第1話 安楽死する国家、ネオ・トウキョウ
西暦二三〇〇年、ネオ・トウキョウ。
かつて世界有数の経済大国として栄華を誇ったこの島国は今、緩やかな、しかし確実な「安楽死」の時を迎えようとしていた。
千代田区・旧永田町セクター。 旧来の重厚な石造りの外壁と、最新鋭の自己修復型スマート・マテリアルが不格好に融合した「内閣総理大臣官邸」。その最上階にある執務室は、政治の中枢というよりも、倒産処理を待つ企業の清算事業本部のような、乾いた静寂に包まれていた。
「……暇だ」
私、申述かたるは、網膜インプラントの通知を切り、ソファに深く身を沈めて虚空に向かって独りごちた。イタリアン・レザーの感触を再現していると聞かされているが、座り心地からして恐らく汎アジア機構製の安価な3Dプリント樹脂であろう。
視界には、生体同期による半透明のインターフェースが浮かんでいる。 表示されているのは、公務の書類ではない。書きかけの 「ニューロノベル(感覚同期小説)」のアップロード画面だ。
タイトルは『異世界転生したら、そこも構造不況業種だった件について』。 ジャンルは「ハイファンタジー」ではなく「経済ホラー」。
我ながら世知辛い。あまりに世知辛い設定だ。だが、この国で生きていると、剣と魔法のファンタジーなどという希望に満ちた体験は、脳が拒絶反応を起こして出力できなくなってしまうのだ。
「あーあ……。同期率、全然伸びないな」
ため息交じりに脳内アナリティクスを閉じる。 私の本職は小説家ではない。かつてはそう名乗っていた時期もあったが、デビュー作が初版のみで絶版という憂き目に遭い、筆を折った。 今の肩書きは、内閣総理大臣補佐官付・特別参与。 通称、「ナラティブ・アーキテクト(物語構築官)」。
横文字にするとなにやら高尚な響きだが、要するに「総理のスピーチライター」兼「国民のガス抜き担当」である。
超高度AI『アマテラス』 が弾き出した冷徹な最適解を、人間が直感的に受け入れられるよう、感情同期コードを書き加えて「物語」としてでっち上げる仕事だ。
しかし、その仕事すら最近はない。 なぜなら、国民がもう怒ってすらいないからだ。
怒りもしなければ、悲しみもしない。ただ、淡々とアルゴリズムに最適化されたタスクをこなし、 自動生成される無害な娯楽を消費し、静かにシステムの寿命を待つだけ。
今の日本に必要なのは、心を揺さぶる「物語」ではなく、脳波を平坦に保つ「精神安定剤」 だけなのだ。
「参謀たる者が勤務中に執筆活動か。感心しないな」
不意に背後からかけられた声に、私は心臓が跳ね上がるのを感じた。
「ひぃっ!?」
喉からカエルのような悲鳴が漏れる。慌てて視界のインターフェースを思考コマンドで強制終了し、ソファから転げ落ちるようにして直立不動の姿勢を取った。
「そ、総理! お疲れ様です!」
振り返った先に立っていたのは、この国の最高権力者。 第二百八十八代内閣総理大臣、夜裏なおす、その人である。
年齢不詳。三十代のようにも見えるし、五十代の貫禄があるようにも見える。 隙のないチャコールグレーの環境適応型スーツを完璧に着こなし、銀縁の眼鏡 (オプティカル・デバイス) の奥から、感情の読み取れない瞳で私を見下ろしている。
彼の歩き方は奇妙だった。 カツ、カツ、カツ。 靴音がメトロノームのように、ミリ秒単位で正確なリズムを刻む。重心のブレが一切なく、まるで目に見えないレールの上を滑るような移動。気配がないのに、存在感だけが異常に重い。
「い、いえ! 違うんです総理。これはサボりではなく、国民感情の推移をシミュレートするための……そう、ナラティブの演習でして!」
「言い訳は不要だ」
夜裏は私の弁明を、 抑揚のないフラットな音声 で一刀両断すると、執務机へと向かった。
「そもそも、君のその『ナラティブ』とやらが必要になる局面など、当面訪れないだろう」
「……え?」
「国民は何も期待していない。期待していない人間に、物語を語る必要はない」
彼はデスク上のホログラム・コンソールを指先で操作しながら、淡々と言い放った。
正論すぎて、胃が痛む。 私はポケットを探り、定位置にある胃薬のボトルを握りしめた。 ナノマシンによる無痛治療が当たり前のこの時代に、わざわざドラッグストアの片隅で売られているような、旧式で安っぽいプラスチック容器。 私はそこから白い錠剤を二粒取り出し、唾液で強引に胃へと流し込んだ。
「それよりかたる君。昨日の 国家生産価値(NPV)の確報値を見たか?」
「はあ、一応……。網膜フィードのニュースで見ました。過去最低を更新したとか」
「そうだ。前年比マイナス四・五%。軌道上経済会議(OEC)の常任理事国からはとうの昔に脱落し、今や地球連邦の末席にしがみつくのがやっとだ」
夜裏は、今日のランチのメニューを読み上げるような平坦な口調で続ける。
「主要産業の海外流出は止まらず、国内に残っているのは観光業と、海外メガコーポのデータセンター管理業務、そして高度な技術を要する部品の下請け工場のみ。……今の日本を海外のニューラル・メディアがどう呼んでいるか知っているか?」
「ええっと……『東洋の隠居老人』でしたっけ?」
「新しい呼び名ができた。『極東の下請け特区』だ」
「うわぁ……」
露骨な蔑称に、私は顔をしかめた。
夜裏は無言で顎をしゃくり、窓の外を見るよう促した。 私は重い足取りで防弾ガラス張りの窓辺に歩み寄る。 眼下に広がるのは、かつて大都会と呼ばれたネオ・トウキョウのパノラマだ。
だが、そこにかつての熱気はない。 新宿方面にそびえ立つ摩天楼群。その壁面に輝くのは、北米統合連邦(NAU)の巨大IT企業や、汎アジア機構(PAEC)のコングロマリット、インド・中東連合の軌道財閥のホログラム・ロゴばかりだ。日本企業の看板は、ビルの隙間に遠慮がちに張り付いているだけ。
地上を行き交う人々を、視神経直結の高倍率ズームで拡大してみる。 誰もが脳内インプラントや生体同期デバイスを埋め込んでいるが、その表情は一様に能面のようだ。 信号が赤になれば、全員がミリ秒単位の誤差で足を止める。
青になれば、一斉に歩き出す。 誰も走らない。誰も大声で笑わない。誰も怒鳴り合わない。 完璧な秩序。完璧なマナー。 そして、完璧な「死」。
「思考停止。無気力。前例踏襲」 私の背後で、夜裏が呪文のように呟いた。
「政治も経済も、面倒な判断はすべて超高度AI『アマテラス』に委ね、リスクを恐れて『右へ倣え』しかしない。失敗もしないが、成功もしない。ただ緩やかに腐っていくだけの国」
「……でも、国民はそれを望んでますからね」 私は自嘲気味に笑った。
「『変わらないこと』が一番の幸せだ、って。僕が書いている ニューロノベル(感覚同期小説)だってそうです。主人公が苦労して成長する疑似体験なんて誰もダウンロードしない。最初から最強で、何もせずに承認欲求を満たしてくれる『最適化された夢』 じゃないと」
「その結果がこれだ」
夜裏が指をパチンと鳴らす。 部屋の照明が落ち、空間全体に巨大な地球儀のホログラムが浮かび上がった。 日本列島が赤く点滅している。 そして、その横に表示された数字を見て、私の思考はフリーズした。




