次代の音
夜明け前の空は、まだ深い藍を残していた。
第一区の外れにある訓練場には、誰もいない。
石畳は夜露を薄くまとい、遠くでは見張り台の灯りが、ひとつ、またひとつと朝に溶けかけている。
その静けさの中で、剣の音だけが響いていた。
レインだった。
正眼。
踏み込み。
切り上げ。
引いて、受けて、もう一度踏み込む。
動きはもう、昔の我流の荒さだけではない。
雑だった癖はだいぶ削がれ、重心の置き方も、息の継ぎ方も、半年や一年では済まない密度を帯びている。
それでも、レインは止まらない。
「……違う」
小さく呟いて、もう一度振る。
「そこじゃない」
汗が頬を伝う。
息は乱れていない。
けれど、納得もしていない。
リオに教わってから、剣は確かに馴染み始めた。
前より見える。
前より届く。
前より、戦える。
それでもまだ足りない。
リオの背は、遠い。
ラルラゴは論外。
ヴァルも、リュメリアも、ノアも、ザルクスでさえ――見れば見るほど、自分とは違う場所に立っていると分かる。
「……くそ」
レインが低く息を吐いた、その時だった。
「レイン」
後ろから声がした。
振り向くと、ミアが立っていた。
朝の薄明かりの中で、彼女の輪郭は静かだった。
前よりずっと自然にここへ来るようになったが、やはり足音は小さい。
世界に遠慮していた頃の名残か、それとも聴きすぎるがゆえの習慣か。
レインは剣を下ろす。
「どうした」
「起きてたのか」
「うん」
ミアは小さく頷く。
「起きちゃった」
それだけ言って、すぐには続けなかった。
レインは、そこで気づく。
ミアの顔が少し固い。
怯えているわけではない。
泣きそうでもない。
けれど、何かをじっと聴いている時の顔だ。
「……何かあった?」
ミアは、訓練場の向こう――成埜の地の奥へ続く方角を見た。
「今日」
「少し変」
レインの表情が変わる。
ミアがそう言う時、だいたい何かある。
しかも彼女自身がうまく言葉にできていない時ほど、質が悪い。
「どんなふうに?」
ミアは眉を寄せる。
「音が……重い」
「でも、怖いっていうより」
「何かが、目を覚ましかけてるみたいな」
レインは黙る。
夜明け前の成埜の地は、昼と違う顔を見せる。
街道も、防壁も、整備された区画もある。
だが、少し外れれば、まだ人の手が届ききっていない“古い土地”の気配が残っている。
「リオに言う?」
と、レイン。
ミアは少し考えた。
「……その前に」
「ちょっとだけ、見たい」
「ちょっとだけ、な」
レインはすぐ釘を刺す。
ミアは少しだけ口元を緩めた。
「うん」
「ちょっとだけ」
⸻
二人が向かったのは、第二区のさらに外れだった。
まだ完全に人の往来が定着したわけではない、整備途中の細道。
街灯の魔術光は一定間隔で灯っているが、その先は徐々に自然の闇に溶けていく。
遠くには、防壁の上を巡回する光が見えた。
ノアの多重結界は、夜明け前になると、薄い膜みたいに輪郭を見せることがある。
美しい。
だが、その美しさは“近づくな”という意思にも似ていた。
ミアは歩きながら、何度か立ち止まった。
「……こっちじゃない」
「じゃああっちか」
「うん」
「いや、もう少し右」
レインは何も言わずついていく。
こういう時、ミアの“なんとなく”はだいたい当たる。
自分の剣の勘より、よほど信用できることもある。なんだそれは。腹立たしいが事実だ。
やがて二人は、小さな崖のような段差の前で止まった。
ここはまだ本格的に整備されていない。
資材が一時的に積まれ、斜面の強度を測るための印だけが残っている場所だった。
ミアがそっと目を閉じる。
朝の風が吹く。
草が揺れる。
どこか遠くで、小型の魔獣が木の実をかじる音がする。
その全部の下に、もうひとつ音があった。
「……いた」
レインが周囲を見る。
「何が?」
ミアは目を開けない。
「音」
「ずっと下の方」
「でも、下っていうだけじゃなくて」
「……絡まってる」
レインには分からない。
だが次の瞬間。
足元の石が、かすかに震えた。
びくり、とミアが目を開く。
レインは反射的に前へ出て、彼女を半歩かばう。
「来るのか?」
「違う」
ミアは首を振る。
「来るんじゃなくて……」
「“触ってる”」
「は?」
その時だった。
レインの中で、妙な感覚が走った。
足元の震えとは違う。
耳で聞くものでもない。
でも確かに、何かが“繋がりかけた”感覚。
一瞬だけ、見えた。
地の下に流れる何か。
魔気の筋。
石の中を通っている圧。
それと、自分の身体のどこかが、ほんの一瞬だけ噛み合った。
「……っ!」
レインが片膝をつく。
ミアが息を呑む。
「レイン!」
「大丈夫……」
レインは言いながらも、額を押さえた。
「いや、大丈夫じゃないかも……」
視界の端がざらつく。
でも痛みだけじゃなかった。
ほんの一瞬、分かったのだ。
この土地の下には、ただ土と岩があるだけじゃない。
もっと大きい“流れ”がある。
そして自分の中の何かは、それに触れかけた。
「今の……何」
ミアが小さく聞く。
レインは、呼吸を整えながら顔を上げた。
「俺にも分かんねえ」
「でも……」
「ちょっとだけ、見えた気がする」
「何が?」
レインは足元を見る。
「繋がり」
その言葉を口にした瞬間、自分で少しだけ鳥肌が立った。
ミアが黙る。
それから、そっと言った。
「やっぱり」
「やっぱり、レインの“接続”って」
「そういう……」
だが、その先を言い切る前に、別の声が降ってきた。
「もう二人で動いてたんだね」
レインとミアが同時に振り向く。
少し高い段差の上に、リオが立っていた。
朝の光を背に受けて、笑っている。
「リオ!?」
「いつからいたの?」
と、レイン。
「途中から」
リオは降りてきながら答える。
「ミアが変な顔して歩いてたから、何となく」
「変な顔って何だよ」
と、レインが言い返し、
「私は顔してない」とミアが小さく抗議する。
リオは二人の前まで来ると、足元の斜面を見た。
それから、レインの顔を見て、ミアの目元を見て、だいたいを察したらしい顔をする。
「何かあった?」
ミアが先に話し出した。
「下の方で、何かが目を覚ましかけてる音がして」
「それを追ってきたら」
「レインが、少しだけ……」
「繋がった」
レインが自分で続ける。
「ほんの一瞬だけだけど」
「土地の下の流れみたいなもんに、触れた感じがした」
リオの目が少しだけ細くなる。
「……そっか」
驚きすぎない。
否定もしない。
その反応が、逆に二人を落ち着かせた。
「悪くないね」
リオが言う。
「悪くない、で済ますのかよ」
と、レイン。
「済ますよ」
リオは笑った。
「だって、前は何も分からなかったんでしょ?」
「今は、一瞬でも触れた」
「それってちゃんと進んでるってことじゃない」
レインは何か言い返そうとして、やめた。
ミアが静かに聞く。
「怒らないの?」
「何で?」
「勝手に来たから……」
リオは少し考えてから答えた。
「心配はする」
「でも、怒るより先に」
「もう二人で動くようになったんだなって思った」
朝の風が吹く。
ミアの髪が揺れる。
レインは少しだけ目を伏せる。
怒られると思っていたわけではない。
でも、こういう言い方をされると妙に胸にくる。
リオは段差の向こう、まだ朝の薄闇を残している成埜の地を見た。
「たぶん、これから先」
「こういうの増えるよ」
「こういうの?」
と、ミア。
「うん」
「君たちにしか先に気づけないこと」
「君たちだから先に触れるもの」
その言葉に、レインは少しだけ息を止めた。
ミアは、朝の静かな空気の中で、ほんの少しだけ笑った。
「……じゃあ」
「次はちゃんと、先に言う」
「それがいい」
リオも笑う。
三人で並んで立つと、成埜の地の朝は、少しだけ違って見えた。
まだ名のない国。
まだ完全には明かされていない土地。
まだ育ちきっていない力。
でも、そのどれもが前より確かに近い。
夜が明ける。
防壁の向こうから、今日も新しい一日が始まる音がしていた。




