それが、それだ
レインの休養は、まだ少し続きそうだった。
命に別状はない。
けれど《接続》の反動は思った以上に深く、医務室の寝台から起き上がれる時間は日に日に増えていても、まだ本調子とは言えない。
それでも、見舞いは絶えなかった。
タオーは毎日来る。
来るたびに何かしら食べ物を持ってきて、勝手に食って、勝手に怒られて帰る。
その姉も、少し控えめに顔を出すようになった。
ミアは静かに椅子へ座り、あまり多くを喋らず、それでも帰る時だけは必ず「また来るね」と言った。
ヴァイスもまた、日に一度は姿を見せた。最初の頃は医務室の空気そのものが張りつめたが、もう今では誰も露骨には驚かない。
そんな時間の流れの中で、第三区の開拓は着実に進んでいた。
地ならしは終わり、基礎線は引かれ、魔人と人の共同作業はもはや珍しい景色ではなくなっている。
そして、その第三区の中央でもっとも目立つ建造物――いや、これから目立つことになる建造物があった。
大聖堂。
聖人族が集うための、あまりにも巨大なそれは、まだ完成したばかりの匂いを残していた。
白い石材。
高い天井。
人の祈りよりも先に、空気そのものが上へ抜けていくような構造。
神聖、という言葉だけでは足りない。
どこか、世界そのものへ向けて口を開いているような建物だった。
その日、リオはたまたまそこへ立ち寄った。
本当に、たまたまだった。
第三区の進み具合を見て、少しだけ内部の様子も見てみようと思っただけだ。
けれど、中へ入った瞬間に気づく。
先客がいる。
祭壇の奥、まだ人の祈りが一度も満ちていない空間の真ん中で、ザルクス=ガイアがひとり、長椅子の背にもたれていた。
「……何してんの?」
リオが言うと、ザルクスは振り向きもせずに笑った。
「さあな」
「お前こそ何してんだよ」
「いや、なんとなく」
「大聖堂って完成したばっかりだし、ちょっと見たくて」
「ふーん」
ザルクスは、そこでようやく顔だけを向けた。
相変わらず、気の抜けたような顔をしている。
なのに、目の奥だけはどこかずっと先を見ている。
リオはそのまま中央まで歩いていき、ザルクスから少し離れた長椅子に腰を下ろした。
大聖堂の中は静かだった。
外の工事音も、ここへ入ると薄くなる。
天井が高すぎるせいか、二人きりの気配さえ少し遠く感じた。
しばらく何も言わない時間が流れたあと、先に口を開いたのはザルクスだった。
「リオ」
「ん?」
「お前、800年後に復活する予定だったのに、5年で帰ってきたよな」
その言い方は軽かった。
でも、リオは少しだけ眉を寄せた。
「……そう、らしいね」
「そうらしい、か」
ザルクスは小さく笑う。
「まあ、そこはいいんだよ」
「いいの?」
「いい」
「問題はその先だ」
ザルクスは、長椅子から立ち上がり、ゆっくりと祭壇の方へ歩いた。
「それまでのお前のここでの生活は、記憶にないんだよな」
「……ない」
リオは正直に答える。
「っていうか、こっちで生きてないから、記憶も何もないって感じだけど」
「だよな」
ザルクスは振り返らずに言う。
「俺たちがどうやって出会ったか」
「どうして仲間になったのか」
「なんで命を賭ける仲になったのか」
そこで、少しだけ肩をすくめる。
「ま、こんなこと説明しても、お前にはまだ理解できねーけどなー」
「ひどい言い方だな」
リオが苦笑する。
「事実だろ」
ザルクスはようやく振り返った。
「お前はいま、断片しか戻ってない」
「でもまあ、それでもお前はお前だ」
「そこが腹立つんだけどな」
リオが目を瞬く。
「腹立つ?」
「昔からだよ」
ザルクスは笑った。
「俺は昔から、お前が羨ましかった」
「勝手にライバルだとも思ってた」
その言葉に、リオは黙る。
ザルクスがそんなふうに言うのは、少し意外だった。
いつも何でも軽そうに言うくせに、こういう時だけ妙にまっすぐで困る。
「でもなー」
ザルクスは、天井を見上げた。
「なかなか届かないことってあるんだよなー」
「……届かない?」
「お前、アホみたいに強いし」
「笑うしかないだろ、あれ」
「ラルラゴだぞ? あのラルラゴを怯ませたやつなんて、普通いるか?」
「敵うわけねーよな」
リオは、困ったように息を吐く。
「そんなこと言われても」
「でもな、リオ」
ザルクスの声音が、少しだけ落ちた。
「まだまだ力、戻らないだろ?」
その一言に、リオの表情が変わる。
自分でも分かっている。
剣を置いた時の感覚。
ダンジョンの一室で思い出しかけた本来の戦い方。
レインが不完全に繋いだ断片。
戻っている。
でも、まだ届いていない。
「……うん」
と、リオは認める。
「だよな」
ザルクスは笑った。
「ちょうど良かった」
「何が?」
「肩慣らししないか?」
リオは一瞬、意味が分からずにザルクスを見る。
「俺と?」
「いや、違う違う」
ザルクスは手を振った。
「俺じゃなくて、別の存在だけど」
「別の存在?」
ザルクスは、その場でくるりと身を翻した。
「俺がやる“魔の族を操作する力”があるだろ?」
「だから今、こうして魔獣や魔人や魔神が共存してるわけだ」
「うん」
「でもな、この土地は厄介でだな」
そこで、ザルクスは珍しく少しだけ笑みを薄くした。
「俺と対立する組織っつーか、なんつーか」
「グループ、みたいなのが計三つある」
リオが眉をひそめる。
「三つも?」
「ある」
「まあ、俺が勝手にそう呼んでるだけだけどな」
「で、そのうちの一つが、いまこっちに来てる」
大聖堂の空気が、そこでほんの少しだけ重くなった。
リオは反射的に周囲を見る。
「え」
「だってここ、入れないよね?」
「結界あるし」
「うーん」
ザルクスは首を傾げた。
「違うのだよ、リオくんよ」
「何が」
「さっき“俺と対立する”って言ったよな?」
「うん」
「雑魚が俺と対立できるわけないだろ?」
その言い方は、妙に自信満々だった。
そして、その自信が冗談じゃないことを、リオはもう知っている。
「……ってことは」
「とんでもなく強い」
ザルクスはにっと笑った。
「半分正解で、半分間違いだな」
「どういうこと?」
「まあ、見ればわかるよな」
ザルクスはそう言って、ゆっくりと顎をしゃくった。
「ほら、リオ」
「ん?」
「後ろ見てみろ」
大聖堂の空気が、そこでぴたりと張った。
リオは反射的に振り向く。
祭壇のずっと後ろ。
まだステンドグラスすらはめ込まれていない、高い壁際。
そこに、いつの間にか“何か”が立っていた。
最初は、人影に見えた。
だが違う。
人の形に近い。
けれど、人ではない。
輪郭が揺れている。
黒い。
いや、黒だけじゃない。
土色と、深い緑と、乾いた血みたいな鈍い赤が、重なり合って輪郭を作っている。
背は高い。
肩幅もある。
角のようなものがあるのか、あるいは頭部そのものが歪んでいるのか、一目では分からない。
なにより、その存在だけが、大聖堂の空間から少しだけ浮いていた。
そこにいるのに、そこに馴染んでいない。
「……何、あれ」
リオの声が、わずかに低くなる。
それは、怯えではない。
戦う前の、身体の芯が静かに目覚める時の声だった。
ザルクスが、横で楽しそうに笑う。
「それが」
そこで、一拍。
大聖堂の高い天井から、遅れて気配が落ちてくる。
“それ”の視線が、まっすぐリオを射抜いた。
次の瞬間。
ぞわり、と全身の毛が逆立つ。
強い。
だがそれだけじゃない。
こちらを知っている目だ。
ザルクスは、くつくつ笑った。
「それが、それだ」
その瞬間だった。
黒い影が、音もなく消える。
「っ!」
リオの身体が先に動いた。
振り向きざま、反射で身を沈める。
次の瞬間、さっきまで首があった位置を、見えない何かが横薙ぎに通り抜けた。
――ごっ!!
背後の長椅子が、音を立てて真っ二つになる。
木片が舞い、大聖堂の静寂が完全に裂けた。
「ははっ!」
ザルクスが笑う。
「いい反応だ!」
リオは床を蹴って距離を取る。
さっきまで壁際にいたはずの“それ”は、もう十歩前に出ていた。
速い。
しかも、ただ速いだけじゃない。
存在の重なり方がおかしい。
一歩踏み出すたび、床石が沈む。
でも音が遅れてくる。
まるで地面そのものが、この存在に追いついていないみたいだった。
「名前は!?」
と、リオが叫ぶ。
「知らん!」
と、ザルクス。
「知らないの!?」
「いつも適当に呼んでる!」
「最悪だな!」
そのやり取りの最中にも、“それ”は止まらない。
右腕――と呼んでいいのか分からない、土塊と骨と魔気を無理やり束ねたような腕が、ゆっくりと持ち上がる。
大振りだ。
避けられる。
そう思った瞬間。
リオの中の何かが告げた。
違う。
リオは剣に手をかけかけて、止めた。
違う。
この相手に、今の自分の剣筋だけをぶつけても浅い。
前にダンジョンで思い出しかけた、あの感覚。
剣を置いた瞬間に噛み合った、自分本来の戦い方。
それが、今また喉の奥まで上がってくる。
「……ちょうどいいかもな」
リオは、小さく息を吐いた。
その声に、ザルクスの目が少しだけ細くなる。
「お」
“それ”の腕が、振り下ろされる。
大聖堂の空間そのものを叩き潰すみたいな一撃。
だがリオは、もう剣を抜かなかった。
一歩、前へ。
右手を軽く開く。
落ちてくる圧の軌道へ、自分の“術”を差し込む。
空気がきしむ。
床が鳴る。
“それ”の腕が、途中でほんのわずかに沈んだ。
「――!」
リオの目が鋭くなる。
「いける」
ザルクスが、愉快そうに笑う。
「だろ?」
次の瞬間、大聖堂の中で初めて、リオの本来の戦い方がもう一度、はっきりと牙を剥いた。




