第三章 22 エレカ・ヤヒメ
頭の中がふわふわしていた。踏みしめる地面もなんだかぐにゃぐにゃと変な感じがする。きっと、ティアから借りたホバーボードに最高速度で何時間も乗り続けていた影響だろう。その間に恐怖も不安も、全てが振り落とされてしまったようだ。警備車両に交じってトンネルを疾走している間も何とも思わなかった。ただ、リズカードの元へ行かなければ、という想いだけが彼女を突き動かしていた。
リズカードから返された小瓶は空っぽになっていた。この一週間、排水口に流すのも忍びなくて、虚無感を覚えながら集めていたものだったので、役目を果たしてくれて良かった。
──もう、ひとりにはしませんよ、リズカードさん。
エレカはその小瓶を胸元でぎゅっと抱きしめながら、リズカードの背中を追う。
ライトチタンの壁に開いた穴を抜けると、そこには大きな空間が広がっていた。エレカは教科書で見た中世の大聖堂を思い起こした。ガードや警備システムが待ち伏せている様子はなく、さっきまでの激動が夢だったかと思えるほど静謐な雰囲気が漂っている。ただ、エクスワードの人たちは油断することなく、やたらと大きな入り口の扉の方へ見張りに走った。
そして、入り口とは逆、奥の方には巨大な装置がそびえ立っていた。
「コントラ・ディアノメアス……」
と、リズカードが小さく呟いた時、装置の傍らに置かれた扉からひとりの女性が現われた。遠目でもエレカがはっと息を呑むほど神々しさをまとった彼女は、中世風の白い貫頭衣を着込み、こちらが怖じ気づいてしまいそうなほどの憂いの表情をまとっている。
来ない誰かを待ち続けるような彼女の名前をエレカは知っている。
「ネナ……」
隣でリズカードがその名を呟いた。
瞬間、彼女の表情に精彩が宿る。
「リズ」
漏れたのは、小さな、霞むような声。
しかし、強く、激しい引力を宿したようにふたりの身体は引かれ合った。少しの距離さえ厭わしいという風に互いの足が速まっていき、やがて、ひとつに抱き合う。
「ネナ……ようやく、ようやく会えた……」
「リズ、リズ、リズ……あああああああああ……」
リズカードは感極まった声で喜びを口にしたが、それ以上にネナは声を打ち振るわせて泣いた。すさまじい感情の発露だった。二百年分の恋慕が積み重なった慟哭に、見ているエレカの気持ちまで揺さぶられてしまう。
ただ、呑気に感動していられないほど彼女に対する疑念は心に根を張っていた。この場所にいたということは、ネナは間違いなくミクシアンの撲滅に手を貸そうとしている。その真意が知れるまでエレカの緊張が解けることはない。
──どうしてそんなことをするんですか? と。
しかし、その答えはリズカードの口からもたらされた。
「ネナ……こんなことをしたのは、俺に見つけてもらうためか──」
「えっ……」
それを聞いて、エレカは頭を殴られたような衝撃を受けた。思わず足を踏み出してふたりの方へと近づいていく。
嘘でしょう? たったそれだけのために、たくさんの人が死ぬかも知れない計画を?
「そう……そうよ……」
ネナは誤魔化しもせず、涙声で肯定した。
「どこにいるか、私に会ってくれる気があるのかもわからない、あなたを見つけるためには……こうするしかなかった」
「そ、そんなことのために……」
ふたりの傍らに立ったエレカは衝動的に口走る。リズカードの想いも、ネナの想いも痛いほどわかるつもりだ。けれども、どうしても言わなければならない。ネナの戸惑った視線を押し返すように、エレカは怒りを込めて言い放った。
「そんなことのために私たちの命を奪おうとしたんですか!」
「あなたは……」
呆然とするネナに、リズカードが告げる。
「エレカだ。この時代の友人で、彼女のおかげで俺は今ここにいる」
「私たち……ということは、ミクシアン……? そう、それなら、そうよね──そう言われても仕方がないわね」
ネナは胡乱な口調で呟くと、リズカードから静かに身を離し、潤んだ目でコントラ・ディアノメアスなる装置を見上げた。
「確かに、私はリズと出会うためにミクシアンたちを巻き込きこんだ……そのことについて言い訳はしないわ」
「ただ、こうして出会えた以上、もう装置を動かす意味はないだろう」
リズカードの言いに、ネナは首を振った。
「いいえ、残念だけど──もう作動してるわ。もう、ずっと前からね」
もう作動してる? エレカの全身にすっと冷たいものが走った。
侵入がバレた段階で作動命令が出てしまったのだろうか──なら、もう私たちは……。
凍り付くエレカの隣でリズカードも愕然と目を見開いたが、装置の方を見るとすぐに平静さを取り戻す。
「──なるほど。いっぺんに、ではなくほんの少しずつヴィスを取り除いているのか」
「ほんの少しずつ……」
オウム返しにエレカが呟くのに、ネナはうなずいてみせる。
「ええ。一気にヴィス量をゼロにすれば、全てのミクシアンが一斉に苦しみ、死んでしまう。中世のクノアじゃあるまいし、そんな大事件にすればライゴーだけじゃない、クインティトの信用は地に落ちて遠回りな滅亡を迎えるでしょう。それはヤグの本意じゃないわ」
「だから真綿で首を絞めるように、少しずつヴィスの含有量を減らしているのか。ミクシアンの数が自然に少しずつ、少しずつ減っていくように」
一応、すぐ死に至るわけではないとわかって寒気は引いたものの、長い時間がかかっても絶対にミクシアンを滅ぼしたい、という憎悪が伝わってきてぞっとしてしまう。
「だ、だから、私の身体から出るヴィス粒子の数が少なくなって……」
怖気を紛らわすようにエレカは言う。ベイハーが指摘していたヴィス量の減少は、このプロジェクトの産物だったことになる。
「ふむ、だとすると……」
リズカードは後ろで入り口の見張りにあたるエクスワードたちへ目を向ける。
「過激な抗議行動に走るミクシアンの動機も、実際は怒りではなかったのか」
「怒りじゃ、ない……?」
「ああ。ミクシアの取り込めるヴィスの量が減った結果、『飢え』だとか『酸欠』に近い状態になっていたんじゃないか」
ネナがうなずく。
「ええ。貧しかったり差別されていたりした、不安を感じやすいミクシアンは特にその影響を受けやすいはずよ。ストレスの抑圧にミクシアは多くヴィスを消費するからエネルギー不足に陥って、心の底にある怒りや憎しみが出やすくなるの」
エレカは自分の手を見下ろす。トロポスの大事件を引き起こしてしまった時のヒリつくような感情的な衝動は、ヴィス不足と極度の不安が合わさった生理的な反応だったのか。
フーロやティアたちが平気そうだったのは、彼女たちが確かな居場所を持ち強い不安を抱くことがなかったから。でも、そんな彼女たちだっていつか、ヴィス枯渇に蝕まれることは避けられない。そうして社会の下層にいる孤独な人たちから少しずつ、飢えて、苦しみながらいなくなっていき、遠い未来にミクシアンはみな消え失せてしまう──。
一度にいなくなれば悲劇になるが、少しずついなくなれば淘汰になる。
ひどい。エレカは両手を震えるほど強く握りしめた。
「そんな茶番もここで終わりだ」
リズカードは言い切った。
「ネナ、訊きたいことはいくらでもあるが今は事態の収拾を優先したい。こいつの稼働は止められないのか」
「停止権限はヤグが持ってるわ。コントロールには彼女の生体情報が必要よ」
「こいつも電子制御で現代化しているのか……ヤグは入院先の病院から失踪したと報告が入ってる。その線が使えないとなると後は昔ながらの方法しかない」
「……ジンク・ウェブとの接続を断つのね」
ネナの言葉にリズカードはうなずいて天井を見上げた。ディアノメアスは上部から亜鉛線が伸びてジンク・ウェブと繋がり、クインティト中のヴィス濃度に干渉しているらしい。そうして取り込んだヴィスは、装置下部の容器に白濁した非活性の結晶として溜まっていた。
「中世の時は元凶がヴィス放射だったから解決に至らなかったが、枯渇が問題になっている現代なら十分効果的があるはずだ」
「……ええ。ヤグには悪いけどそうするしかないわ」
ネナはそう言うと、ヴィス・スティックを取り出した。
「千年もののヴィンテージよ」
「二百年とっておいたのか……そこに溜まったヴィス結晶は使わないのか」
「今ある量でも活性化すれば、この部屋の酸素をほとんど吸っちゃうから扱いが難しいの」
「ふむ、クノアは十一ヴィセもの結晶をよく管理したものだ」
長い別離の期間を感じさせないほど慣れた風に会話を交わしながら、リズカードがネナの持つヴィス・スティックに手を伸ばした時だった。
「何か来るぞ!」
鋭い警句が聞こえた。入り口を見張るエクスワードの誰かの声だった。
確かに遠くから、何かが近づくような轟音が聞こえる。振り向くと、装置とは逆側にある巨大な扉が少しずつ開いていて──奥から、何かがこちらへ飛来してくるのが見えた。
「ヘリドローンだ!」
ヘリ? この地下空間に? 信じられない思いでエレカは目が凝らすと、確かに避難用に用いられるヘリドローンだった。しかし、その飛び方はおぼつかなく、あちこちにプロペラをぶつけながら這々の体といった有様だ。
「危ない!」
エクスワードたちが叫び声を上げてその場に身を伏せると同時に、その頭上をヘリドローンが通り過ぎ、地下空間の床へ胴体をこすりつけながら不時着した。
愕然と一同が見守る中、機体の中から人影が現われる。
それは髪を振り乱し、明らかに錯乱した様子のヤグ・ライゴーだった。
「ミクシアンめ! 彼女から離れなさい!」
ヤグはエレカを恐ろしい目つきで睨み、懐から何か黒いものを取り出して突きつけた。拳銃だった。実弾入りの殺すための武器。明確な殺意を浴びてエレカは動けなくなってしまう。
「ひっ──」
「エレカ!」
そんなエレカの前にリズカードが立ち塞がった。広い背中に何もかも隠されたエレカは、ダメ! と心の中で悲鳴をあげる。
と、視界にきらきらと光るものが見えた。はっとして、エレカはいつの間にか握りしめていた手を開く。ふわっとヴィス粒子が舞った。
「リズカードさん!」
「ああ!」
エレカの声にリズカードはすぐさま応えると、そのヴィス粒子を集めて魔法壁を張った。
直後、乾いた銃声が響く。タンタンタンタン、と音が立つごとに魔法壁にが音もなく銃弾を受け止め、運動エネルギーを失った銃弾は力なく地面に落ちていく。エレカは身を竦ませて、その音が鳴りやむのを待った。
「ヤグ!」
しかし、ネナのつんざくような呼び声に、事態は悪い方に動いているのだと悟る。
見ると、ヤグは制御端末の前に立って認証機に掌を押しつけているところだった。付近のセンサーから走査線が出て、ヤグ本人であることを丹念に確認していく。
「ダメ、ダメ、もうダメ! あいつらを全員殺さなくちゃ、私が殺される!」
恐怖に染まった声で喚くヤグにネナが追いすがる。
「ヤグ、やめて! そんなことをしたら巡り巡ってあなたの身だって──」
「うるさい! 今の時代に生きていないあなたに、私の何がわかるの!」
ヤグが半狂乱で発した言葉に、エレカは胸を貫かれたようだった。
それはいつか、エレカ自身がリズカードに言ってしまった言葉だったから。
──彼女は本気だ。止めないと。
だがヤグへの距離は遠く、リズカードが魔法を使おうにもエレカのまとったヴィス粒子はたった今、使い果たしたばかり。遅れてリズカードもヤグに向けて走り出したが──。
次の瞬間、流れてきたアナウンスに、エレカはかつて経験したことのない感情に襲われた。
『コントラ・ディアノメアス、ミクシアン問題の最終解決パッチの即時適用を行います。本当によろしいですか?』
「やりなさい、ただちに!」
ヤグの切り裂くような絶叫を、コントラ・ディアノメアスの制御システムは信じがたいほどあっさりと受理した。
『適応完了。クインティトにおけるヴィス濃度を即時ゼロに』
エレカは絶望に蝕まれたような現実感のない意識の中、装置にあるヴィス結晶を見る。
死んだような色をした結晶が、ほんのまばたきをする間にむくっと膨らんだ。
『処置完了しました。ヴィス濃度、ゼロ。目的達成につき、本システムは停止します』
そうしてミクシアンにとって、ひどく冷たい時間がやってきた。




