12. 否定の契約
12. Pact of Negation
がつ、がつと、肉を貪る音に混じって、舌鼓を打つ唸り声が聞こえる。
「うーむ…何処かで喰ったことのある味だな…」
「おい、お前。」
「え……?」
「これは、何という名前の料理だ。」
「な、何で、そんなこと、聞くんだ…」
「聞けば、思い出すかも知れないだろう。」
思い出すって…どうして狼が、人間の食べ物のことを知っているんだ。
いや、そもそも、この狼は、見た目の通り、狼なのか?
それに、この料理は…
「そこの死体が、作ったのでは無いのか?」
「…?」
初め、誰のことを指しているのか理解するのに、数秒かかった。
そして、リフィアのことを言っているのだと分かった瞬間、ようやく枯れたと嘯いた目を、涙が覆う。
乾いた瞳が水を得る、それが、痛いこと痛いこと。
「何だ、番が作った料理の名前も、憶えていないとは。薄情な奴だ。これでは…」
彼の言葉は、僕の怒りを誘う為のものだったのだろう。
でも僕は、お前が思っているような人間じゃない。
少なくとも、思った通りになんて、なるものか、そう思えただけだ。
「ろ、ロブスカウス…」
「ああ!それだ、それ!そんな名前であった…!」
狼はぱっと顔を輝かせると、自分がいつも座っていた席に用意してあった食事にも、手を付け始めた。
壁に寄りかかって、彼女と肩を寄せ合いながら、
呆然と眺める光景が余りにも異質で、未だに状況の理解が追いつかない。
狼が、食卓の上に乗って、残飯をがつがつと喰い散らかしている。
旨い、懐かしいなどと、味の感想を、人間の言葉で、漏らしながら。
きっと僕は、まだ悪い夢を見ているのだ。
そう思うことにしよう。
こいつが、僕の前から姿を消した時が怖い。
この狼が、リフィアを殺したので無いことだけは、確かだった。
そう信じられたのは、こいつが人間を襲えば、まずそいつを喰い殺すに違いないと思ったからだ。
この狼は、飢えている。
臭いを嗅ぎつけたのだろうけど、腹が減ったぞと言って、ずかずかと人の家に上がり込んで、そこにある食べ物を躊躇なく喰い散らかすほどなのだ。
そして、リフィアの身体に、牙を突き立てられたような場所は、ひとつも見当たらない。
彼は、お零れを貰いにやって来ただけの、野犬の類に過ぎないんだ。
そう言うと、この狼の存在が途端にごく普通の害獣に聞こえて来るけれど。
残念なことに、この獣は、人間の言葉で、僕に語り掛けて来る。
それも、かなり流暢で、馴れ馴れしく。
俺は、神様だと。
確かに、そんな異質な存在であることに、疑いの余地は無いけれど。
だったら、どうしろと言うのだ。
「ふぅー…喰った喰った。たまには外食?も、悪くないもんだな。」
もし仮に、本当に神様だと言うのなら、何の為に、此処にいる?
「ぼ、僕と…」
歯が、ガチガチと鳴って、言うことを聞かない。
「り、り…リフィアに、何の用だ…」
狼は、震える俺を机の上から悠々と見下ろし、にやりと笑う。
口先にこびり付いた汚れが、血糊のように見えるが、あれは料理にかかっていたソースだと思うことにした。
「言っただろう。別に、お前に用があって来た訳では無い。」
「…じ、じゃあ、料理を食べに来ただけって言うのか…?」
「此処は、そういう店だったのか?だとしたら、そういうことになるかもな。」
わざとらしくそう言ってのけると、僕の反応を見て、さも嬉しそうだ。
「大層な上客だっただろう。人も碌に入っていなかったみたいだしな。」
「……。」
確かに、この狼の言う通り、ここはそういう店 ’だった’。
店の看板は、雪を吹き付けられて、もう見えなくなってしまっているかも知れないけれど、それでも取り外さずにいる。
Ulvenwald(狼の森)。
そうリフィアと二人で、決めたんだ。
おかしな話だ。だからこんな、こんな狼が、迷い込んでしまったのかな。
まだ開店してから、一年も経っていないのに、細々とさえ、やっていけてない。
それなのに、僕が、お店の存続に必要な資金を作るため、こうやって長い間留守にしていたから。
客のふりをした凶漢に、入り込まれてしまったんだ。
「上客、だって?」
無銭飲食しておいて、良くそんな口が聞けたものだ。
お前は、リフィアを殺したそいつと、何も変わらない。そう言ってやりたかった。
「確かに、払ってやれる金は無いが…」
「俺もお前に貸しを作るのは御免なのさ。見返りは、ちゃんと用意してやる。」
狼は、舌できれいに、口の周りを舐めとると、もう一度皿の上に一瞥をくれてから、こう仄めかした。
「どうだ、俺は、その女を殺した奴を、どうやら知っているようだぞ。」
「…!?」
「お、お前が…やったんじゃ、無いのか?」
「お前の中で、そうではないと、答えを出したものだと、思っていたが。」
一応、口に出してみただけだ。
もしかしたら、この狼が、僕にとって一番楽な真実を伝えてくれるんじゃないかと、期待したから。
「じ、じゃあ、誰が…」
「ほう、俺に縋るのか?」
「え……?」
「人間の言葉を操り、神様だと名乗る、狼の姿をした怪物の言葉を、信じると?」
「じゃ、じゃあ……見返りって言うのは…」
「はぁー…」
「良いか、初めにこれだけは、はっきりさせておくが…」
「俺はお前を救ってやろうとか、これっぽっちも思っちゃいない。」
「自分が、特別に選ばれたなどとは、決して思わないことだ。」
「悲劇の主人公を気取るのは、結構だが、俺からしてみれば、お前のような奴は、この世界に巨万といる。」
「外を見てみろ。最愛の妻を失った夫が、この世界に、お前ひとりだけだとでも思うか?」
「そんな中で、お前だけを選ぶ理由が、何処にある?」
「お前は、それに値すると、どうして思える?」
「……。」
「そうやって、俺に牙を剥こうとすらしない時点で、高が知れていると言うものだ。」
「可哀そうな自分を愛で、悲観的価値観を覚え、」
「人間をつくりもしない、人として日一日と退化している実感すら無い。」
「泣く泣く躊躇って、生きることを選べば、幸せですってか?」
「下らぬ命を紡いでも仕方が無い、そう思っても、お前のような奴は、決まって長生きするよ。」
「…そうは言っても、全く以て、お前に興味が湧かない訳では無い。」
「……?」
「これも、何かの縁かも知れぬ。少なくとも、お前には、そう思って貰って構わない。」
「実のところ、俺はな、俺の代わりに人前で動いてくれる、ちゃんと人間の形をした操り人形を、募集中なのだ。」
「利益に忠実で、善人を装うのが得意で、どんなに残酷な行為も、自分をきちんとだまくらかして、平気な顔でやってのけるような…」
「自分を神様だと、或いはその代弁者だと思い込んだ、真正の屑が欲しい。」
「そして候補は、もちろん、多い方が良いのだ。」
「まあ、そういうことだ。喰ったから俺は帰るぞ。」
そう言うと、狼は机から軽やかに飛び降りた。
飛び掛かられたんじゃないかと思って、びくりと膝が上がったが、腰も抜けてしまって、力が出ない。
「ま、待て…!」
「ああ、そうだったな。食事代、だが…」
狼は、考え込む素振りを―彼らのような動物を具に観察など、したことも無いのに、そのような表情をしていると思った。
顎先を僅かに上げ、月夜を仰ぐように。
「そうだな、お前のことを…見ていてやる。」
「見て…いる、だって?」
「お前に、幸運を、授けてやった。」
「……それ、だけ?」
「そうだ、神様らしいだろう?」
それは、神様じゃない奴が、使う言葉だ。そう思ったが、黙っていた。
「まあ、俺が付いていると言っているのだ。躊躇わず、思い切り、やれば良い。きっと上手く行く…」
「だから、お前。俺の興味の惹くことを、して見せろ。」
「興味を、惹く…」
「……。」
「お前、名前は?」
「……そうか。聞かない名だな。まあ、当たり前だが。」
「では、楽しみにしているぞ。」
「Siriki、お前がどんなことをするか、ずっと。」




