プロローグ.
雲ひとつない蒼い空の下でも、事件と事故だけは絶えることがない。
その日は、微細な塵さえ見当たらないほど澄み切った朝だった。だが、眩しい陽光に包まれたその空の下は、人々の濁った吐息と報道陣の喧騒に満ち、警察署前は異様な熱気に包まれていた。
すでに数十台のカメラが歩道を埋め尽くし、記者たちが肩をぶつけ合いながら場所を争っている。彼らが待ち構えているのは、ただ一人――武信グループ代表、ユ・ソンウだった。
「昨夜九時から本日午前十時まで、十四時間に及ぶ事情聴取を終えた武信グループ代表、ユ・ソンウ氏が、ただいま警察署から姿を現しました。ユ代表は匿名の情報提供者による通報を受け、麻薬流通、性犯罪、会社資金横領などの疑いで捜査を受けていたものとみられています」
リポーターの声が拡声器を通して響き渡る。
「ユ代表は昨年にも、匿名の情報提供者から数十億ウォン規模の脱税および横領、さらに株式詐欺の疑いで捜査を受けましたが、証拠不十分および嫌疑なしとして内偵は終結しております。それでは、ユ代表のコメントをお聞きください」
フラッシュが一斉に炸裂した。
「無実の人間を二度までも調べようとなさるとは……。どなたかは存じませんが、正直、気分は悪くありません。むしろ私は、その方に拍手を送りたいくらいですよ」
ユ代表はゆっくりと腕を掲げ、乾いた音を立てて手を打った。顔には疲労の色が滲んでいたが、口元には余裕の笑みが浮かんでいる。手首の高級時計は真昼の太陽を受けて鋭く輝き、その光は見る者の目を刺した。
「最後まで私を信じ、応援してくださった多くの皆さまに感謝申し上げます。私のような人間を二度も捜査の場へ引きずり出そうとする者がいる――それだけ、このソダム市にはまだ正義が生きているということなのでしょう」
「ユ代表、匿名の情報提供者を名誉毀損で告訴するおつもりはありませんか? それと、先ほど拍手をされた理由をお聞かせください」
質問を投げかけたのは、背の高い女記者だった。黒く長い髪をきちんと後ろで束ね、汗に濡れた額を指先で払っている。人波に押されながら必死に踏みとどまっていたせいか、ブラウスの上のボタンが一つ外れ、襟元がわずかに乱れていた。
ユ代表の視線が、その乱れた襟元に一瞬だけ滑った。
ほんの刹那のことだった。だが、その視線には蛇が獲物を舐めるような粘ついた不快さが宿っていた。女記者は気づかぬふりをしてマイクを握り直す。
ユ代表は何事もなかったかのように微笑みを浮かべたまま、再び報道陣へ向き直った。その笑みだけが、真夏の陽射しよりもなお冷たく見えた。
「先ほど申し上げた通り、正義への拍手――その程度にしておきたいのですよ。それに記者さん、今“名誉毀損”とおっしゃいましたか? 告訴だなんて、そんな恐ろしいことをどうして口にできるんです? いいえ、私はまったくそのつもりはありません。こういう市民意識の高い方々がいてこそ、この国の法と秩序は支えられているのでしょう? 違いますか、皆さん? ははははは」
言い終えると、三十代前半のユ代表は女記者に向かって軽くウインクを送り、大げさに笑ってみせた。
フラッシュがまた一斉に瞬く。
彼は記者たちの肩を押し分けるようにして人垣を抜け、すでに待機していたコールタクシーへ乗り込んだ。
「ユ代表! もう一言お願いします!」
車体に向かって伸びるマイクをよそに、ユ代表は窓を下ろして手を振った。タクシーはゆっくりと発進し、報道陣の喧騒を背後へ押し流していく。
警察署がバックミラーの中で小さくなった頃、ユ代表は首に巻いていた黒いネクタイを乱暴に緩め、吐き捨てるように言った。
「アナ、今度はどこのどいつだ?」
「代表、体調は大丈夫ですか。ご自宅まで安全にお送りします」
「当然だろう。それが君の仕事なんだからな」
ハンドルを握っているのはタクシー運転手ではない。秘書のペク・ジョンスだった。
「自分の車で帰れば楽なのに。“イメージが大事です”だと。チョン社長も面倒なことを言う」
「ですが今回は、チョン社長が裏でかなり動いてくださいました」
「わかってるさ、そんなことは」
ユ代表は鼻で笑った。
「いっそ留置場にベッドでも寄付してやろうか。もちろん俺専用のな」
車内に乾いた笑い声が響く。
「酒飲んで道端で寝ようが、ちょっと騒ぎを起こそうが、二日ほど泊まれば済む話だ。“ご心配をおかけして申し訳ありません”って頭を下げれば終わりだろ? なあ、ジョンス。上の連中に小遣いを握らせておけば全部丸く収まる。結局、この国ってそうやって回ってるんじゃないのか。できない奴だけが馬鹿を見る」
「おっしゃる通りです、代表」
ペクの声は低く、どこか湿っていた。
しばらく沈黙が続いた。信号待ちで車が止まると、ユ代表は窓の外を眺めながら思い出したように口を開いた。
「そういえば、この前買ったホテルがあっただろ。値上がり狙いで押さえたやつだ。あれ、君が見てくれないか」
「ホテル、ですか」
「他の連中は信用できなくてね。支配人って肩書きで入って、俺の頼みをいくつか聞いてくれればいい。給料は十分払う。今みたいなご時世、金を稼ぐのも大変だろう? そうだ、娘さんはいくつになったんだ?」
ペクは一瞬だけ視線を伏せた。
「この春、小学校に入学しました」
「小学生か。じゃあ、ますます金が要るな。俺なんかまだ独身なのに、君はもう小学生の父親か。なかなかやるじゃないか、うちの秘書は」
ユ代表は笑った。
ペクも口元だけで笑みを作った。
「すべて代表のおかげです」
「そう、その言葉が聞きたかった」
ユ代表は背もたれに深く体を預けた。
「金なんて、所詮は口の利けない紙切れだ。どう稼いだかなんて誰も気にしない。詐欺だろうが犯罪だろうが、最後はその金が全部片づけてくれる。違うか? だからな、ジョンス――プライドだの正義感だの、そんな役に立たないものは捨てろ。わかったな」
フロントガラスの向こうで、真夏の光が白く滲んでいた。
ペクはハンドルを握ったまま、小さくうなずいた。
「ええ、代表。私もそう思っています」
だが、その返事は車内の冷房音に吸い込まれるほど弱かった。
ペク・ジョンスは、社会的地位の高い代表に敬語を使い、それに見合う待遇を与えること自体に不満はなかった。
だが、自分より五歳も年下の三十代前半の男が、巨万の富と権力を手にしている現実を前にすると、羨望と嫌悪が同時に胸の奥に湧き上がった。
ユ代表は徹底して自己中心的な人間だった。
他人の人生など、自分の利益を測るための数字程度にしか見ていない――ジョンスにはそう思えた。
そして自分が今この運転席に座っているのも、結局はその男の世界に組み込まれてしまった結果なのだろう、と彼は考えていた。
ユ代表の言葉がすべて正しいとは思わない。
しかし、すべてが間違っているとも言い切れない。
そこが何より苦しかった。
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一方、警察署前には、この一部始終を最後まで見届けている男がいた。
彼こそが、この事件の匿名情報提供者だった。
説得力のある証拠も、事件の経緯を記した資料も、すべて警察へ提出した。
それでもユ代表は、まるで当然のように嫌疑なしで釈放された。
警察は言った。
「適正に捜査を行いました」と。
「また来たんですか。ちゃんと捜査してますよ。してますから。家でテレビでも見ながら待っていてください。結果が出るまで。ね?」
刑事は面倒くさそうに手を振った。
本当に捜査など行われていたのだろうか。
確かめる術はなかった。
検察も同じだった。資料をまともに調べることさえせず、「捏造された証拠の疑いがある」の一言で片づけた。
返ってくる言葉は決まっていた。
**嫌疑なし。**
その四文字だけだった。
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どうすれば既得権益に罪を償わせることができるのか。
どうすれば彼らを打ち砕けるのか。
男は拳を握りしめた。
この国には、あまりにも多くのゴミが溢れている。
しかも、捨てるための場所すら用意されていない。
汚れないはずがなかった。
正しい裁きも、公平な正義も存在しない国。
金によって刑罰の重さが変わる国。
地位を利用した投機も、詐欺も、株価操作も、見つからなければ許される国。
上の者が庇えば、それで終わる国。
賭博は「投資」と呼ばれ、投機は「資産形成」と呼ばれ、詐欺は「情報」と呼ばれる。
言葉だけが美しく塗り替えられていく。
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この国は長いあいだ他国に蹂躙されてきた。
その歴史のせいなのか、人々は他人を見ることをやめ、自分だけを守る術ばかりを学んできた。
皆が貧しかった時代にも、奴隷は存在した。
他人を売り渡し、その代価で生き延びる者たちがいた。
そして今も変わらない。
彼らは自分の利益のためなら他人を犠牲にし、罪を重ねてもなお、それを罪だとは思わない。
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犯罪を犯しても財産は没収されない。
だから彼らは、短い刑期を終えれば再び高級車に乗り、豪邸に住み、何事もなかったように社会へ戻ってくる。
金があるからだ。
社会は何度でも彼らに機会を与える。
誰かの命を奪っても、誰かの家族を骨の髄まで苦しめても、財産さえ残っていれば「成功者」として扱われる。
男は警察署の白い外壁を見上げた。
真夏の陽射しは眩しいほど明るかった。
それなのに、この国の正義だけが、どこまでも薄暗く見えた。
闇に沈んだ男の瞳だけが、湿った光を宿していた。
彼は考え続けていた。何度も、何度も。
――もし、それが理不尽だというのなら。
世の中には、死んでも惜しまれない人間がいる。
いや、死ななければならない人間がいる。
殺したいと思わせる人間がいて、消えなければならない人間が確かに存在する。
「正しい殺人など存在しない」
誰かがそう言うだろう。
ならば、こちらも問いたい。
「ならば、傷つけられて当然の人間はいるのか。どんな目に遭っても構わない人間が本当に存在するのか」
犯罪者に人権があるというのなら、被害者には人権がないのか。
奪われる側は、いつだって弱者だ。
強者は上から押し潰すだけだ。
だが、空の上にはさらに別の空がある。
それが人間であれ、天使であれ、悪魔であれ、何であろうとかまわない。
彼は胸の奥で、もう一度問い直した。
神は死という平等だけを与えた。
生き方の平等は与えなかった。
神は犯罪者の安寧にも沈黙する。
彼らを裁こうとはしない。
――ならば。
誰かが罰を下さなければならない。
誰かが罪を償わせなければならない。
法というものも結局は金と力によって形作られている。
法案を作り、通す権利を持つのは、力ある者だけだ。
そんな法で、被害者の痛みが測れるだろうか。
自分が同じ苦痛を味わうまで理解できない痛みなど、裁きとしてはあまりにも空虚だ。
だから今度は、お前たちが味わえ。
お前たちは、死んで当然の存在だ。
彼は静かに目を閉じた。
血に染まった世界のほうが、時に平和であることがある。
そのことを、自分が証明してみせる。
**有銭無罪、無銭有罪。**
金があれば罪は軽くなり、金がなければ罪は重くなる。
そんな言葉がまかり通る国で、彼はその言葉そのものを壊そうとしていた。
テレビに加害者の顔が映るたび。
インターネットから薄っぺらい謝罪が流れてくるたび。
法の裁きを受けず、誰より豊かに生きている姿を見つけるたび。
胸の奥で何かが黒く沸騰した。
殺したい。
その感情は、人間なら誰もが抱え得る悪意だった。
人が誰かを憎む過程には段階がある。
理由のない嫌悪。
次に、嫉妬と羨望。
そして最後に残るのは、行動するという目的だけだ。
殺意。
彼は思った。
人間には、殺人を犯した者と犯していない者しかいない。
ただ、その境界線を越えたかどうかの違いにすぎない。
そして今、その境界線を越える時が来た。
彼らには――**天罰**という名の残酷な刑罰が下される。
男は暗闇の中で、ゆっくりと口元を歪めた。
「平和というものは、時に壊れてしまったほうがいい。
壊れなければ、新しい平和は受け入れられないのだから」




