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60. 逆刺の瀉血器 5

60. Barbed Bloodletter 5


ギィィィィ…―


苦しそうに軋む鎖の金切り声とは裏腹に、鉄籠は思ったよりも元気よく跳ね、鉄格子に向かってスイングを始めた。


あれは、押し込められている中身より、随分軽いのだ。

住人はきちんと真ん中に行儀良く立っていないと、忽ち均衡を失ってだらしなく傾く。


そして、僕の目の前にあるのと同じ鉄格子に、

これまた、拍子抜けするほど軽快な音を立てて。


ガキィンッ…!


ドチャっ


ぐわりと鎖が撓み、檻は中身をひっくり返すような勢いで回転して、今度は、僕から見て右手の方向へと軌道を変えた。


狼頭たちは、三人でそれぞれの壁に張り付き、それを持ち場としていたらしい。

一人が佇んでいた壁に、鉄籠が回ってくると、今度は底板を掴み、逆の回転を加えて反対側へ押し出した。


ギィィ…ギィィィィ…


再び鉄籠は勢いよく回転を始めるかと思いきや、中身の重さのせいで、そこまで躍動した動きは見せなかった。

高々、半回転。外見上は、だが。


ぶちちっちちちちっ…!!


中で起きたことは、籠に囚われている者にしか知り得ないのだったら、どれほど良かっただろうか。

流石に、目を覆いたいような帰結は、見る者にも容易に想像できた。


でも、今のはきっと、彼に巻きつけられた外皮が裂けた音に過ぎない。予想外に不快だったのは、おそらくあの棘一本一本に、返しがついているからだ。


まるで、獣に突き立てられたそれが、容易に抜けないようにする為の工夫とそっくりに。

一つ、違うことがあるとすれば、彼らは、その返しを付けた棘を、態々引き抜くことを繰り返している点だろう。


反対側の壁に到達する頃には、回転も止み、狼頭が扱いやすい状態でパスが回ってきたと言えるだろう。


そいつは、三人の中で一番小柄で、檻の内側へ働きかけるには力不足であるように思えたが…


「…?」


鉄籠が壁すれすれまで近づき、速度がゼロになったところで、柔らかく鉄柵を受け止めた。

蹴らない、のか…?


その時、僕も遅れて気がついた。

袋が、もぞもぞと、動いている。


今のは、この肉塊を叩き起こすついでに、鉄籠をきちんと吊るしながら自由に揺らせるかの点検を兼ねていたのだ。


狼頭たちは三人で檻の格子を掴むと、反時計回りに、ゆっくりと歩き出す。


ギシッ、ギィィィィッ…ガチャ、ガガッ、ギィィィ…


鎖が耳障りな音を立てながら拗け、檻が持ち上げられていく。


まるで、異端。

彼らがぶつくさと謎の呪文を唱えていたら、それは正に悍ましい生贄の儀式を目の当たりにしているようだと言えた。

実際、そうなのかも知れない。彼らが被っている、あの人外の剥製を、Fenrir様も目撃しているはず。その冒涜的な姿を目の当たりにしながらも、背景を理解し、Sebaが築き上げた世界を堪能することを選んだ。


その間にも、袋の動きは益々激しくなる。

痛みにのたうち回る、というよりは、自分の置かれている状況が理解できていない様子だ。


どうしても、もし自分があの中に押し込められていたら、と想像せずにはいられない。


つい先程まで、あの蠢く物体は、何不自由なく地上を闊歩していたのだろう、と想像できた。

それが、目を醒したら、目の前が何も見えないどころか、身体のうちのどの部分でさえ、まともに動かすことが出来ないのだ。

おまけに、全身が、不自然に痛む。今はきっと、それがぼんやりとした痛みでしか無いだろうが。

僕が、あれだったら、恐怖に叫ぶだろうか。

先の罪人も、アーデリンと会話することを許されているのだから、あの革の内で、口は自由に動かせるだろう。

必死に、神の名を叫び続けるような気もするし、恐ろしいことだが、何も出来ないことが居心地良く思え、案外、内側の世界が気に入って受け入れてしまうかも知れない。


だが、彼はそうはしなかった。僕とは違って、こんなことはあり得なくて、自分はそれには値しないと言う。

そして、その方が、似つかわしいのだ。


ギィィッ…ギッ、


鎖は限界まで捻り廻され、檻は囚人の頭が見えなくなる程までに上昇する。




「……。」


マントを羽織った狼頭は奥壁まで下がると、右手をあげて、檻が暴れるのを抑えている二人に支持を出す。


鎖が叫く音が消え、初めて袋の中から、声が聞こえているのが分かった。

まだ、必死さが無い。現とさえ信じられないような、そんな戯言。


『う゛ぅっ…うぐぅっ…おいっ…何だっ、これ?』


ああ、よかった。安心した。

この、吠えるような抑揚の発音。


『おいっ、出せっ!此処からっ、くそがっ!!こっのっ…!!』


ヴァイキングだ。


僕は、何の心配もいらないのですね。

少しだけ安心した僕は、身を縮こめるようにして、きつく巻きつけていたマントを解くと、前から開いた隙間から、腕だけを晒し、恐る恐る肘掛けに掴まった。


もう戻れない。

これは、試練だ。僕にとっての。


僕は確信した。神は、僕の方から袂を分ったように見えて、ずっと僕のことを見守ってくれていたのだと。きっと今も、貴方は僕がこの場において、どのような反応を示すのか、興味深くとまでは言わずとも観察している。

僕が、貴方の駒本当に相応しいかと。


そうだ。居ないなら、自分は何のために?


思い返せば、ずっとそうだった。

貴方は、初めから、そう仰っていたでは無かったか。


俺の、興味を引くことをしろ、と。


僕は、Sebaよりも、貴方の興味を惹かなくちゃならない。

同じ土俵で、同じ趣向で。


「……。」


耐えられる自信は無かった。でも、口元を抑えるのだけは、しないでおこうと思った。


僕に求められているもの、それが今、分かりかけている。

あの日の夜、Fenrir様が再び現れたことへの歓待の証として、僕がしたことは、何だった?

彼の方の、興味をそそったのは…





「はじめろ。」


二人が手を離した瞬間、檻は不自然に傾いたまま静止した。

絡まったまま、解けなくなってしまったのだろうか。


いや、決してそんなことは無い。


『ちくしょうがっ!こっ…のっ…離しやがれっ、おいっ、聞いてんのかっ、てめぇっ!俺様を誰だと思って…!』


ガキンッ


内側からの補助もあって絡まりが解け、鎖は到頭、あるべき状態へと戻ろうとする。


ギギィィッ…ギリリリリィィィ!!


背筋を釘で引っ掻くような音。思わず腰を浮かせると、Sebaの体温とマントの内側で蒸れた熱気が急に冷えた。


ガコンッ…


再び、蹴りが入れられた。鉄籠が勢いよく、檻の鉄柵の目前へと迫って来る。


だが、今度は挙動が違った。

ぶるんっ、と不自然な挙動で回転を始めた籠の中で、腕があったであろう部分をもぞもぞと隆起させている布袋が、勢いよく内側を転がったのだ。


ブチチチチィィィッッ


『ぎゃあああああっ!?』


ガァァッン…!!


「っ…!?」


一瞬、中身が怯えて息を吸う音がきこえたかなと思った矢先だ。その爆音に思わず肩が、びくりと跳ねた。

今までは本当に準備段階に過ぎなかったのだ。

先の勢いとは、比べ物にならなかった。牢屋の鉄格子がびりびりと振動し、牢屋の主人の苦痛を代弁する。


激しくバウンドした籠の中で、身体は反値側へと勢いよく倒れ込む。


ブチュンッ…


『う゛う゛っ!?』



目を瞑りたいのに、出来なかった。

顔を背ける行為が、Fenrir様を失望させるかも知れなかったからだけでは無い。

視界を覆うことが、今、鉄籠の中で半狂乱でになりつつある袋の中の誰かと、自分を重ね合わせることになると思ったからだ。目を奪われるとは、それだけ恐ろしいのだ。


『やめろお゛お゛っっー!!今すぐ出しやがれぇっっ!!さもねえとっ…ぎゃああっ!?』


跳ね返って中に浮いた直後に与えられた遠心力で、壁面に押し付けられ、針が深々と刺さったのだ。


ガゴンッ


再び進路を曲げられ、すぐに引き剥がされる。

段々と、袋の表面が、ぬらぬらとてかり始めて来た。


『あ゛あ゛っ…ぐあ゛あ゛っ…』


振り子を揺らす側も、興が乗ってきたらしい。

三人ともが、鉄籠を反対側の壁まで突き飛ばすのだ。

その度に、哀れにも袋の中身は短い叫び声と、訳のわからない喚き声を上げて暴れる。


そう、不思議なことに、踠くのだ。

周囲を取り囲んでいる棘の存在に、気付いている筈なのに、理解していない。

踠けば踠くほど、それが纏わりつき、吸い付いて来るのに。


檻は、中身と共に、いよいよ激しく暴れ回る。


『うおあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛っっーーーーー!!』


『があああぁっーーや゛め゛ろ゛ぉぉっっーー!!だせぇぇぇっ…だせぇぇぇっ…!!』


ぐにぐにと芋虫のようにのたうち回る動きに、鮮血が飛び散る。

抜き差しされた棘から、体に空いた致命傷に至らない無数の穴から。

回転し、弾ける度に、牢屋の床へと撒き散らす。


自分がもし同じ状況に置かれていたら、流石に悟るだろう。動物でも、もっと利口なんじゃないか。

やはり野蛮人は力任せに物事を解決するしか、能がないんだ。


必死にそう思うことで、彼らを突き放そうとするのは、危険な思想の目醒めだと思った。

握りしめていたマントの布地を離してはならない。


「……?」


その時、股間に妙な感覚が走り、僕は驚いて眼下の暗がりに目を凝らす。

玉座の下から、鎖が擦れる微音が、打ち付けられる小気味の良い破裂音に混ざって聞こえた気がしたのだ。



…!?

なっ…んだ、これ…?


それが、初めからずっと、こちらの牢屋で蠢いていたものの正体だった。

股の間の隙間に収まろうと擦り寄って来たのだ。


四つ足で這いつくばっている。その特徴だけでも、嬉しいことだ。僕は一瞬でもFenrir様を連想するべきだった。

それなのに、顔を長く乱れた毛で覆われたその生き物は、到底僕の知っている獣の類とはかけ離れた異様さを放っていたのだ。


短い四肢に、繋がれた首輪。黒く塗りつぶされた顔、荒らし尽くされた乳房。

人間だったのだろう、と推測することさえ、それを創造した神への冒涜に思われた。


「あ、あ…」


「お、お、ぼ…」


僕をSebaと思い込んでのことだろう。そうだとして、何を求めて来ているんだ?

愛玩を?正気を保っていると考えることの方が間違っている。響き渡る叫び声に反応して、許しを請うているんだ、きっと。


違う、そうじゃない。

これも罪人の成れの果てか?Sebaが、こいつを造ったのか?



『あがぁぁぁぁっーーーあぎゃぁぁぁぁぁぁっっっ!!』



頭の中へと直に響く叫び声。


僕は、自分の中で根を広げ続ける思考に、歯止めをかけることができなくなりつつあった。



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