1ヶ月半の現実
静かだった。
夢記録の世界では、城のざわめきがあり、夜会があり、鍛錬の音があり、人の気配も、魔の気配も、絶えずどこかで揺れていた。
だが、今いるこの場所は違う。
音が薄い。
空気が重い。
何より、時間の進み方そのものが違う。
リオは、寝台の上で半身を起こしかけたまま、しばらく動けなかった。
目の前にいるのはラルラゴだ。
夢の中の存在ではない。
現実の世界の、ラルラゴ。
その事実だけで、頭の中の層が何枚もずれていく。
「……夢世界では」
喉が少し乾いていた。
それでも、リオは言葉を絞り出す。
「5年は、ゆうに経ってたよな……?」
ラルラゴは、静かに頷いた。
「そうだ」
短い返事だった。
だが、その一言に現実の重みが乗っている。
リオは、自分の膝に置いた手を見る。
夢の中で何度も剣を握った。
術を使った。
戦った。
人に触れ、土地を歩き、笑い、怒り、泣いた。
それだけの時間を生きた。
たしかに、生きたはずだ。
なのに。
「まだ……」
リオはゆっくり顔を上げる。
「あと795年、あるのか」
ラルラゴの目が、わずかに細くなる。
「ある」
その答えは冷たくはなかった。
だが甘くもない。
ただ事実だけを置く声だった。
リオは、そこでようやく自分の足を動かそうとした。
寝台の縁へ体重をかけ、立ち上がろうとする。
だが、その瞬間――
「あ」
思わず、止まる。
頭の中に別の心配が浮かんだ。
「……まずい」
「停止時能力向上スキルが、解除されるか……?」
現実世界で止まっていた時間。
それが能力を押し上げていた。
なら、ここで動いてしまえば、その停止は終わる。
積み上げていたものが切れるのではないか。
夢の中では、何度もその可能性を考えた。
まだ不完全な今の自分にとって、それは見過ごせない不安だった。
だが、ラルラゴはすぐに首を横へ振った。
「その心配はない」
リオが目を見開く。
「……え?」
「すでに夢世界で、レインが接続をした」
「お前の中の停止と、夢記録の層は、もう別の理で繋がっている」
ラルラゴは、一歩だけ近づいた。
「だからもう、心配はいらん」
「こっちの世界で動こうが、能力は向上し続ける」
「リセットされることもない」
リオの呼吸が、一瞬止まった。
「え?」
「……なんだって……?」
ラルラゴの言葉は続く。
「動け、リオ」
その一言に、不思議と強い力があった。
「現実の世界で、お前は1ヶ月半、止まったままだった」
「その間に能力は向上している」
「さらに、夢記録世界で得た魔気や技、魔術――」
「それらは、すべてこちらでも使いこなせる」
リオは、まだ理解が追いついていない顔のまま、ラルラゴを見ていた。
ラルラゴは、はっきりと言う。
「お前はもう、Eランク冒険者ではない」
一拍。
「俺たちとやりあえる、SSS級の力を取り戻している」
沈黙。
リオの瞳だけが、揺れた。
「……うそだろ」
その声は、驚きというより、ようやく現実に追いつけない者の声だった。
ラルラゴは否定しない。
「うそではない」
リオは、ゆっくりと寝台の縁に足を下ろした。
立つ。
今度は止まらない。
床に足がつく。
現実の床だ。
冷たい。
硬い。
だがその瞬間、自分の身体の中に、夢の5年がただの記憶ではなく、すでに染みついた力として存在していることが分かる。
呼吸が違う。
魔気の回り方が違う。
視界の奥行きが違う。
夢で覚えた技が、夢の中だけのものではなかったことを、身体の方が先に理解していた。
「……っ」
リオは、一歩だけ踏み出した。
ふらつかない。
むしろ軽い。
1ヶ月半、止まっていた身体のはずなのに、動きの芯がぶれていない。
夢の中で何百何千と積み上げた動作が、そのまま現実へ接続されている。
「……まじか」
「そうだ」
と、ラルラゴ。
リオは、自分の右手を見た。
圧真。
圧戰。
絶彗呪結。
廃・中和式。
堕使。
夢の中で触れたものたちが、いまもここにある。
消えていない。
遠くもなっていない。
「じゃあ、俺……」
「このまま」
「こっちでも、あれ全部使えるのか」
「使える」
ラルラゴは答えた。
「まだ精度は上がる」
「だが、もう“夢でだけ使える力”ではない」
リオは、しばらく黙った。
夢と現実の境目が、ゆっくり崩れていく。
今まで、自分は二つの世界を行き来しているつもりだった。
だが違う。
もう二つは、別のものではない。
繋がってしまった。
その時、ラルラゴがもう一つ、静かに言った。
「それだけではない」
リオが顔を上げる。
ラルラゴの目は、いつも通り深い。
だがその奥に、ほんの少しだけ“確かめるような色”があった。
「お前が過ごした夢記録の世界、あの5年の記憶は――」
「俺や、ヴァル、リュメリア、ザルクス、ノア」
「それに、もう一人の中にも接続されている」
リオの表情が止まる。
「……は?」
ラルラゴは、言葉を選ばなかった。
「俺たちの記憶も塗り替えられている」
「だから、夢の世界で起きたことはすべて知っている」
「なんだって……!?」
思わず、声が大きくなる。
ラルラゴは動じない。
「正確には、“塗り替えられた”というより“接続された”だ」
「お前が夢で見て、生きて、選んだ時間の一部が、こちら側の俺たちにも流れ込んでいる」
リオは言葉を失う。
夢の中で、ラルラゴと話した。
ヴァルと剣を交えた。
リュメリアとぶつかった。
ザルクスと笑い、ノアと歩いた。
それらを、現実の彼らも知っている?
「……全部?」
「全部だ」
「少なくとも、お前が“夢だと思っていた時間”は、俺たちにとっても記録として成立している」
「じゃあ……」
リオの喉が鳴る。
「夢の中の5年は」
「夢じゃないのか」
ラルラゴは、ほんのわずかだけ口元を動かした。
「最初から、ただの夢ではなかった」
その答えが、胸の奥へ落ちる。
リオは、その場でしばらく何も言えなかった。
夢記録。
停止時能力向上。
レインの接続。
現実側のラルラゴ。
そして、現実の仲間たちの中にまで繋がってしまった夢の記憶。
ひとつずつなら理解できる。
だが、全部同時に受け止めるにはまだ重すぎた。
「……待ってくれ」
「待つ」
と、ラルラゴ。
「ちょっと整理したい」
「整理しろ」
あまりに淡々と返ってきて、リオは思わず苦笑した。
「お前って、ほんと変わらないな」
「そうか?」
「少なくとも、今の俺にはそう見える」
ラルラゴは少しだけ黙ったあと、低く言った。
「お前の方が、ようやく戻ってきたように見える」
その一言に、リオの胸がわずかに熱くなる。
夢の中でも言われた。
ザルクスにも。
そしていま、現実のラルラゴにも。
自分は、戻り始めている。
まだ全部ではない。
だが、確かに。
リオは、もう一度だけ足元を確かめるように立ち直した。
現実の身体。
現実の床。
現実の空気。
その中でなお、夢の5年は消えていない。
どころか、今の自分を支えている。
「……1ヶ月半か」
そう呟くと、ラルラゴが頷く。
「そうだ」
「まだ1ヶ月半だ」
「だからこそ、ここから先が重要になる」
「ここから先?」
リオが問う。
ラルラゴは、静かに答えた。
「夢で得たものを、現実でどう使うかだ」
「お前はもう、夢の中だけで強くなっている段階ではない」
「現実側の時間も、お前の成長へ繋がり始めている」
リオは、その言葉をゆっくり受け止めた。
夢で積み上げた。
現実で止まっていた。
その二つが繋がった。
なら、ここからは――
「……どっちでも、強くなるってことか」
「そうだ」
ラルラゴは短く答える。
部屋の静けさは変わらない。
だが、その静けさの中で、リオの中の何かだけが確かに動き始めていた。
夢ではあと795年ある。
現実ではまだ1ヶ月半。
その両方が、いま自分の中で矛盾なく並んでいる。
ありえない。
だが、もうそれをありえないとは思えなかった。
ラルラゴは、しばらくリオを見てから、最後にひとつだけ言った。
「驚くのはまだ早いぞ」
「……え?」
「お前が夢で過ごした5年の中で」
「まだ、話していないことがある」
リオが、ゆっくり顔を上げる。
「何が」
ラルラゴは、いつものようにすぐには答えなかった。
その沈黙が、かえって次の扉の重さを教えていた。




