第29話:『創造主のオフィス、あるいは最上階のコーヒーブレイク』
第29話:『創造主のオフィス、あるいは最上階のコーヒーブレイク』
不夜城の朝は、驚くほど静かだった。
あれほど街中を圧迫していた紫色のスモッグは嘘のように引き、ネオンの毒気が抜けたビル群は、まるでただの巨大なコンクリートのオブジェのように朝日に照らされ、静かに佇んでいる。
つい先ほどまで、終わらないノルマの重圧に引きずられ、うつむいて歩いていた顔のない影たちも、プログラムの呪縛から解き放たれたように光の粒子となって、青い空へと溶け去っていった。
その光景は、戦いの終わりを告げると同時に、どこか寂しげな、一つのシステムの終わりを予感させる静けさに満ちていた。
中央タワーの最上階へ続く、螺旋状のハイウェイ。
急勾配の坂道を、確かなエンジン音を響かせながら登っていく魔導キャンピングカー『トリオ・ハウス』の車内には、ナツキが要求した通りの「暴力的に香ばしい匂い」が満ちていた。
外の殺伐とした光景とは裏腹に、車内には確固たる「大人の放課後」の空気が流れている。
「よし、カズヤ。この豆の挽き具合はどうたい。現実世界でいうところの、絶妙な中挽きってやつばい」
マルモが、かつて鉄パイプを荒々しく握りしめていた大きな手で、驚くほど繊細にドリップポットを傾けている。
細く均一に落とされる湯が、きれいに膨らんだコーヒーの粉を優しく湿らせていく。
彼の『魔導調理』の権限は、今や戦闘用ではなく、最高級のコーヒー豆から雑味を一切出さずに旨味だけを抽出するため、その温度を『92℃』という完璧な熱量に固定していた。職人としてのこだわりが、異世界の魔法というリソースをこれ以上ないほど贅沢に消費している。
「完璧だね、マルモ。豆の油分が湯面に美しく浮いている。炭酸ガスの抜け方も理想的だ。……ナツキ、ほら。君の分の『ブラック(砂糖・ミルクなし)』だ。
運転中の眠気覚ましにはちょうどいいだろう」
カズヤが空間に浮かび上がる青いホログラムのトレイに載せたマグカップを、運転席のナツキに手渡す。
その動作には、かつて深夜のオフィスで部下に缶コーヒーを配っていた頃の、どこか冷徹で、それでいて完全に突き放すことのできない彼なりの気配りが滲み出ていた。
「お、サンキューな。……ふぅ、苦ぇ。だが、この苦みが激戦の後の脳みそに染み渡るんだわ。生き返る気がするぜ」
ナツキはどっしりとした二重顎を満足げに揺らし、片手でハンドルを巧みに操りながら、熱いコーヒーを少しずつ啜った。
フロントガラスに映る彼の顔には、徹夜明けのサラリーマン特有の疲労感と、それを上回る充実感が同居している。指っぱっちんで鍛え上げられた右手の指先が、ハンドルを小気味よくタップしていた。
「ユタカ、お前の分は少し砂糖を多めにしておいたよ。頭脳労働の後は糖分が必要だからね。ラリーの組み立てで脳のブドウ糖を大量に消費したはずだ」
「ありがとう、カズヤ」
後部座席で白銀の芯を乾いた布で丁寧に磨いていたユタカが、受け取ったカップから立ち上る真っ白な湯気を見つめ、小さく微笑んだ。
かつて誰も寄せ付けない孤高のコートに立っていた少年は、今や他人が自分のために淹れてくれた温かい飲み物を、素直に受け入れることができるようになっていた。
「……僕たちは、本当にここまで来たんだな。最初はただのバグだと思って走っていたけれど、この世界を作った『おじさん』が、なぜこんな場所を作ったのか……少しだけ分かった気がする」
ユタカの言葉に、車内の空気がわずかに引き締まる。窓の外を流れる不夜城のビル群は、現実世界の縮図そのものだった。
「……逃げ場所、だったんだろうね」
カズヤがホログラム眼鏡のフレームを中指で静かに押し上げ、冷徹な、しかしどこか物憂げなトーンで呟いた。
「現実世界の不条理や、終わらないタスク。理不尽な上層部からの要求と、現場の板挟み。それらから目を背けるために、自分だけの『完璧な箱庭』を作りたかった。自分がすべてをコントロールできる、誰も傷つかない理想郷をね。だけど、その肥大化した孤独が、結果としてOSという怪物を暴走させてしまったんだ。現実を拒絶すればするほど、箱庭は歪んでいく」
「だったら、なおさら俺の『説教』が必要だろ」
ナツキが不敵に笑い、キャンピングカーのブレーキを強く踏み込んだ。
キィィ、と車体が静かに停止すると同時に、チーン、とエレベーターの到着音のような無機質な電子音が、トリオ・ハウスの車内に響き渡る。
彼らが辿り着いたのは、中央タワーの最頂点。ハイウェイの終着点にそびえ立つ、巨大なガラス張りのドーム状のエリアだった。
そこには、異世界のファンタジーな宮殿や邪悪な魔王の玉座ではなく、あまりにも見覚えのある「ガラス張りの社長室」のような空間が広がっていた。
磨き上げられた大理石の床、高級な観葉植物、そして壁一面に配置された巨大なモニター群。モニターには、エターナル・ランドの各エリアの状況が、無数のログファイルやソースコードと共にリアルタイムでストリーミングされている。
部屋の中央、人間工学に基づいて設計されたであろう高級なオフィスチェアに深く腰掛け、巨大なモニター群に囲まれている一人の男の背中があった。
白髪交じりの短髪に、シワの寄ったくたびれたヨレヨレのワイシャツ。袖口は乱雑に捲り上げられ、その背中からは、信じられないほどの疲弊と、他者を拒絶する圧倒的な威圧感が放たれていた。
彼こそが、このエターナル・ランドの創造主であり、世界のOSの根源たるおじさん――『総支配人』。
「……遅かったね。バグの処理に、これほど時間を取られるとは、我が社の監査体制も甘くなったものだ。定時を大幅に過ぎているぞ」
男が低い、掠れた声で呟き、ゆっくりと椅子を回転させ、四人と真っ正面から向き合った。
その顔には、現実世界で幾度もの修羅場を潜り抜けてきた者だけが持つ深い老け込みがあり、その瞳は、あらゆる希望を削ぎ落とされた深淵のような漆黒の虚無で満たされていた。
「ようこそ、我が終着駅へ。……さて、君たちの『退職届』を受理しようか。これ以上の居座りは、我が社の利益に反する」
男がデスクの上に置かれていた一本の重厚な『万年筆』を手に取ると、それが不吉な黒い光を放ちながら、ドロドロとした電子ノイズを伴って変形を始めた。万年筆は瞬く間に、あらゆるデータを書き換える冷徹な「指揮杖」へと姿を変える。
「退職届だと? 勘違いすんじゃねえよ、おじさん」
ナツキがトリオ・ハウスのドアを開け、一歩、また一歩と大理石の床を踏み鳴らしながら前に出た。背中からボロボロの黄金の盾を引っ張り出し、その残骸をデスクに向けて突きつける。
「俺たちがここに持ってきたのは、退職届じゃねえ。……あんたのその、歪みきった経営方針に対する『異議申し立て』だ。これ以上、俺たちの放課後を邪魔させるわけにはいかねえんだよ」
「異議申し立て、か。実に見当違いな合理性だね」
総支配人が冷たく言い放ち、指揮杖を軽く一振りした。
瞬間、オフィス全体の空間が激しく歪み、床の大理石が立方体のブロックとなってバラバラに浮き上がり始める。
壁のモニター群が赤く明滅し、画面には『警告:不正なアクセスを検知』という文字が埋め尽くされた。
「カズヤ、こいつのステータスはどうなっている!」
ユタカが白銀の芯を構え、浮き上がる足場の上でバランスを取りながら叫ぶ。
「……信じられないな。表示されている数値がすべて『N/A(該当なし)』、あるいは『無限大』だ。システムそのものが彼を保護している。攻撃を通すには、まずその強固な管理権限(管理者特権)を剥ぎ取るしかない!」
カズヤの指が、空間に展開されたキーボードの上で残像を結ぶ。しかし、総支配人が放つ圧倒的なシステム圧力を前に、カズヤのホログラム端末がパチパチと青い火花を散らしてエラーを吐き出し始めていた。
「無駄だよ、カズヤ君。君が現実世界でどれほど優秀なシステムエンジニアだったかは知らないが、ここは私のサーバーだ。私の記述したコード(法律)が、この世界の絶対のルールだ」
総支配人が杖を突き出すと、カズヤの足元のブロックが消失し、彼を虚無の底へと叩き落とそうとする。
「させるかたい!」
横から飛び込んできたマルモが、鉄パイプを床に叩きつけた。噴き出した漆黒の焔が、消えかかったブロックを強引に固定し、カズヤの身体を支える。
「おじさん、あんたの言うルールは息が詰まるばい! 料理も世界も、少し焦げてるくらいが一番味わい深いとたい! 完璧すぎるメニューなんて、誰も頼みはせん!」
「……戯言を」
総支配人の瞳の奥の虚無が、さらに深く沈み込む。
「完璧でなければ、現実世界では生き残れないのだよ。数字、成果、納期、他者からの評価……それらすべてを完璧にコントロールしなければ、待っているのは破滅だけだ。君たちのような現実から逃げ出したバグに、私の苦悩が分かってたまるか」
彼の背後のモニターが一斉に発光し、四人に向けて、現実世界のあらゆる「ハラスメント」や「不条理な叱責」の音声が、物理的な破壊音波となって襲いかかった。
「……くっ、耳が……!」
ユタカが顔をしかめる。その音波は、彼がかつてコートで浴びた「期待という名の呪縛」をも呼び覚まそうとしていた。
だが、その不協和音の嵐の中を、どっしりとした体躯が遮るように前に出た。
「だったら、俺がその完璧ってやつを、根底からぶち壊してやるよ」
ナツキが黄金の盾の残骸を構え、その表面に『全方位メンタルガード』の輝きを最大出力で展開する。
「おじさん、あんたは現実で頑張りすぎちまったんだ。だから、ここへ来てまで仕事をしちまってる。……そんなの、青春じゃねえ。ただの『サービス残業』だろ」
ナツキの右手が、ゆっくりと、しかし確実に形を作っていく。彼の指先には、現実の孤独を耐え抜き、この世界で仲間と繋がった、あの「図太い誇り」が凝縮されていた。
「大人の放課後はなぁ、もっと無駄で、もっとバカバカしくて……最高に楽しい時間なんだよ! それを思い出させてやる!」
ナツキの指先が、空間の歪みを切り裂くように、力強く構えられた。
最上階のオフィスに、終わりを告げるためのチャイムの代わりに、彼の指先が鳴り響く瞬間が近づいていた。




