第九章
その中でルナは、屈んで素早く本やらペンやらを広い、アイリス姫へと差し出した。
「これを」
だがきっとアイリス姫が顔を上げ、乱暴にルナの手にある本やらを叩き落とす。
「うるさい! 私の気持ちなんか分からないクセに!」
涙と共に叫ぶアイリス姫の気持ちは、だが実はルナには分かっていた。
彼女は本来勉強が嫌いだったのだ。
だが最近、苦労してプロシア語に向かい合おうとしていた。
少しずつ心境が変わっていた。
なのにここで、無理に全く違う勉強をさせられる。
アイリス姫は裏切られた気持ちになっているのだろう。
「アイリス様……」
ルナは言葉を選んで彼女の心の傷を癒す台詞を考えた。
だが、その前にブッフバルト夫人が戻ってくる。
「…………っ!」
侍女の誰かが息を呑んだ。
ブッフバルト夫人の手には、葉を取り去ったカバの枝を束ねた、枝むちがあったのだ。
「これは仕方のないことなのです」
むちを手にしたブッフバルト夫人は一人納得し、何度も頷いている。
凍り付く空気を、ひゅんっとむちを鳴らして切断したブッフバルトに、さすがのアイリス姫の目も丸くなる。
「そ、それで私を叩くつもり?」
アイリス姫が勇気を振り絞って抗う。
びし、とブッフバルト夫人は構わず彼女の机を叩いた。
「アイリス様、本とペンを拾いなさい」
「いやよ!」
アイリス姫の肩が震えている。
相当な勇気を振り絞ったようだ。声が高かった。
「そうですか」ブッフバルト夫人の声には反対に感情はない。
「わ、私をそれで叩くのならあなたを不敬罪で捕まえるわ! ぜ、絶対に許さない!」
もしブッフバルト夫人がアイリス姫をむち打ちのなら、彼女にとってそれ以上の恐怖と屈辱はないはずだ。
何せ侍女達が見ているのだ、彼女の王族としての誇りも傷つくだろう。
「私は王妃様から命じられております。全てはあなたの御為です」
ブッフバルト夫人はついと指を、机の端に向ける。
「そこで背を向けなさい」
むち打つつもりだ。恐らく臀部だろう。
「いやよ! いや、いやっ!」
アイリス姫は激しくかぶりを振った。
たっぷりとした薄茶色の髪が揺れ、目には明らかに涙があった。
「さあ、我が儘を……」
「お待ち下さい」
氷像のようになっている侍女の中で、ルナが声を上げ、一歩進んだ。
「何ですあなた? 今はアイリス様は勉強中よ。無礼だから邪魔をしないで頂戴」
ブッフバルト夫人は不機嫌そうに鞭をしならせる。
ルナは怯えなかった。
「アイリス姫をむち打つつもりでしたら、私をお打ち下さい」
「ルナ……」アイリス姫が涙に溢れた目を向けてきた。
「……確か王族の倣いにあったはずです」
ブッフバルト夫人の目が黄ばむ。
「そうね……確かにフリジアやプロシアの王族では、代わりにむち打たれるものがいるわね」
と、ブッフバルト夫人はルナのつま先から頭のてっぺんまで見回し、
「でもあなたにその『資格』があるかしら? 王族の代わりにむち打たれるのは名誉なこと、だから選ばれるのは貴族の子女よ。まさに尊い血の方々の友になれるような、爵位を持つ家のもの」
ブッフバルト夫人の視線がじろっと動き、壁際で存在感を消している、アレッタとベラに向いた。
二人ともばっと顔を逸らす。
「……下がっていなさい、あなたのような身分のものが出張るなんて無礼だわ」
そう言ったブッフバルト夫人は腕を振るい、枝むちでルナの頬をばちんと叩いた。
ルナの眼鏡が吹き飛ぶ。
鋭い痛みを感じた彼女だが、何のこともない。
何故なら彼女は本来、人の命をやり取りしている刺客だ。
だが、その他のものにとってその場面は衝撃だったようで、マリアが浅く息を吸い口元を手で押さえる。
「……さあ、あなたは引っ込んで」
「よくもやったわねっ! わああぁぁ!」
一拍の間を置いて、激昂したアイリス姫がブッフバルト夫人に飛びかかった。
「なっ」驚きつつも払うブッフバルト夫人に、アイリス姫は木の椅子を手に取り投げつけ、机もひっくり返す。
「何て事を! アイリス様がご乱心なさいました!」
ブッフバルト夫人は喚き出し、衛兵やら使用人やらが駆けつけ大変な騒ぎになった。
暴れている所を抑えられるアイリス姫が、自分のために怒ったのだ、とルナはその時気づいた。