最終話 初めまして、俺の彼女
翌朝、日和から一通のメッセージが届いた。
『少し早く教室に来て』
いつもより二十分早く学校へ着く。
教室の扉を開けると、日和が窓際の自分の席に座っていた。
初めてこの教室へ来た日と同じ場所だ。
けれど、今日は周りに誰もいない。
「早かったね」
「呼んだのは日和だろ」
「遅れてきたら、返事を一日延ばそうと思ってた」
「危なかった」
「冗談です」
日和が椅子から立ち、俺の前へ来る。
髪には、黄色い花がついていた。
「もう一回だけ、初めましてって言ってもいい?」
「昨日、終わらせただろ」
「今度は、やり直すためじゃないよ」
日和は背筋を伸ばす。
「私が誰か、ちゃんと名乗るため」
明るい笑顔で、右手を差し出した。
「初めまして。篠宮日和です」
その手を握る。
「相沢直哉です」
「知ってます。幼馴染なので」
「俺も知ってる」
「でも、まだ知らないところもいっぱいあるよ」
日和の指が、俺の手を握り返す。
「嬉しいとすぐ喋りすぎるし、嫉妬したら面倒だし、直哉が思ってるよりわがままです」
「大体もう知ってる」
「ひどい」
頬を膨らませたあと、日和は自分から笑った。
「私は直哉が好き」
昨日の俺と同じように、目を逸らさず言う。
「昔の直哉も、今の直哉も好き。でも、昔から一緒だったから付き合うんじゃない」
つないだ手が少し熱くなる。
「美緒のことで、私は自分がずるかったって分かった。白石先輩と話して、怖くても直哉の答えを私が決めちゃいけないって分かった」
日和は一度、息を吸う。
「今の私が、今の直哉と付き合いたい。だから――」
声が少しだけ震えた。
「私と付き合ってください」
今度は俺が返事をする番だった。
「はい」
「短くない?」
「日和が昨日、一日待たせたから」
「それとこれとは別でしょ」
「好きだ。付き合ってください」
「よろしい」
日和は得意げに笑い、握手の形だった手を恋人つなぎへ変えた。
「直哉、顔赤いよ」
「日和もだろ」
「私はいいの。彼女だから」
「どういう理屈だよ」
廊下から足音が聞こえ、二人同時に手を離しかける。
日和が途中で止めた。
「もう隠さない」
「そうだったな」
最初に教室へ入ってきたのは航平だった。
つないだ手を見て、足を止める。
「朝から答え合わせを見せられた気分なんだけど」
「何の答えだよ」
「お前らが、いつ付き合うか」
航平は自分の席へ鞄を置き、勝ち誇ったようにうなずいた。
「俺の卵焼き理論が勝ったな」
「それを日和の前で言うなよ」
「何の話?」
日和がすぐに食いつく。
「好きになったきっかけと、今好きな理由は別だって話」
航平が先に説明した。
「卵焼きは?」
「たまたま弁当に入ってた」
「全然理論じゃないじゃん」
日和が笑う。
教室へ人が増えるたび、つないだ手へ視線が集まった。
日和は少し恥ずかしそうにしても、離さなかった。
やがて、美緒が入ってきた。
俺たちを見つけ、扉の前で動きを止める。
笑わなかった。
「付き合ったんだ」
「うん」
日和が答える。
美緒はつないだ手を見つめ、ゆっくり息を吐いた。
「今は、おめでとうって言えない」
日和の指に力が入る。
それでも手を離さず、美緒を見る。
「分かってる」
「まだ直哉が好き。日和に勝ちたいとも思ってる」
「うん」
「でも、邪魔しない。約束したから」
美緒は俺へ視線を向けた。
「朝も待ってない。メッセージも送ってない」
「守ってるな」
「褒めないで。嬉しくなるから」
「ごめん」
「謝るのもやめて」
美緒は自分の席へ向かう。
日和が名前を呼びかけたが、途中で止めた。
今追えば、美緒が自分で取った距離を壊す。
二人は友達へ戻らなかった。
それでも互いを見ないふりもせず、傷を残したまま同じ教室で過ごすことを選んだ。
「直哉」
日和が小声で呼ぶ。
「何だ?」
「今、手を離したくなった?」
「少し」
「正直だね」
「でも、離さない」
「うん。私も」
つないだ手を机の横へ下ろし、朝のホームルームが始まるまでそのままでいた。
◇
放課後、図書室で綾乃先輩へ報告した。
「日和と付き合うことになりました」
綾乃先輩は返却台の本を持ったまま、少しだけ動きを止めた。
「そうなんだ」
すぐには、おめでとうと言わなかった。
一冊ずつ本を机へ置き、両手が空いてから俺を見る。
「やっぱり、悔しい」
「はい」
「でも、私が聞いた答えと同じなんだね」
「変わってません」
「なら、おめでとう」
声は少し震えていた。
それでも、笑って誤魔化さずに言った。
「ありがとうございます」
「今日は手伝って。失恋した先輩一人に、全部持たせないで」
「もちろんです」
二人で返却台を空にする。
仕事が終わって昇降口へ向かうと、自動販売機の前で榊原先輩が待っていた。
「綾乃、今日は何にする」
綾乃先輩は桃とミルクティーを見比べる。
「今日は桃」
迷ったあと、自分で選んだ。
榊原先輩は何も言わず、桃のボタンを押した。
◇
校門を出ると、日和が待っていた。
「遅い」
「図書委員だっただろ」
「知ってる。彼女だから待ってたの」
「彼女って言いたいだけだろ」
「今日くらいいいでしょ」
日和が俺の隣へ並ぶ。
少し歩いたところで、自分から手を差し出した。
「直哉」
「何?」
「恋人は、こうやって帰るらしいよ」
「誰に聞いたんだ」
「誰にも。私が今決めました」
「日和らしいな」
その手を握る。
十年一緒にいた過去は、消えない。
琴葉にもらった言葉も、昔の日和が選んだ振る舞いも、なかったことにはならない。
美緒が俺を好きになり、自分も周りも見失ったことも。
綾乃先輩が誰かの面影に傷つきながら、自分の恋を選んだことも。
すべてを経たうえで、今隣を歩いているのは篠宮日和だ。
明るくて、欲張りで、怖くても自分から手を伸ばす、現在の日和。
「帰ろ、直哉」
「ああ、日和」
初めましてから始め直した俺たちは、互いの名前を呼びながら歩き出した。
つないだ手は、今度はどちらも離さなかった。




