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第46話:(前編) 完工検査、二人だけの静かな夜

 地下根系の漆黒の汚染を物理的に削ぎ落とし、里全体のエネルギー循環を本来の清らかな形へと再定義してから一夜が明けた。世界樹の梢からは、かつてないほど瑞々しい精霊の雫が零れ落ち、地上に届く前に虹色の霧となって四散している。リアムは早朝から、エルナを伴って里の隅々を歩き、職人としての最終的な「竣工検査」を開始していた。


 彼は愛用の点検用ハンマーで石畳の接合部を軽く叩き、反響音の僅かな乱れを耳で聞き分ける。世界樹の樹皮の弾力、新しく引き直した水路の密閉性、そして住宅区の建付け。そのすべてを自身の魔導設計図に照らし合わせ、一ミリの誤差も許さぬ精密な点検を繰り返していく。


「各部の建付けは黄金比で安定しているね。地脈の圧力分散も完璧だ。これなら、百年やそこらの地殻変動があっても、この森の骨組みは一ミリも揺るがないよ。……よし、全部合格だ」


 リアムが点検表に最後の一筆を加え、満足げに頷いた。エルナはその隣に立ち、リアムの無骨な指先が里の構造を慈しむように撫でる様子を、一瞬たりとも見逃さないように見つめていた。彼女にとって、この点検作業こそが、リアムという職人がこの里に遺していく、最後の愛情の形であることを理解していたからだ。


 二人は最後に、劇的なリフォームを施したエルナの私室へと戻った。部屋の中は魔法樹の白木の香りが満ち、蓄光材が昼間の太陽を吸い込んで、穏やかな安らぎの波動を放っている。リアムは室内に入ると、まずは扉の蝶番に指をかけ、その開閉の抵抗を確認した。


「扉の動作に、微かな摩擦があるな。……エルナさん、少しだけ魔法油グリスを差させてもらうよ。気密性が高まったことで、空気の押し出しが以前より強くなっているからね」


 リアムが腰の工具ケースから小瓶を取り出し、金属の継ぎ目に一滴の油を注ぎ込む。エルナはその背中を見つめ、彼が微細な不具合を一つ直すごとに、自分たちの関係という名の「工期」が終了へと向かっているのを感じて、胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。


「リアム。……そんなに細かく直さなくても、もう十分すぎるほど温かいわ。……貴方が触れるたびに、この部屋がどんどん完璧になっていく。……それが、時々、私を少しだけ怖くさせるの」


「完璧でなければ、住人は不安になる。職人の仕事は、住人が不安の種さえ忘れて眠れるようにすることだよ。……ほら、これで指先一つで開閉できる。……世界で一番、建付けの良い扉になったよ」


 リアムは作業を終えると、工具カバンから一対の、見慣れない意匠の魔導鈴ベルを取り出した。それは彼が夜通しで自作した、特殊な共鳴石を用いた通信デバイスであった。リアムは片方のベルをエルナの杖の石突きに丁寧に固定し、もう片方を自分の作業着の帯に吊るした。


「エルナさん。もしこの里の建付けに、君の手に負えないような大きな歪みが出たら、このベルを鳴らして。……世界中のどこにいても、僕がその振動を検知して、すぐに駆けつけてリフォームしてあげる。……君はもう独り立ちした管理人だけれど、僕のアフターケアの対象であることに変わりはないからね」


 エルナは杖に刻まれたベルの冷たい感触を掌で包み込んだ。リアムは自分を突き放して去るのではない。遠く離れた場所からでも、常に自分の足元を支え続けてくれるのだという、職人としての最も誠実で重たい約束。その優しさに、彼女の鼻の奥が熱くなり、視界が微かに滲んだ。


「ありがとう、リアム。……私はこの音を、貴方のハンマーの音だと思って大切にするわ。……貴方がいなくても、このベルが鳴るたびに、私は貴方の温もりを思い出せるもの」


 竣工検査をすべて終え、二人は樹冠のテラスへと出た。西の空には燃えるような夕陽が沈み込み、世界樹の影がどこまでも長く、深い森を飲み込むように伸びている。里の広場からは、明日の祝祭に向けて準備を急ぐ住人たちの活気ある声が、風に乗って微かに届いていた。


「……明日の祝祭が終わったら、僕は次の現場へ行くよ。帝都でルナマリアたちが待っているし、他にも直さなきゃいけない扉が山ほどあるからね。……助手席を空けて一人で走るのは、少しだけ慣れないかもしれないけれどね」


 リアムが呟いたその言葉には、職人としての乾いた響きの中に、隠しきれない小さな寂寥感が混じっていた。エルナは何も答えず、ただ静かにリアムの隣に立ち続け、彼の作業着の袖に自分の指先をそっと重ねた。別れの足音が、リフォームされたばかりの美しい里の静寂を、より一層切なく、より一層際立たせていくのだった。


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