60. 逆刺の瀉血器 6
60. Barbed Bloodletter 6
ガンッ…ガゴォォ―ン…!!
鳴り響く鉄格子の音だけでも、罵倒のような恐ろしさがあった。
おらっ、さっさと吐け。この蛮族めが、ここにもうお前を救ってくれる仲間なんて一人もいない。
まだ、人間の言葉による怒号があった方が、温かみがあると言うものだ。
もし僕が、この部屋の近くの住人だったら、容易く精神に異常を来す。
この無機質な爆音の正体を掴めぬまま、ただ苛まれ続ける、それだけで、立派に拷問の役目を果たしていると言えた。
責苦を受けているのは、鉄籠の中だけでは無いのだ。そう言い訳してみる。
『だぁぁっ…うあ゛あ゛っ…!!出せぇっっ…!!出しやがれえっっ!!』
瞼が酷く乾いている、僕は嫌悪感と裏腹に、その抵抗を、文字通り凝視していたのだ。
根比べ、と言っても良かった。
でもきっと、この袋の中身が再び静かになるまでの辛抱だ。
皮肉にも、こんな状況で取り乱さずにいられたのは、僕の股の間で蹲る、この謎の生き物のお陰だった。
これのお陰で、僕は耐えきれずに立ち上がらずに済んだのだ。
愛玩を求めているのだろうか。Sebaがしてやったことを、僕がしてやれていないことは、確かだった。
鎖の捩れが解け切った頃には、回転し続ける格子の外からは見て取れなかった、見るも無惨な囚人の姿があった。
『ぜぇっ…ぜっ、ぜぇっ…ぜぇぇっ…』
棘だらけの内面に寄り掛かり、はじめと比べると随分と躍動した呼吸でその表皮を膨らませている。
袋はそこら中ではだけ、中身が露呈していた。
尤も、それらは全て、針の通り道だったもの。開いても開いても、本当の素肌は出てこない。
だが、僕が懸念した通り、目に見えた衰弱こそあれど、彼らは自分らの想像を超える精神力と鋼の筋肉を備えていたのだ。
それは、まだ踠くことをやめない。自らの拘束を解こうと、必死になっている。
できる確信があるのだ。
そして、実際に、その身を削る試みは、果たして身を結びつつある。
それは、いや、彼は、纏わり付く革の拘束具に、一つ、大きな裂け目を至る所に作りつつあった。
肘と、肩のあたりの出っ張りが、見える。
どくどくと血を流す切り口は、一際目を引いた。
一抹の不安が、頭を擡げる。
この狼頭の拷問吏たちは、それに気がついているだろうか。
これは、ヴァイキングの囚人が脱走を遂げる為の、糸口になりかねないだろうか。
彼らが用意した鉄籠は、良くできている。それ故に、その構造は寧ろ懸念材料だったのだ。
顔の高さに針が無く、目を抉る心配が無いことだ。尤も、あの袋の下で、既にそうした重要な感覚器官が保たれているのかは、甚だ疑わしいが。
そして、もう一つは、細やかな抵抗として、籠の中で姿勢を低くする余地も、どうやら無いということだ。
あまりにも棘のないスペースが狭すぎる。内壁に持たれて座り込もうにも、針が深々と引っかかって進まない。その間にも、向こうの針だらけの壁に向かって叩きつけられ、永遠に繰り返すだろう。
ギリッ、ギリ…ギリギリ…ガガガ…
再び、鉄籠は無慈悲な呻き声を上げながら、回転の準備を始める。
その間も、捕虜は必死に踠いていた。
戦意の火が失われていないのは、流石は戦士と言ったところだ。
僕だったら、とうの昔に泣きじゃくって、顔面を必死に、棘のない鉄格子に叩きつけていただろう。
Sebaなら、この玉座で、それこそ安心し切って、その無意味さを嗤っていただろうか。
いつまで、見せつけられていれば良い?
ヴァイキングの肉体は、相当に頑丈だとわかった。これが再び動かなくなるまで、まだ相当な時間が必要であうことは、この狼頭たちも、薄々勘付いていることだろう。
「…退屈だ。」
とても、本心からは程遠い。既に、僕は当分布団に包まる幸せを素直に享受できない程度には深い傷を負わされた。
でも、その一言で、離席が叶うのでは。僕は思わず呟いた。甘いどころか、悪手になるとも知らずに。
これがSebaにとって、愉悦であるとしても、そろそろ単調に思えてくるのでは無いだろうか。そう思って漏らした一言であると同時に、もう自分がどの立場に感情を移入させているのか、わからなくなり始めている危険信号だった。
今、僕に寄り添いたいと思えない相手は、あの狼の覆面の下ぐらい。
あれと同じ立場だけは、想像したくなかったのだ。
「……。」
あのマントを羽織った、狼頭のリーダーは、僕の、いや、Sebaの反応をとても気にしているように見えた。きっと、本人の命令に忠実であるのだろう。その上、この場での主人を楽しませる為の、司会進行の役割を仰せつかっている為に、顔色を伺い、品書きを整えることに余念が無いのだ。
実際、そいつは再び右手を挙げ、二人の仲間に、何らかの合図を出した。
彼らの視界が、どれだけそのマスクのうちで制限されているか分からなかったが、にも関わらず、彼らの意思の疎通は完璧だった。彼らはぴたりと鉄籠を回す手を止める。
狼頭は、鉄籠の前に進み出ると、袋の足元あたりで、カチャカチャと金属音を鳴らす。
カチン…
ぼとり、と縄状のものが垂れた。袋を縛っていたベルトを外したのだ。
袋の中の彼にも、その拘束が解かれたのがわかったのだろう。
未だ足元は硬い布に覆われたままだったが、それでも彼が恐る恐る両足を広げ、自分の可動範囲を確かめていることがわかった。
足元の拘束を解いた。それが、囚人にとって、どれだけ喜ばしいことかは、想像に難く無い。
踏ん張れる。視界を奪われたままであるから、完璧にとまでは行かないまでも、衝撃に備えることはできる。そんな希望が、袋の中の躍動に見て取れた。
細やかではあるが、拷問の終わりをも予感させただろう。
実際、それは希望的観測と言えなくもなかった。
ガラララ…
狼頭は、牢屋を出たのだ。
思わずマントの中で、心臓を握りしめる。
そして、こちらの牢屋に入ってくる…!
ばれた、と思った。
余計な一言が、鈍感でいてくれた狼の耳に不信感を招かせてしまったのだ。
「あ、あ…」
鉄格子の扉を潜り抜けると、その巨体が視界を遮る迫力は、僕を椅子の上で簡単に縮こまらせた。
似た恐怖があったのだ。本来の姿で降臨なさったFenrir様が、此方を威圧的に見下ろしている。
恐怖に顔面が引き攣り、取り繕うこともできない。
彼がマントの中から腕を取り出した時には、観念してきつく目を瞑った。
胸ぐらを掴まれ、感情の抜けた狼の鼻面から、どんな声が漏れるか。
次にあの鉄の揺籠で弄ばれるのは、間違いなく僕…
ぼとっ
「……?」
いつまで経っても、狼頭が襲ってくる様子はない。
代わりに足元で、鎖がじゃらじゃらと流れる音で、僕は驚いて目を見開く。
Sebaの愛玩物が、何かに反応して、動いたのだ。
何だ…この、指で摘めるほどの大きさの丸い…2つの塊は?
その正体を掴む前に、すぐにぼさぼさの長髪の覆われてしまった。
餌だ。群がっている。
むしゃむしゃと、汚い咀嚼音が聞こえてくるが。
…何故、今?
狼頭は、間の悪い給餌を簡略的に終えると、僕に一瞥をくれることもなく、檻を後にした。
持ち場に戻ると、彼らは特段、僕の要望に応えた様子も無く、再び囚人に、同じ責苦を与え始めた。
『う゛っ…う゛ぅ゛っ…ぐぅぅぅっ…?』
…?
ヴァイキングの様子が、おかしい。
先までは、吠えるような彼らの言葉に、きちんと悪態の類の言葉の連なりを感じ取ることができていたのだが。
今のは、まるで、狼狽えている獣の呻き声だった。
今までも予測不能な受難であったにも拘らず、何か、本質的な異変を感じているのだ。
ぺっ…
異変の伝搬を感じた、殆ど同時に、
足元で、間食を終えたらしい生き物から、汚らしいごちそうさまのげっぷ。
そして、何かを吐き出した音。
あれは…?
目を凝らしても、理解が及ばなかった。
肉塊が纏わり付くのであれば、それは骨だ。
だがそれはもっと透明で薄く、はじめ僕は、それが捌き終えて残った、血の滲んだ魚の鱗のようだと思った。
…違う。
これは…
爪、か?
じゃあ、あの2つの肉球は、
指?
何処の?
ガシャーン!!
『がぁぁっ!?』
『てめぇ…俺の足に…何をっ…!』
袋の中に、きちんと足の形が見える。
にも拘らず、彼の体は、面白い程に、籠の中で揺れた。
まるで、外部からの衝撃に合わせて、自ら勢いをつけているように。
一体、どんな細工を?
指を高々2本奪われた、それは大きなことなのか?
『やめてくれっ…ぎゃあぁっっ!!』
その答え合わせは、容易く目の前で示された。
どうしてかは、分からない。
しかし、どうやら、このヴァイキング。自らの二本足で、立てないのだ。
ガゴォォン!!
『あ゛あ゛っ…!!ぎゃあああっ、ぐぅぅっ…ぎゃうう!?』
彼の両足は縺れた。
完全に鉄籠の内側に身を擦り付け、その上、
ブチュチュチュ、
身を預け、腰を降ろそうと、引きずってしまった。
ズズズズウ…
『ひぎゃああぁぁーーっ…!?』
僕も、同じ叫び声を上げる自信があった。
あれはきっと、目を瞑っていれば、狼の爪を前に頑強に思えた肉塊がやすやすと引き裂かれる瞬間に等しい。
『あ゛う゛ぅっ…う゛ぅぅっ…』
今までは弄ぶだけの鉄棘が、急に表情を変えた。
彼は蹲ることさえできない。中途半端に体を抉られ、体を不自然に捩ったまま、その棘たちに支えられている。
そして、鎖の捩れは、まだ十分に、その回転を残していた。
『やっ…やめ…』
ガゴォォォーン!!
反射的に足元が動いたのがわかった。
肩幅精一杯に広げ、揺れが向かう方向へ重心を保とうとする。
『う゛う゛ぅっ!?』
ブチュチュチュ
……!?
ありえない、と思った。
彼は、つんのめったのだ。それで初めて、僕はこの袋の前後を知ることが出来たのだが。
守り続けてきた自らの前面を、胸を、腹を、股間を、思い切り棘だらけの内壁に向かって差し出す。
『あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛――――っっ!!!!!』
「は、はは…」
くすり、と嗤うまでは行かずとも、僕の頬に引き攣りが走ったのがわかった。
それは、完全に彼から自衛の尊厳を奪った瞬間だった。全く踏ん張りが効かないとか、それどころでは無い。
されるがまま。それがどんなに戦士の誇りに効くかを、僕は目の当たりにしたのだ。
もう、歯止めが効くことはあるまい。
待ち受けていたのは、一縷の望みに賭けた、最後の大暴れだった。
びくびくと身体を痙攣させ、まるで無知で撃たれることを覚えた奴隷のよう。
罵倒も、息継ぎの間が長くなるばかりで、喘ぎ声にしか聞こえない。その悪態らしき単語も、単調な何かの繰り返し。
『だのむ゛っ…もうっ…うわああ゛あ゛っっーーーっ嫌だ嫌だ嫌だっ…!!』
ガシャンッ…!ガゴンッ…!ドゴンッ…!
彼は、今まで見せたどの瞬間よりも激しく、自らの体を鉄格子に向かって打ちつけ、在らん限りの吠え声を上げた。
あらゆる方向を、あらゆる角度から。
本当に、それで拘束を解くことが出来ると信じて。
『だぁじでぐれぇぇーーーーーっっ!!だぜだせだせだせぇぇぇぇぁぁぁーーーっ!!』
『うおあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛――――っっ!!』
『……。』
そして、
水を打ったように、息を潜めた。
ゴガッ…ギギギィィィィーーーッッ!!
ブッチュウウ…
『ぃ゛ぃ゛い゛っっ……い゛ぃぃぃ…』
袋の皮は、もう必要ない。
彼は、生まれ変わってしまったのだ。
『ひぎゃあああああああぁぁーーーーっっっっ!!』
「……。」
強烈に匂い立つ錆の臭さとは裏腹に、殻に吸われてしまったのか、籠から滴り落ちる血の音は侘しく控えめだ。
正体を表したのは、鎖の無い鉄枷を後ろ手に嵌められたヴァイキングの徒党だった。
拘束は、本当にそれだけだった。
あとは、無傷のまま保たれた、顔面を覆う硬い革の拘束だけ。
それだけなのに、彼は鉄籠の中で、殆ど無抵抗に、外皮を剥がされ、全身を棘だらけの格子に身をずっしりと預けたまま、腰の辺りを痙攣させながら、喘いでいる。
扉を開き、中身を取り出す様は、まるで彼を押し込める作業と変わっていなかった。
ドチャッ…
肉塊が地面に叩きつけられる音で、しかしいつの間にか、結構な量の血溜まりができていたらしかった。
彼は、驚くほど素直に、可愛げがあるほど殆ど無抵抗に、自らの体が再び新しい革に包まれるのを、黙って受け入れている。
終わったのだ。
もうこいつは、主人を楽しませられない。
「はぁっ…はぁっ…はぁっ…」
僕は、そこで初めて、自分が漏らしていた興奮気味な呼吸に、耳を済ませなければならなかった。
手に滲んだ汗の量が尋常ではなく、いらぬ罪悪感を強いる。
…僕は、どうすれば良い?
今ここで僕が喜べば、Sebaの役は完成する。喉元まで込み上げてきているものを素直に吐けば、Sirikiのまま死ねるだろう。
例えば、それは、そう、勿体ぶった、控えめな、拍手とか。
僕は、席を立った。
愛玩動物を蹴る羽目になってしまったが、どうでも良い。
一瞬だけ蝋燭の光が翳り、僕と狼頭たちを隔てる、二つの鉄格子の間を、巨大な影が通ったからだ。
まるで風の強い日に、巨大な雲が、街道を突如日陰で覆い尽くすような闊歩。
「Fenrir様…!!」
聞かなきゃ、今此処で。
僕は、貴方に相応しかったですか。




