#38 虫の知らせ
十一月も半ばになるとめっきりと寒くなってきて、不用意に外に出ると昼間でも身震いがする季節を迎えた。
皇居の赤や黄色に染まりきった落葉樹は昨日の台風であっという間に葉が落ちて丸裸》になり、冬囲いの日を今か今かと待ち望んでいるように見える。
今はまだ葉しかない冬牡丹にはすでに藁囲いがされていて、雪が降る頃には大輪の花が咲くように準備されている。
雪に牡丹という情緒がある風景をぜひ一度見てみたかったのだけど、あたしには見られそうにないのが残念だった。
早朝、あたしは大蒼が寝台で微睡んでいる間に、横で新聞記事を読み上げるという奉公をしていたの。
いつも通り1面の記事から順に読み上げるのだけど、二番目の見出しを見た時に、あたしは言葉を失った。
東宮に対する大逆罪で逮捕された葛丸様が、なんと昨晩未明に|監獄から脱獄したという記事だったのよ。
そこには新二と思わしき共犯の男のことも書いてあり、あたしは胸がザワついた。
「かめ、記事の続きは?」
まだ眠そうな大蒼に促されて、あたしは我に返った。
「あ・・・ごめんなさい。漢字が思い出せなくて。」
「どれ、見せてごらん。」
「もう思い出したから大丈夫! 続きを読むわね。」
あたしは言葉に詰まったのが漢字を読めなかったということにして、その場のお茶を濁した。
今日は帝国議会が開催される日。
大蒼がお上の代わりに開院式で勅書を読むことになっていたわ。
これから神経をすり減らす大事なおつとめの前なのに、余計な気を使わせるのは悪いと思ったのよ。
日本の警察官は優秀だから、まるっと任せて大丈夫!
と、信じたいのと丸投げしたいのが50%&50%‼
神様お願い!
今日という日が、どうか無事に終わりますように・・・!
あたしは新聞を小さく折り畳み、箪笥の下の隙間に押し込んだ。
※
きらびやかな大礼服に身を包んだ大蒼は、とても凛々しかった。
重いガウンを後ろから羽織らせると、煙草の苦い匂いがツンと鼻を刺したの。
最近はお上の代理で表に出るおつとめが多いせいか、シガレットを持ち歩くようになって社交場で嗜》んでいるのよね。
赤い厚ぼったい唇に細い煙草をくわえて猫背でマッチに火を点ける大蒼は、すごく絵になるのよ~!
ついこの間までお香の匂いがしていた大蒼が、急に大人っぽく感じるわ。
あたしが一生懸命たくさんの勲章を上着に付けていると、大蒼がわざと動いて付けさせないように悪戯をするの。
こういうところはを子供くさくて安心するけどね。
「もう、ふざけないでよ。
出発までそんなに時間がないのに。」
あたしが笑いながら大蒼の両肩を抑えると、大蒼の大きな手があたしの手の上に触れた。
「時間なんか、止まればいいのにな。」
大蒼が沈痛な面持ちであたしを見つめた。
そんな目つきで色男に見つめられたら、ホントに時が止まるのよ。
窒息死するかもしれないから、気を付けてねッ!
「だって。今日の仕事を終えたらかめが居なくなっちゃうから。」
ううッ。
胸が、胸が苦しい・・・。
あたしは顔を赤くしながら大蒼に謝った。
「ごめんね。」
大蒼がこんなにも恨めしい顔をするには理由がある。
あたしが皇妃候補を辞退することにしたからだ。
※
新二が逮捕されて葛丸様の計画を暴いた後、自分の気持ちを整理するのは本当に辛い作業だった。
でも、あたしの【公爵令嬢の影武者】としての役割がここで終わりなのは、誰が見ても明白よ。
大蒼の好意を甘んじて受け入れてしまえば、人々が羨む薔薇色の人生が待っていることは分かっている。
東宮御所の官吏はみんな優しくて良い人たちだし、局でも楽しく過ごせていたから、余計に決断するのに心が揺らいだ。
特に大蒼のことで言うと、こんなにも一途に純粋に自分を慕ってくれる人は、あたしの人生には二度と現れないかもしれない。
でも、あたしは新一が好き。
もう、自分の気持ちに嘘はつけないの。
大蒼の好意に応えられないくせに、ここにいつまでも居座るわけにはいかないわ。
大蒼にはゆっくりと、時間をかけて自分の気持ちを話した。
青い顔をしながらあたしの話を最後まで聞いてくれた大蒼が、震えながらこう言ったの。
「かめの気持ちは分かった。
でも、お願いだ。
十一月の議会が終わるまでは、私の皇妃候補で居てくれる?」
大蒼が窓の外を見ながらようやく絞り出した言葉に、あたしは頷くことしかできなかった。
※
「出御ー。」
六頭の馬に引かせた豪華絢爛な有蓋の馬車が、御者の掛け声とともに大きく揺れて、ゆっくりと走り出した。
今日のあたしは、シルク生地にたっぷりのドレープと花の刺繍がデザインされた、フランス製の長そでドレスを着ているの。
この日のために大蒼があつらえてくれたドレスは、本当に美しくて、畏れ多かった。
あたしはこの、一度しか着られないドレスをどうにか再利用できないものかと馬車に揺られながら考えていたわ。
素敵だけども、普段着はおろかお洒落着にもできないこのデザイン。
体型に合わせたオーダーメイドだから、次の皇妃候補様に着てもらうことも憚られるし・・・。
うーむ。難しい問題よね。
ああでもないこうでもないと一人でうんうん唸っていると、隣の大蒼があたしの手にそっと自分の手を乗せてきた。
「議事堂に着くまで、こうしていたいんだ。
ダメかな?」
キューン・・・。
胸が苦しいッ。
もうッ。大蒼ったら悪い子ね!
思わずあたしはキョロキョロと周りを見渡した。
大きな車輪の馬車は人の目線よりも遥か上だし、覗き込もうと思わなければ沿道に詰めかけた人々にはあたしたちが手を繋いでいるのを悟られることはない。
新一は今日、馬車の先導をしている乗馬隊の一人だから大丈夫。
最後の日くらい思い出づくりもいいわよね・・・。
あたしはレースの膝かけの下で、大蒼と手を繋いだ。
「もし新一に飽いたら、すぐに《わたくし》のところに来て。
私はいつでもかめを想っているから。」
大蒼が冗談とも本気とも取れないような物言いをした。
こんな時は、なんて返せばいいのかしら。
あたしは悩んだ末に、明るく返答することにしたわ。
「あたしみたいな芋虫女のことなんか、すぐに忘れるべきよ。
大蒼にピッタリの麗しい姫君が来たら、一番にあたしに紹介してね!」
「・・・かめって残酷だね。」
大蒼はあたしの手を握ったまま、プイと反対側の窓の方を向いてしまった。
わーん、絶対に言うべきセリフを間違えたわ!
でも、男心って不可解なのよ~‼
その時、耳の横で恐ろしく大きな破裂音と馬の悲しげな嘶きがして、あたしたちが乗る馬車が大きく前後に揺らいだ。
「何⁉」
あたしは振り子のように、勢いよく前方に傾いだ。
大蒼が態勢を崩しながらも受け止めてくれなかったら、床に叩きつけられていたかもしれないわ。
衝撃で床に膝をつく大蒼の上に被さりながら、あたしは破裂音がした方を振り返った。
窓には大きな丸い穴とヒビが入っている。
あたしは青ざめて悲鳴をあげた。
「銃撃?」




