Kapitel.2
僕はこれでも国立大学を第一希望としていたので、毎日放課後の勉強は欠かさなかった。今のところこのまま努力を惜しまなければ可能性はなくもないということなので、こんなところで怠るわけにはいかない。
雅樹に気持ちがばれたと知ったあの日から、彼は特に目立った行動をするわけでもなく、僕になにか言うでもなく、ただ平穏に時は流れていった。
完全に油断していた僕は、雅樹にとって絶好の獲物だったのだろう。
「隣、いいかな?」
放課後、図書室で勉強していた僕に声を掛けたのは、他でもない矢崎里菜だった。
なるべく最小限に抑えたが限度があり、僕は声こそ出さなかったものの全身を使って驚きを表現してしまっていた。なんとも恥ずかしい。
隣に誰かが来るのをあまり好まないために荷物を置いていたが、僕は早急に片付ける。
「突然ごめんね。中江くんが毎日ここで勉強してるって諏佐くんが教えてくれて。そう、よかったらなんだけど、英語教えてほしいんだ」
彼女は小声で言う。恥じらいながら言うところが可愛くて、僕は彼女を見ることさえできない。
「のぞみに英語教えてもらってたんだけど、わかんないって騒いでたら諏佐くんが、中江くんなら教えるの上手だって教えてくれて。・・・あ、でも勉強の邪魔になっちゃうかな?中江くんだって自分の勉強が・・・・・・」
僕の頭も心も既に容量が足りなかったがなんとか働かせる。
ここでチャンスを無駄にしてはいけないことは、今までそんな経験がない僕にだってわかった。
「全然問題ないよ。わからないことがあったらその度呼んでくれて構わないから」
僕は持っているスキルを全て使って最善な回答を導き出したつもりだが、上手く笑えただろうか。
彼女は僕の返事にぱああっと笑顔になり、嬉しそうに頷く。
きっと今頃雅樹はくすくすと笑っていることだろう。
ちなみに、中江は僕、諏佐は雅樹を示し、のぞみというのは僕の前の席、つまり彼女の隣の席の女子のことだ。
「どうだった?放課後のお勉強は」
翌日、案の定雅樹は楽しそうに僕に訊いてきた。
「ナイスアシストだろ」
僕の心を読んだように笑う雅樹は、一層僕を複雑な心境にさせる。
「昨日の様子を詳しく教えろよ」
「やだね」
昨日の様子もなにも、ただあのまま勉強を続け、彼女がわからないところをひたすら教えていただけだった。
だけ、というのは少し語弊があるかもしれない。強いて言えばいつも通り集中できたわけもなく隣で考え込む彼女をちらちら見ていたのは事実で、僕の説明で彼女が理解して笑顔になってくれたときにはこの上ない嬉しさが込み上げてきたし、帰り際、ありがとうと笑ってくれた時には胸がいっぱいになったし、その時の彼女の笑顔は絶対忘れない。
一言で言えば、まあ良い放課後だった。
しかしそれは雅樹の手の上で踊らされたように思えたので、僕は素直に感謝できなかった。
それでも雅樹はそれほど気にする様子もなく、小さく肩を竦めた。
「まあいいけどさー。・・・失敗すんなよ?」
「・・・・・・努力はするけど」
「あー、そうじゃなくて」
雅樹は少し躊躇ったように髪をかきあげた。そして僕を指して言う。
「お前。自分のこと。勉強に差し支えないようにな」
僕はまさか彼がそんなことを言うとは思わず、眼をぱちくりさせた。
誰かに勉強を教えるという経験が過去にもあったことを、僕は今回ほど良かったと思うことはないと思う。相手がわかったと喜んでくれるのが嬉しくて、どうすればわかりやすく教えられるか悩んだこともあった。
彼女はまた図書室に来た。
「さすがに勉強しなきゃだしね・・・!わからないとこがあったら教えてもらっても良いかな?」
僕は「もちろん」と返す。素っ気ないかもしれないけれど、理性を保つにはこうするしかなかった。
ただ一つ後悔するなら、僕に女性の経験がなかったことだろうか。こういうときにどういう反応をしていいのかがわからない。というより、気持ちがついてこない。心臓がうるさい。
僕が自分と必死に戦いながら勉強に励もうとしていると、彼女はぼそっと呟いた。
「毎日、勉強しに来ようかな」
つい反応してしまい、彼女を見た。彼女はそんな僕をちらりと見て、恥ずかしそうに俯いてしまう。
「いや、家に帰るとどうしても気が緩んじゃうし、勉強、しなきゃだし・・・・・・」
言い訳のように慌てる彼女はもう言葉にできないほど可愛くて、僕まで顔が赤くなるのを感じた。
そう、こういうときだ。僕はなんて言えばいいんだろう。自分まで恥ずかしくなって何も言えない。
「・・・・・・中江くん、毎日ここに来てるんだよね?」
「あ、うん」
少し躊躇うような表情を一瞬見せて、しかし照れたように彼女は続けた。
「隣、いいかな?」
もちろんです!
こうなったらさすがに雅樹に感謝しないわけにはいかないと思った僕だが、それでも素直に言葉にできなかった。
「・・・・・・?」
言うか迷う僕を訝しげに見ていた雅樹は、しばらくして合致したとばかりにいつもの笑みを浮かべていた。
「ああ、なるほどね」
僕は何も言っていないのに何がなるほどだとは思ったが、雅樹のことだからおよそ察しはついているのだろう。
「で?どうなった?」
「・・・これから、一緒に勉強することになった」
雅樹に促されるままに話すのは些か不本意ではあったけれど、こんな夢みたいな状況を作り出してくれたのは雅樹以外の誰でもないので逆らうのも躊躇われた。
「ほお。お前にしては成長じゃね?」
「本当に来るかはわからないけど・・・」
僕は少し不安をこぼす。しかし、雅樹はそんな僕に断言した。
「いや、矢崎なら行くよ」
このときの僕には、なぜ彼がそんなことを言い切れるのかわからなかった。