第11話 兆 候
寝苦しい夜だった。
季節は秋に向かって動いているにもかかわらず、まるで自分の周りだけなにかに包まれいてるような湿気を含んだ空気が肌にまとわりつき、開け放した窓からも風は入ってこない。
翔琉はベッドに横たわったまま、天井を見つめていた。
頭から離れないのは、あの都市伝説のこと――。
(くそっ!あの日カラオケに行かなきゃよかった)
そんな後悔を押し殺すように、写真に収めた桐山のノートを見返す。
……そのとき、視界の端を“何か”が横切った。
勢いよく身を起こし、部屋の中を見渡す。
誰もいない。
風が吹いたわけでも、カーテンが揺れたわけでもない。
けれど――確かに、そこに“気配”があった。
「気のせい、だよな……」
小さくつぶやき、無理やり呼吸を整える。
再び布団に体を沈めた、その瞬間――。
――♪~
耳元で、かすかに歌声が聞こえた。
「……っ!」
心臓が喉元まで跳ね上がり、息が止まりそうになる。
聞こえたのは一瞬。
でも、確かに――聞いた。あの歌――。
乾いた、ひび割れたような声。
その静寂の奥に、何かがひそんでいる気がしてならない。
――また、だ……。
翔琉は唇を噛んだ。
ここ数日、こんなことが続いていた。
最初はテレビの音が漏れたのかと思った。
けれど、誰もいない自室で、耳元で誰かがささやくような歌声が聞こえるわけない。
それだけじゃない――。
視界の端に、揺れる“黒い影”を何度も見ていた。
正面を向いた瞬間には、もう何もいない。
それが返って、怖い。
翔琉はもう一度部屋を見渡した。
どこにもいないとわかっているのに、息を殺すように。
窓ガラスに、自分の背後が映っていた。
――自分だけ、のはずだった。
だが、その肩越しに、何かが“いるように”見えた。
「うわっ!」
思わず声を上げる。身体は凍りついたように動けず、肩越しの“それ”から、目を逸らすことができない。
窓ガラスに映る自分。そのすぐ後ろ、暗がりの中に――確かに、もうひとつの“影”。
誰かが立っている。
黒く、ぼやけた、輪郭の不確かな“何か”。
目を凝らせば凝らすほど、そいつは“近づいて”くる気がした。
「……やめろ……」
かすれた声で呟くが、足はすくんだまま。背中に、氷のような冷気がまとわりつく。
――ドクン。
心臓が跳ねる。その直後、スマホの通知音が鳴った。
ピロンッ。
それだけで、全身の神経がビクンと跳ね上がる。
震える手でスマホを取ると、メッセージの通知が残っていた。
「誰だよ、こんな時間に……」
時計を見る。深夜2時13分。
着信は、ついさっき――1分前。
怖さを紛らわせるように、メッセージアプリを開いた。
新しい通知がある。
差出人は……「不明」だった。
「……は?」
不明って、誰だよ!
恐る恐るメッセージを確認してみると、そこには一言だけ送られていた。
――ウシロニ……イルョ
翔琉の顔から血の気が引いた。
スマホが手から滑り落ちる。
ガチャンと落ちた音が、異様に響いた。
その音に反応するかのように、部屋の空気が変わる。
風の動きが――止まった。
空気が「固まる」そんな感覚。
「や……やめろ……俺は、歌ってない、俺は……!」
振り返ってはいけない。
そんな本能的な恐怖が、翔琉の背中に釘を打つ。
でも、次の瞬間――。
背後から、はっきりと、誰かが囁いた。
『――ヤットォ……アエタァ』
翔琉は、悲鳴をあげる間もなかった。
部屋の照明が、一瞬だけパチパチと明滅したあと、ふっと消えた。
慌てて明かりをつけ、何度も周囲を確認したあと――。
……しばらくして、ようやく落ち着きを取り戻した翔琉は、深く息を吐いた。
「ふっ……まあ、ありがちだよな。耳鳴りとか、気のせいだって。ありがちありがち。ホラー脳すぎるっての、俺」
言いながら、自分で入れた紅茶をひと口……手がぶるぶる震えてる。
「ちょ……ちょっと手が冷えてるだけだし?」
なおも震えるカップを持ったまま、顔だけは必死に澄ましていた。
やたらと明るいテレビをつけ、ボリュームもやや大きめに。
「こ、これで完璧。今夜は快適に眠れる。全然怖くない。俺、霊とか信じてないし。の、呪いなんて……あるのか」
布団に潜り込み、電気を消した――すぐさままた電気をつけた。
翔琉はスマホを握りしめたまま、ため息をひとつ吐いた。
(こんなんじゃ……寝れるわけないだろ)
そう思いつつも、テレビの音と照明の明るさに囲まれて、少しだけ安心する。
紅茶をもうひと口……やっぱり手は震えている。
画面の中では、芸人たちが騒いでいる。
くだらないバラエティ番組。けれど、今はそれすら救いだった。
(“不明”って誰だよ……)
あのメッセージのことを思い出すたび、胃の奥がじわりと冷たくなる。
目を閉じれば、あの“影”の姿がまぶたの裏に浮かんでくる。
(……やっぱり、これって呪いなのか?)
あの日、あの部屋で――“あの曲”を聴いてしまったから?
あれはただの都市伝説じゃなかったのか?
思考はぐるぐると渦を巻き、結論も出口も見つからない。
そのとき、ピロンッ――再びスマホが鳴った。
「っ……!」
ビクリと身を起こし、恐る恐る画面をのぞく。
表示されたのは、むーさんからのメッセージだった。
『今変なこと起きてる……窓の外、誰か立ってた気がする』
『気のせいかもしれないけど、影が動いた』
翔琉は指が震えながら、ようやく返信を打つ。
「……やっぱり……俺だけじゃなかったんだ」
既読がつくが、しばらく返信はなかった。
部屋は静まり返り、窓の外は、夜の静寂に沈んでいる。
翔琉はスマホを握ったまま、ためらうように指を止めた。
「……実はさ、あの都市伝説に詳しい人に、話を聞いてみたんだ」
メッセージを送る。
すぐに返ってきたのは、短い一文だった。
『……そうなの?』
しばらくして、短いメッセージが届く。
軽い反応に見える。でも、むーさんの方でも何か感じているのかもしれない。
翔琉は続けて打つ。
「詳しいことは、近いうちに会って話すよ。ちょっと、文章じゃ伝えきれないっていうか……」
返事を待ちながら、画面をじっと見つめる。数分後、短いメッセージが届いた。
『呪いって、マジでこういうの関係あるのかな……』
画面越しに感じるむーさんの“怯え”は、自分とまったく同じだった。
『正直、今めっちゃ怖い。トイレ行けない』
「わかる。俺、さっき電気消してまたつけた。ガチで無理」
そう返信しながら、むーさんとのやりとりでさっきまでの恐怖がほんの少し和らぎ、ふと笑みがこぼれた。
お互いなにかあったらまた連絡しあおう――。とメッセージを送り、翔琉はスマホを置いて、深く息を吐く。
テレビの光に照らされた部屋の中、布団に身を沈め、もう一度電気を消す。
先ほどよりも、少しだけまぶたが重く感じられた。
* * *
翌日、樹は再度調査を進めるべく、朝からスマホを握って座っていた。昨晩、あの目撃者に送ったDMの返事が来ることを期待していたが、まだ返信は届いていない。
画面を何度も確認していたが、気づくと時間が過ぎていた。
再度DMをチェックすると、数件の新しいメッセージの中に、待っていた返信があった。
「あっ! 来たっ」
そのタイトルには「質問に関して」とだけ書かれている。
樹は急いでDMを開いた。
夕方、目撃者から指定された隣の市にある小さな公園。
迷いながらもようやくたどり着いた樹は、ベンチに座る男性を見つけ恐る恐る声をかけた。
「す、すみません。ご連絡頂いた池田さん……ですか?」
池田はコクリと頷くと「こんにちは」と軽く会釈をした。
「あなたがメッセージをくれた?」
「はい。恋塚と言います」
樹も会釈をすると、池田の隣に腰掛ける。
年の頃、五十前後。帽子を目深にかぶり、視線を泳がせていた。
「……あんまり、大した話じゃないんだけどね」
そう前置きしながら、池田は当時のことをぽつぽつと語り出す。
「その日は仕事帰りで、駅に向かって歩いてたんだ。ちょうど横断歩道のところで、近くにいた二人がボソボソと話す声がしてさ」
「なにを話していたか、内容はわかりますか?」
樹の問いに池田は静かに首を振る。
「……はっきりとは。でも」
「でも?」
男は目を細めて、当時の情景を思い出しながら、言葉を続ける。
「『お返し……受け取って』みたいな事を言っていたような」
――お返し……受け取って?
それってなんだ?
交差点にいた二人。その二人が交わしたかもしれない言葉。
頭の中でその意味を考えながら、池田を見つめる。
「その二人はどんな感じでしたか? 知り合いみたいだったとか、なにか揉めていたとか」
「どうかなぁ? ……ぶつかったのか揉めていたのか。話していたのはどちらも男性だったな」
記憶を辿るように池田は答える。
「で、見たんだよ。一人の男性が、もう一人に……押されたように見えた。押された方はそのまま道路に、バランスを崩して……」
その時の事を思い出したのか、池田は目を閉じて苦悶の表情を浮かべる。
「押した? 誰がですか?」
樹の声が、少しだけ鋭くなる。
「……顔までは見えなかった。夜だったし、街灯も反対側で影になってた。でも……背格好は、そうだな……一人は少し太めで眼鏡をかけていたような気がする」
「もう一人は?」
樹は身を乗り出して、池田の話に耳を傾けた。
「もう一人は、背が高くて……ガッチリしてたな」
そこまで聞いて、樹はおもむろにスマホを取り出し、以前みんなで撮った写真を池田に見せる。
「この中に、見覚えのある人はいませんか?」
池田は写真をじっと見つめたあと、首を傾げながら言った。
「うーん……暗かったし、はっきりとは言えない。でも……この人たち、雰囲気が似てるかも」
指さされたのは、瞳と祥吾だった。
(やっぱり……)
樹の胸の奥に、静かに疑念が灯る。
――あの夜、祥吾と一緒にいたのが瞳だったとしたら?
そうだとしたら、なぜ瞳は何も言わなかったのか。
そして、もしその場で何かが起きていたとしたら……?
薄く汗ばんだ手でスマホを握り直し、樹はもう一度、写真を見つめた。
この先にある真実が、ただの偶然でないことを、彼はうすうす感じ始めていた。




