第1話 最後の焼きたて
木べらに触れた瞬間だった。
視界が、ふっと揺れる。
パンの焼ける香ばしい匂い。
熱を帯びた石窯。
白い粉が舞う厨房で、一人の老人が忙しそうに生地をこねている。
「もう少しだ……」
額の汗を拭い、焼き上がったパンを大切そうに抱える。
その顔は疲れているのに、どこか嬉しそうだった。
老人は店の扉へ向かう。
けれど、その途中で胸を押さえた。
パンが床へ落ちる。
苦しそうに息を吐きながら、震える声で呟く。
「焼きたてを…………」
そこで映像は途切れた。
私はゆっくりと目を開く。
「……また見えた。」
手の中には、使い込まれた一本の木べら。
持ち手は何度も握られた跡があり、木の色は飴色に変わっていた。
私は小さく息を吐く。
この力には、まだ分からないことが多い。
でも一つだけ分かることがある。
この人は、何かを残したまま亡くなった。
「……大丈夫ですか?」
後ろから遠慮がちな声がした。
振り返ると、一人の女性が店の入口に立っていた。
三十代半ばくらいだろうか。
優しい目元は、さっき見た老人によく似ている。
「あ……すみません。」
私は木べらを静かに棚へ戻した。
「少しぼーっとしてしまって。」
女性は困ったように笑う。
「父の店なので。」
「見るもの全部、父を思い出しちゃいますよね。」
その笑顔は、どこか無理をしているように見えた。
店内には焼きたての香りなんて、もう残っていない。
並んでいたはずのパン棚は空っぽで、窓から差し込む午後の日差しだけが静かに床を照らしていた。
「遺品は、この店の物だけですか?」
「はい。」
女性は頷く。
「家の方はもう片付けました。」
「でも、この店だけは……どうしても。」
視線の先には石窯があった。
火の消えたままの、大きな窯。
「閉めるんですか?」
私が尋ねると、女性は少し考えてから答えた。
「……そのつもりです。」
「私にはパンなんて焼けませんし。」
「父の店でしたから。」
そう言って笑った。
でも、その笑顔は少し寂しかった。
私はもう一度、木べらを見る。
焼きたてを――もう一度。
パン職人らしい最後の言葉。
そう思えば、それで終わる。
だけど。
何かが引っかかっていた。
「お父さんは……毎日パンを焼いていたんですか?」
女性は少し驚いたようにこちらを見る。
「ええ。」
「休んだところなんて見たことありません。」
懐かしそうに目を細める。
「子どもの頃から毎朝。」
「起きたらパンの匂いがして。」
「焼きたてを持ってきてくれるんです。」
ふっと笑う。
「結婚して家を出てからも変わりませんでした。」
「毎朝、『焼きたてだから早く食べろ』って。」
「もう子どもじゃないのに。」
その言葉に、自然と私の足が止まった。
――毎朝。
焼きたて。
届ける。
胸の奥で、何かが静かにつながる。
「お父さんは……亡くなる前の日も?」
私が尋ねると、女性は少しだけ目を伏せた。
「はい。」
「朝早く持ってきてくれました。」
懐かしそうに笑う。
「『焼きたてだから、冷める前に食べろ』って。」
「昔から変わらないんです。」
「私はもう大人なのに。」
その笑顔は、少しだけ震えていた。
「それが……最後でした。」
店の中に静けさが落ちる。
私はもう一度、木べらへ視線を向けた。
焼きたてを、もう一度。
あの願いは、自分のためじゃない。
きっと。
「一つだけ、お願いしてもいいですか?」
女性は不思議そうに首を傾げた。
「なんでしょう?」
「最後に、一緒にパンを焼いてくれませんか。」
「……私が、ですか?」
「はい。」
「お父さんが毎日届けていたパンを。」
女性は木べらを見る。
何かを思い出すように、そっと手を伸ばしかけて……止めた。
「私、不器用なんです。」
「昔、一度だけ教えてもらったんですけど。」
「『向いてないなぁ』って笑われちゃって。」
私も少し笑う。
「それなら今日は、一緒に失敗しましょう。」
女性はきょとんとして、それから小さく吹き出した。
「そんな誘い方、初めて聞きました。」
火の消えていた石窯に火を入れる。
粉を量り、水を加え、生地をこねる。
女性の手つきはぎこちない。
それでも、一つひとつ思い出すように動いていた。
「そこ、もう少し優しく。」
「……こうですか?」
「はい。」
「上手ですよ。」
焼き上がるまでの間、店には何も話さない時間が流れた。
やがて、小さな鐘の音が鳴る。
焼きたての香りが、店いっぱいに広がった。
女性は、焼き上がったパンをそっと手に取る。
一口だけ口に運ぶ。
ゆっくり噛んで、小さく笑った。
「やっぱり、お父さんの味には敵いませんね。」
その瞬間だった。
店の入口に、一人の老人が立っていた。
穏やかな笑顔。
木べらを握っていた、あの人。
今度は何も言わない。
ただ、満足そうに娘を見つめていた。
私は静かに目を閉じる。
「──想還。」
柔らかな風が店を吹き抜ける。
女性が顔を上げた。
入口を見つめたまま、目を大きく見開く。
「……お父さん。」
声が震える。
涙がこぼれる。
それでも、笑っていた。
「ありがとう。」
老人は照れくさそうに笑い、小さく頷く。
その姿は光に包まれ、夕暮れの中へ静かに溶けていった。
しばらく言葉を発さなかった。
女性は涙を拭い、もう一度焼きたてのパンを見つめる。
「……明日も、焼いてみようかな。」
私は微笑んだ。
「きっと、喜びます。」
店を出ると、夕焼けが街をやさしく染めていた。
また一つ。
帰ることのできた想いがあった。
荷物を背負い直し、街道へ向かって歩き出す。
「旅のお嬢さん。」
門の前で、門番の男性が声を掛けてきた。
私は足を止める。
「王都へ行くのかい?」
「はい。そのつもりです。」
「だったら西街道を行くといい。」
「ありがとうございます。」
門番は少し言いにくそうに頭をかいた。
「ただな。」
「途中にある古い屋敷だけは近付くなよ。」
「……屋敷ですか?」
「ああ。」
「誰も入れない屋敷だ。」
私は首をかしげる。
「誰も……入れない?」
「入ろうとした人は、みんな引き返してくる。」
「理由を聞いても、誰も答えられない。」
風が草原を吹き抜ける。
私は、西へ続く街道を見つめた。
「……そうなんですね。」
そう小さく呟くと、一歩踏み出す。
その屋敷にも、まだ帰れない想いがあるのだろうか。
そんなことを考えながら、私は夕暮れの街道を歩き始めた。
次回『誰も入れない屋敷』




