。
幕間のくせに長いという……。
第二王子が用意したという隠れ家は、いかにもみすぼらしかった。白と黒の木組みの民家というのは周囲と同じだが、屋内は長い間放置していたのか傷みが激しい。
整えられているのは、台所と寝室の二部屋だけ。最初は廃屋かとさえ思ったが、一人で短期間だけ住むなら大した不自由はないのだということを、イディオはこの一週間で実体験した。
「さて、これで荷物は全部ですか?」
「さあ?」
自分の荷物を大して大きくもない背負い袋に詰め終わったクレオン・クィントゥスに、イディオは適当に答えた。
別に嫌がらせではなく、イディオは自分の荷物というものを把握していなかった。一昨日にもフィイアが来て幾つかの荷物を置いていったが、何が入っているかは全く関知していない。
「ま、フィイア先生が持ってきた物はひとまず全部持っていきましょうか。精査はあちらでもできますから」
クレオンは特に気を悪くした様子もなく、てきぱきと荷造りを進める。それをぼんやりと眺めながら、ずっと気になっていたことを聞いてみた。
「……君、随分普通なんだね」
「はい?」
「小夜といた時には、あまり常識とか礼儀は気にしない質かと思ったんだけど」
玄関付近に荷物をまとめていたクレオンが、一瞬目を大きくしたあと、にかりと笑った。
「これでも、由緒正しき侯爵家の次男なもので」
「……ふーん」
成る程、小夜の知り合いだけあって、基本的に一筋縄ではいかないらしい。
「同行するのは君だけ?」
「フィイア先生と、あとは護衛が一人つくとは聞いていますよ」
「げぇ」
護衛と言われれば、思い付くのは一人しかいない。道中の小言に今からげんなりしてしまう。
「何が『げぇ』だ、失礼だな」
ごつん、と後頭部を殴られた。振り向けば、荷物を積むために馬車との間をこそこそと往復していたイスヒスである。どうやら、ただの荷物運びではなかったらしい。
「イスヒス」
「『兄ちゃん』を付けろ。お前はもうただのガキだからな。『様』もなしだ」
神の子でなくなったイディオにはもう対等に接すると宣言があったのは、この家に来てすぐのことだ。そもそも正式な場以外には大して敬っていなかったではないかと思わないでもなかったが、言うと傷付きそうなので黙っておいた。
決して、久しぶりに『お前』と呼ばれたのがこそばゆかったからではない。
「言っておくけど、ぼく本当は三十三歳とかくらいだからね。いつまでもガキ扱いしないでよ」
「知るか」
ぶっきらぼうに言って、くしゃりと頭を掻き回される。
(乱れた……)
ただでさえ癖毛でまとまらないのに、余計に跳ねるではないか。
だが、言うほど悪い気分ではなかった。思えば、そんな風に肩の力を抜いたような笑みももうずっと見ていなかった。
神の子の側にいた彼は、冗談を言っていても、いつも心配するような、後悔するような色が抜けなかった。
本来のイスヒスは、それこそ小夜がいた時のような、ぶっきらぼうながら面倒見が良くて、からかうとすぐ怒るような、フィイアの良き悪友だった。
「兄さんは?」
「お前の好きなくそ甘い菓子をたんまり買い込んでくるってよ」
「……そう」
甘い菓子を好んで食べていたのは、毎日縋るようにやってくる信者たちに面会するのに、思う以上に神経を使って疲労困憊になっていたからだ。
それが突然なくなって、甘味への欲求も不思議と鳴りを潜めていた。形容しがたい罪悪感や背徳感はあるが、それだけだ。
(……そう言えば)
治癒目的でのナイフでの自傷行為を止められたのは、思えば小夜が初めてであった。聖泉に血を混ぜる必要があると言えば、皆期待の眼差しを向けるだけで、それが「痛い」かどうかなど、誰も指摘さえしなかった。
フィイアだけは神の子の奇跡に最後まで賛成しなかったが、あのイスヒスでさえ、治癒のためならばと受け入れた。
(変なの)
ナイフの切り傷が有りすぎて、すっかり皮膚の固くなった指先を見る。
小夜は傷を治しに来たわけではないから、辞退しても不思議ではない。それでも、自分でさえ忘れていた痛みを思い出させた小夜の言葉は、静かにイディオの胸に留まっていた。
(また会える……わけないか)
小夜は天上に還った。事実は多少違っても、現実にはそうなっている。再び会うことは難しいであろう。
(大精霊クレーネー! お願いだから、応えて……!)
あの日、イディオは最後の希望に泣きながら縋った。細い血の筋がゆっくりと水にぼやけていくのが、絶望の形に見えた。
そこに、声は響いた。
《随分と騒がしい。また来客か》
男とも女ともつかない、中性的で高慢な声。
(本当に、応えた……)
血を捧げるという、たったそれだけのことで。
イディオはその時、喜びよりも怒りを覚えた。精霊と呼ばれながら、結局その行動は病を治せとやってくる人間と変わらないではないか、と。
たった数滴の血を欲している。
《生くる気も死ぬる気もない者が何用じゃ。疾く去ね》
(訂正を!)
煩げなその声に、イディオは咄嗟にそう言っていた。小夜のせいだ。変なことばかり言うから、畏怖まで薄れてしまった。
(『手前らが死ぬまで』死なないと言ったけど、目的は果たした! 『手前ら』の中に、あなたは含めていないんだ!)
《血の誓いに、『訂正』か。実に実に図々しい》
(誓ったのは!)
ぼくじゃない、と言いかけて、寸前で別の言葉が滑り出ていた。
(取り戻すことだった。殺すことじゃ、ない)
そうだ。名前も知らない始まりの乙女は、誰も彼もを殺したかったわけじゃない。奪われたものを、ただ取り返したかっただけだ。
愛する家族を、帰る故郷を、幸せな日常を。
ただ、愛惜していた。
果たして。
《然り》
短い沈黙の果てに、人ならぬ者はそう言った。そして、
《さても、詰まらぬものじゃ……》
憮然とそう続けて、それきり反応はなかった。
(詰まらぬって、なんだよ)
それは、考えれば考えるほど腹が立った。自分たちを玩具にして面白がっていたとでもいうのか。
(……小夜なら、何て言うかな)
ふと、栓無いことが頭を過った。イディオと小夜では、見方も考え方もまるで違う。分かるはずもない。そう思ったのに。
『それじゃあ、たまに遊びに来ます。詰まらなくないように』
莞爾と笑う小夜が自然と思い描かれて、イディオは目をぱちくりと瞬いた。
(……そっか。あんな所にずっと独りじゃ、詰まらないか)
その気持ちなら、イディオにも分かる。イディオもまた、あの場所から動けず、ずっと独りだと思っていたから。
けれど。
「ほら、手伝え」
物思いに沈んでいたのにイスヒスにそう言われ、イディオは困りながら手を出す。
「重いもの持ったことないんだけど」
「嘘言うな。昔は見習いで掃除とかしてただろ。どれも満杯の桶よりは軽い」
「……昔のことばっかり」
「うるせぇ」
いつの間にか爺むさくなったなぁとしみじみ思う。その内子供の頃の話をするだけで泣くんじゃないかと思ってしまう。
(別に、独りじゃなかった)
イスヒスはいつも小煩く側にいたし、フィオンの世話は少しだがツァニスとしたし、アデルとルフィアは病を治したというだけでイディオに懐いた。
そして、兄は。
(……もう、体は使えないのかな)
兄の体を間借りする感覚が、イディオは好きだった。感情も行動も兄のものだが、二人の感覚が入り交じって、どちらがどちらか分からなくなる瞬間が多々あった。
あれが兄の魔法の力だけなのか、大精霊の呪いの影響があったのかは、イディオには分からない。
遠くて近い、たった一人の肉親。
(……どうしよう。どんな顔して会えばいいんだ?)
今までは、互いに様々な感情が間に横たわって、まともに目を合わせることすらなくなっていた。小夜が来て初めて、感情に任せてぶつかった。
でもあれから、また目を見られなくなっている。
(べ、別に、普通に、今まで通り……)
「そう言えばフィイアが」
「ッ」
「学寮での同室相手が決まったとか言ってたぞ」
突然名前を出され、イディオは荷物を取り落とすかと思った。じろりと、イスヒスを恨めしげに睨む。
「な、なんだよ?」
「別に。……それで、誰?」
「第三王子だ。同い年らしいぞ。学年が一緒になるかは知らねぇけど」
「第三王子? そんなのいたっけ」
「お前なぁ」
イスヒスが呆れたような声を上げる。
世間一般の常識くらい知っておけと言いたいのだろう。だがカノーンから一生出ることなどないと思っていたイディオにとって、外の世界など天上と同じくらい未知の場所だ。
(第二王子の弟じゃ、ろくな奴じゃないな)
とりあえず、同輩のように接してきたら、こちらが年上だということをきちんと分からせてやらねばなるまい。
(そう言えば、ツァニスも王都の聖拝堂にいるんじゃなかったっけ?)
二度と会えないと思っていたが、まさかこちらから会いに行ける日が来ようとは。きっと驚くだろう。気付かないようなら、しばらくは別人の振りをしてみても面白いかもしれない。
(面白い、なんて)
随分考えていなかったことだと、不思議に思う。
こんなことになったのは、誰のお陰だろうか。
(小夜? でも、始まりは兄さんだし、それに……)
思い返せば、今までのイディオの世界に比べて、今回のことは関わった者が多すぎる。その内、イスヒス辺りが全員にお礼を言いに行けと言い出すかもしれない。
(それはちょっと面倒くさいなぁ)
だが、それもこれも、全てはこれからだ。
雪が解け、春風が吹き、緑が青々と輝き始めれば――。
これにて、ひとまずこの章はおしまいとします。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございました!