プロローグ:崩壊の序曲
「世界に歪み(バグ)が生じた。ならば、俺が全てを『整理』する。」
かつて帝国を監査した青年は、禁忌の魔剣を手に、崩壊する世界の終焉を断ち切る。
かつて、その街は豊かさと平和の象徴だった。
魔導工学の粋を集めて発展した都市。巨大な蒸気機関が力強い鼓動を刻み、街道には色鮮やかな光を放つ魔石灯が夜の暗闇を優しく照らしていた。
滑らかに石畳を走る魔導車と、その隙間を縫うように駆け回る子供たちの歓声。賑やかな市場には香ばしい料理の匂いと陽気な音楽が満ち、行き交う人々の顔には絶え間ない笑みが浮かんでいた。魔導の「祝福」を享受する人々の暮らしは、永遠に続くかのように思われた。
その雑踏の中を、制服に身を包んだ俺――帝国監査員としてのカイエンは、静かな足取りで歩いていた。
当時の俺は、この国の平和を深く信じ、己の職務に誇りを持っていた。街の景観や魔導炉の不備に鋭い視線を走らせつつも、その胸中にあったのは人々を守るという純粋な矜持だった。
「あ、カイエンさんだ!」
露地の物陰から、パンくずを手にした少年が駆け寄ってきた。
「カイエンさん。今日も街のパトロール?」
「パトロールというわけじゃない。監査だ」
俺は脚を止め、少年の視線に合わせて少しだけ腰を落とした。
「カイエンさんってさ、この国で一番偉い人たちの一人なんでしょ? だって、大人の人たちがみんなお辞儀してるもん」
純粋な好奇心を向けてくる少年に、俺は小さく苦笑し、頭を軽く小突いた。
「偉くなどない。俺の仕事は、街や仕組みの中に隠れた『問題』を探すことだ。壊れる前に直し、みんなが安全に暮らせるようにするためにある」
「ふーん……問題を探す仕事かぁ。じゃあ、この街には問題なんて全然ないね! だって毎日すっごく楽しいもん!カイエンさんがいればこの街も安心だね!」
「……そうだな。何もないのが一番だ」
少年のはじけるような笑顔に、俺の表情も緩む。この温かな日常を守ること。この国がもたらす技術と秩序こそが正義であり、自分はその歪みを正す者なのだと、俺は微塵の疑いもなく信じ切っていた。
――だが。
『自分が見つけられなかった問題』は、あまりにも唐突に、逃げ場のない破滅として訪れた。
始まりは、ほんのわずかな違和感だった。
カチ、カチカチカチカチ――――ッ!
街角の時計塔が異様な音を立てて狂い出し、針が猛烈な速度で逆回転を始めた。直後、街を支えていた巨大な魔導装置が、重い金属音とともに一斉に機能を停止する。
「え……? 電気(魔石灯)が消えた?」 「おい、魔導車が動かないぞ!」
人々が顔を見合わせ、ざわめきが広がったその時。
頭上の青空に、まるでガラスが割れるかのような真っ白な『亀裂』が走った。空間そのものが歪み、空一面に巨大な転移魔法陣の幾何学模様が、禍々しい光を放って展開されていく。
突然の異変に、しかし住民たちはパニックを起こさなかった。彼らはあまりにも長く、国の高度な魔法技術と平和に守られすぎていたのだ。
「なんだい、あれは?」 「また新しい魔導の演出か?」 「国の研究機関が、何か凄い新発明でも発表するんじゃないか?」
誰かが楽観的な声を上げ、人々の間に小さな安堵の笑いが漏れた。
――だが、次の瞬間。
世界の「座標」が、根底から崩壊した。
ド……ッ!!!
音もなく、大空間そのものが切り落とされた。悲鳴を上げる暇すら与えられず、立ち並ぶ重厚な石造りの建物が、半分だけ別の空間へと削り取られて消失した。遠くの山々や見知らぬ景色が、街の真っ只中に強引に「転移」し、ねじ込まれる。
「ひ……あぐ、あぁぁぁぁぁっ!?」
悲鳴が絶叫へと変わる。空間の歪みは、無差別に存在を塗り替えていった。大地と人間が同じ座標に融合し、足元から石畳に呑み込まれて身動きが取れなくなる人々。壁の中に半身を埋め込まれ、血を噴き出して絶命する者たち。
街を温かく照らしていた魔石は一斉に不気味な赤黒い光を放ち、蓄積された魔力を暴走させて破裂。周囲の人間を巻き込んで炎と結晶の塊へと変えていく。
「祝福」だったはずの魔導が、惨酷極まりない「災害」へと裏返った瞬間だった。
「カイエンさん……! 助けて、カイエンさ――」
先ほどまで笑っていた少年の体が、足元から現れた紫色のバグの亀裂へと引きずり込まれていく。
「待て! 手を掴め!!」
俺はなりふり構わず手を伸ばした。世界を解析する己の目を開き、全速力で駆け寄った。
しかし――届かなかった。
目の前で空間がパツンと爆ぜ、少年の姿も、先ほどまで活気に満ちていた市場のすべてすらも、光の塵となって空間の彼方へ消失した。
あとに残されたのは、半壊した瓦礫と、融解し結晶化した人間の残骸。そして、地獄のような惨状を見下ろす、狂った空の亀裂だけだった。
「……あ……」
俺は膝をつき、血と灰の混ざった土を固く握りしめた。
何も見つけられなかった。問題を探すのが己の仕事だと誇っていた男は、世界そのものが崩壊する最大の歪みを前になすすべもなく、ただ大切なものすべてが奪われていくのを眺めることしかできなかった。
豊かな街は、一瞬にして消えた。 残されたのは、崩壊する世界の残骸と――世界を「整理」することしか許されない、灰の剣士だけだった。
――あの日から、どれほどの破滅を見届けてきただろうか。
燃え盛る残骸が、鉛色の空を毒々しい橙色に染め上げていた。 かつて緑豊かだった村は、使徒の汚染によって変異した肉塊と、不協和音の叫び声に満ちている。 それは、世界という組織が「システムエラー」を起こし、自己破壊を始めたかのような光景だった。
俺の腕の中で、少年の呼吸は驚くほど軽くなっていた。 汚染がその小さな肺を浸食し、神経を麻痺させている。 少年は俺の顔を見上げ、歪んだ景色を見つめながら、壊れかけた夢を見るように微笑んだ。
「……カイエンさん、空が……すごく綺麗だよ」
俺は何も言えなかった。 俺の目には、腐敗した大気が煤をまき散らし、世界が死んでいく様子が克明に映っている。 けれど、少年にはそれが、かつてこの場所にあったはずの、透き通った青空に見えているのだ。
「ああ、綺麗だ……。僕、これがずっと見たかった景色なんだ……」
それが、少年が遺した最後の言葉だった。 その瞳から光が失われ、腕の中の温もりが急激に冷えていく。 俺はただ、動かなくなった少年の頬を撫でるしかなかった。
帝国の栄華を支えたのは、こんな無惨な実験の積み重ねだったのか。 使徒の力と引き換えに、彼らは何を守ろうとしていた。 俺は騎士として、監査員として、腐敗を見過ごしてきた。その結果がこれだ。
俺は少年の瞳を静かに閉じさせ、立ち上がった。 魔剣が、少年の血と汚染の残滓を吸い込み、鈍く脈動を始める。 俺の心臓の鼓動も、それに応えるように冷徹なリズムを刻み始めた。
「……状況を整理しよう」
俺は独りごちた。 感情の昂ぶりを殺し、悲嘆を論理の中に封じ込める。
この現場は、もう救えない。 ならばせめて、この崩壊の連鎖を、俺の手で解体する。
それが、監査員としての最期の仕事だ……。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
理の崩壊した世界で、カイエンが何を見て、何を「整理」していくのか。
少しずつ世界の歪みが明らかになっていきます。
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