EP46 不協和音の処刑
リリアの意識は、暗く冷たい真珠の深淵へと引きずり込まれていた。
そこは彼女の幼き日の記憶――陽だまりの回廊。
「リリア。お前は本当に、優しい子だね」
慈愛に満ちた声が聞こえる。教祖となる前の、まだ穏やかだった父の姿ではない。そのさらに奥、厳格だった祖父である先代大司教が、幼いリリアの髪を優しく撫でている。
「お父様は……怖いの。みんなを救うために、何かと引き換えになろうとしている」
「リリア、聞くのだ。聖座の光とは、何かを切り捨てることではない。たとえどんなに深く暗い闇であっても、寄り添い、共に歩むことだ。お前は優しい子だから……きっと、誰よりも暖かな光になれる」
祖父の温もりが、冷え切ったリリアの心を溶かしていく。
だが、その光景は歪み、今の父・バルタザールが、信者の魂を真珠に変えながら狂気的な笑みを浮かべる姿へと塗り替えられていく。
「――違う。お父様は、私の光じゃない!」
リリアは真珠の中で手を伸ばす父の幻影に向かって、力いっぱい拒絶の声を上げた。
「私の光は、教義の中にじゃない! 今、ここで私を守ろうとしてくれる……あの人たちの心の中にある!」
――バチィッ!!
リリアの周囲を包んでいた真珠の障壁が、内側から弾け飛んだ。
彼女は神殿の床に手をつき、荒い息を吐きながら激しく覚醒した。
「はっ……!!」
リリアが目を見開いた瞬間、周囲に漂っていた真珠たちが、彼女から放たれた純粋な神聖力の衝撃で一時的に光を失い、曇る。
「……リリア!」
カイエンがすぐさま駆け寄る。その瞳には、かつてないほどの確信が宿っていた。
「解析は済んだ。ディーヴァの歌声は『真珠』を媒体にして増幅されている。歌が途切れる瞬間の、エネルギー循環の空白……あの真珠の眼球が一瞬だけ明滅するタイミングが、奴の核を露出させる唯一の隙だ」
カイエンは魔剣を腰だめに構え、リリアとジン、そしてガザムを振り返った。
「リリア、あの真珠の眼球を『光』で幻惑しろ。ガザム、お前は私の足場になれ。ジン、お前が引き金だ!」
絶望の縁から戻ったリリアの瞳に、迷いはなかった。
父の亡霊に別れを告げ、彼女は今、仲間と共に「光」となった。
「……分かりましたわ。ですが、集中するために1分だけ時間をください」
リリアの言葉に、全身から血を流し、息も絶え絶えのジンが絶叫に近い声を上げた。
「1分だと!? この状況でか! 冗談だろ……!」
神殿は崩落寸前であり、異形の信徒たちはすでに呼吸を止めて四人を囲い込んでいる。だが、カイエンは一切迷わなかった。
「……分かった。1分間、俺が全弾引き受ける」
カイエンが深く息を吸う。その全身から噴出したのは、禍々しくも圧倒的な漆黒の魔力だった。魔剣に秘められた深淵の力が溢れ出し、カイエンの姿がまるで塗りつぶされたかのように黒く変貌していく。それは彼が秘めていた真の力――『深淵の断罪者』。
「なんだ、あの力は……!?」
ガザムが盾を構えたまま呆然と呟く。ジンもまた、その凄まじい威圧感に言葉を失った。黒塗りの剣士と化したカイエンが、信徒たちの群れへ突撃する。一歩踏み込むたびに地面が陥没し、振るわれる剣筋が空間そのものを切り裂いていく。
使徒『真珠の歌姫』の無機質な顔が、初めて恐怖に歪んだ。
「その力……! まさか、あの女の……! 私たちをこの世界へ転移させた元凶は、やはりあいつの!?」
『真珠の歌姫』が叫び、全方位から真珠の弾幕を乱射する。しかし、黒化したカイエンは全てを回避・迎撃し、母貝の懐へと肉薄した。
――1分が経過した。
「いまだ、リリア!」
カイエンの合図と共に、リリアの両手から神殿全体を包み込むようなまばゆい「聖なる閃光」が解き放たれる。真珠の眼球たちが一斉にその光に射抜かれ、狂ったように痙攣した。
「――ッ!?」
使徒の歌声が、強烈な光による幻惑で途切れる。
その刹那、ジンが放った『逆位相の共鳴弾』が使徒の真珠の鎧を打ち抜いた。リズムを乱され、無防備になった母貝の裂け目。
「歌声の根源、断ち切らせてもらう!」
カイエンの魔剣が、神殿の空気を震わせるほどの速度で突き出される。歌声の振動数と完全にシンクロさせたその一撃は、巨大な真珠母貝を内側から粉砕した。
「あぁ……私の……真珠が……っ!」
使徒の悲鳴が、ひび割れた真珠の音と共に神殿へ消えていく。巨大な母貝は砕け散り、そこにいた「歌姫」の姿は光の粒子となって霧散した。
直後、神殿を埋め尽くしていた真珠の眼球が全て濁り、信徒たちの亡骸と共に崩れ落ちる。
嵐が去った神殿に、重苦しい静寂だけが残った。カイエンは黒い魔力を霧散させ、肩で息をしながら魔剣を地面に突き立てた。
「……終わったか」
リリアは光を放ったままその場に膝をつき、倒れ込んだジンとガザムの元へとゆっくりと歩み寄っていった。その表情は、先ほどまでの絶望を乗り越えた、静かな誇りに満ちていた。
「カイエン様!」
黒い魔力が霧散し、力の反動で立っていることすらままならないカイエンへ、リリアが駆け寄った。カイエンは弾かれたように崩れ落ち、リリアの胸の中にその身を預ける。
そのまま膝枕という形で視線を落とすと、リリアの潤んだ瞳がすぐ近くにあった。
「……よく気持ちを強く持てたな。あの状況で、お前は本当にすごいよ」
カイエンは掠れた声でそう呟き、深く安堵の息を吐いた。
その傍らで、ガザムは瓦礫の山に跪き、消えゆく信者たちの魂に向けて静かに祈りを捧げている。その横では、ジンが武器を放り出し、泥にまみれた床に座り込んで尻餅をついていた。
「はは……信じられねぇ。まさか、あんな化け物を本当にやっちまうなんてな」
ジンは乾いた笑い声を上げながら、天井の崩れた神殿から差し込む光を見上げていた。
やがて、カイエンがゆっくりと身体を起こす。リリアは彼を支えながら、静かに神殿を見渡した。そこにはかつての大司教である父や、無残に真珠にされた人々の形跡が散らばっている。
「……お父様、そして教団の皆様。どうか、皆様の魂が安らかに……健やかでありますように」
リリアが手を組み、清らかな祈りの言葉を紡ぐ。その声は、殺戮の場であった神殿の空気を浄化するように響いた。
カイエンは黙してリリアの祈りを見守り、ジンも帽子を脱いで深く頭を垂れる。ガザムは祈りの手を止めず、神殿に満ちる悲しみと静寂に寄り添った。
四人はその場に並び、ただ静かに黙祷を捧げた。
先ほどまでの激戦の咆哮は消え、残されたのは、彼らが紡いだ命の重みと、これから始まる「整理」への決意だけだった。
神殿の奥底から、ようやく遠くの陽光が、彼らの足元を明るく照らし始めていた。
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