10. 裏切り者の都
10. City of Traitors
“出立の前に、腹いっぱい詰め込んでおくのだったな…”
彼方で、いつまともな食事にありつけるか分からないのだから、せめてそれぐらいの準備はしておいても、罰は当たらなかったように思う。
しかし、思い通りの展開だった。
その場で群れを離れることに、何ら躊躇いは無かった。
Vojaさえ俺を咎めなければ、誰も入ったばかりの狼の失踪を気にすることはあるまい。
その上、一番言い訳に難儀しそうな彼自身が、俺の再編入を認める意志を示したのだ。
あいつは賢い狼だ。序列をはっきりさせるような流血は、互いに望むべきところでは無いと知っている。
これで俺は、影の長と言っても良い。この群れを自由に出入りできる特権的地位を、手に入れたことになる。
一度譲歩を許したのなら、あいつは俺の身勝手な行動を、これからも黙認するだろう。
それに、本能的に、感じ取っているのだろう。どうやら俺の力を、狼としてではなく、借りたいらしい。
半端な意思ではあったが、それっぽく協力を仄めかしてやれば、あいつだけじゃない、皆が、俺の言うことを何でも聞くに違いない。
もちろん、彼女を除いて、の話ではあるが。
あまり、長い間群れを留守にするのだけは、よしておこう。
仮にも、一匹になる決意のある勇敢さを備えている狼だ。どんな向こう見ずな行動に出て、俺に余計な心配をさせるか分からない。俺を追って人間の住処に入り込み、彼らに命を脅かされるような面倒だけは、御免被りたい。
分かっている。狼の拠点として、あそこ以上に都合の良いパックは、そうそう見つかるまい。未だにこの世界の地理を把握できずにいるが、新たに狼の群れを求めるような時間も労力も、今は惜しい。
本当に、良いパックだと思った。捨てるつもりは無い。
しかし、これから出会う人間に関しては、とことん冷酷になる必要がある。何処までも選り好みをして構わない。なんせ、俺はそいつの面倒を、暫く見てやらなきゃならないんだからな。
俺を不快にさせる性格だったり、Vojaのように、資質はあっても現状に甘んじているような奴だと分れば、その時点で切り捨てれば良い。俺はそいつを宿り木にする必要は、全くない。
ミッドガルドは、人間と、巨人が蔓延る世界だと聞く。代わりはそれこそ、腐る程あるだろう。
問題は、その中から原石を見つけ出す眼だ。
篩は、既にかけられている。平和ボケした日常を脅かす戦争によって。
きっと見つかる。いや、見つけてみせる。
一心同体とまでは行かずとも、神々に粛清の裁きを受ける時は一緒だと思える人間が。
これは契約、いや、互いを戒める拘束なのだ。
森を抜ける頃には月明かりも耐え、雪がちらつき始めている。
空を頼りに進路を確かめられなくなったのは痛いが、吹雪を心配する程でも無さそうだった。
群れの狩り場から南東へ向け、傾斜のゆるい峠を越えれば、次第に雪の積もり方も少なくなり、森の樹木がまばらに姿を変えていく。針葉樹が続いていた風景は、少しずつ高さを失い、折れ曲がった落葉樹の林が増え始めた。
“あれだな……”
人間の匂いは、殆ど漂って来ない。先の森の中の方が、強く充満していたぐらいだ。
だが遠くを見渡せば、廃屋や、荒れ果てた畑の跡が点々とあるのがようやく見え始めた。
都心から離れた、田園地帯と言ったところだろうか。
かつて人が暮らしていただろう小さな集落は、戦争の痕を物語るように焼け落ち、煙の匂いさえもはや微か。
それでも、俺の眼を輝かせ、また安堵させるのには十分な目新しさだった。
こんなもので喜ぶとは、俺は雪山に遭難した人間にでもなった気分だ。
茂みから、じっとその景色を眺めていると、
自然と、鼓動が高鳴り、胸がきつくなるのを抑えなくてはならなかった。
“……。”
今から、本当に俺は、人間の都市に潜入するのだ。
覚悟が揺らいだ訳では無いが、実感が伴い始めた途端に、俺は捨てられた仔狼のような不安感を覚えてしまう。あの頃は、神々の土地に帰れないことを、あれほど絶望していたと言うのに。
大丈夫。立ち入って構わない。何も咎められることは無い。
俺は、只の一匹の狼として、彼らに目撃されるだけだ。
怪物の侵入として、皆に恐れられるような事態は、決して起こりえない。
受け入れられることは無くとも、それは狼として、或いは、神としてである。
何をグズグズしているんだ。
誰かと一緒じゃないと、こんなことも出来ないのか?
彼女も、連れてこれば良かったか?違うだろう?
さあ、堂々と、歩き回ってやれ。
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“…此処はもう、完全に駄目だな。”
新鮮な匂いに、初めこそ気を張っていたのだが、これでは難民はおろか、生存者と思しき人間の影を探る気さえ起きなかった。
路上には足跡が少なく、むしろ漁り屋のそれが勝っている。
避難民が捨てたらしい荷車、そこから零れ、中身の空けられた箱、家畜の残骸の類が、雪から顔を覗かせていた。防衛手段を持たない地方を、侵略の手始めとして、また食料の補給として、既にやりたい放題荒らした後のようだ。
領主はよっぽど、無能であったらしい。分かったのは、それだけで、俺の興味を惹くものは、何も無かった。
あっさりと見捨てるにしても、まさか寝耳に水の襲撃だった訳でも無いだろうに。
問題は、その先。
高々と聳える城壁の向こうの具合が知りたい。
既に敗戦国と成り果てたと言うのなら、城下町で、犇めき合っている筈だ。
その膝元まで進むと、ここは多少の往来があるのか、雪が踏み固められており、人間が最近通った形跡が薄く残っている。氷と泥が混じった車輪の轍が伸び、曲がり角に倒れた道標が埋もれていた。
この中に、今は夜の外套を被って、輪郭さえ朧だが、Vojaの言う城塞がきっとある。
“衛兵の類も、いないのか…?”
開城は、済んでいる様子だったが、半開きになった城門は、打ち砕かれた様子が見られない。
兵士らしき姿は見当たらず、枯れた堀の底に泥水が凍りついている。
北側から、攻め入られたのでは無いのか?
城壁の内側だけが残り、外周部はほぼ焼け落ちたまま。その構図は間違っていなさそうだが。
半ば崩れた石壁や、焼け落ちた板戸、壊れかけの歩廊があっても良いだろうに。驚くほど奇麗だ。
不自然だな。
これでは、どなたでも、ご自由にお入りくださいと言っているようなものでは無いか。
…他に、死闘を繰り広げ、一点突破に成功した城門があるのだろうか?
道中の、外郭で放棄された集落の荒れようからして、蹂躙に酔った徒党の滞在があったのだとばかり思っていたが、あれよりも酷い跡地が近くにあるのかも知れない。
寄り道するつもりは無かった。俺が知ったことでは無い。
侵入経路がこうして怪物の口の如く開かれているのだから、労せず入り込んでやれば良いだけの話だ。
実際、俺が本来の体格を、大狼としての風貌を備えていたとしたら、銀松の大樹よりも見上げる城壁はどれぐらいの大きさであったのだろうか。
片足で踏みつぶせるほどの高さであるのか、或いは飛び越えるぐらいの障壁ではあったのか。興味のあるところだ。
しかし、形ばかりの門番や守備兵さえ常駐しないのは、やはりおかしい。
俺が人間の姿をしていたとしても、夜間に堂々と城門を潜るのを誰も止めないこの状況。
兵士が殆ど消耗し、ごく中心部以外は放棄されていたとしても。
他国の便乗を危惧せずにはいられない筈。
“神々の息吹がかかると、こうも不自然な点だらけになるか…?”
これは駄目だ。口の端を歪めずにはいられない。
明らかに、無理やり‘負かされている。’
…これは、大当たりだ。
「歓迎の意ぐらい、示してくれても良いのだがな。」
上機嫌に張った人間の声というのが、久しぶりという気がする。
ちょっとした咳払いが必要なぐらいに。とても好ましいことだ。
「…何という名前の国であるのだ?」
「折角の来賓に、案内役の一人でも、つけて欲しいものだ。」
仮にも、これからこの国を、今までに類を見ぬほどの速度と勢力を持って、再興してやろうと言うのに…。
隙間と呼ぶには、これまた大きすぎる暗闇から漏れ出す冷気が、俺の鼻先を擽って嗤う。
「ふふっ……」
「ああ、分かっている。」
「…直に、俺の縄張りだ。」
「自分でじっくりと、見て回ることにするよ。」




