57. 礼拝の監獄 2
57. Dungeon of Dulia 2
外人の名前は、得てして正確には聞き取れぬものだ。
しかし、その場にいる全員が、この囚人が己の名を高らかに叫んだことを理解したのだった。
『……。』
いきなり、大きく出たものだ。
此奴…まさか、俺が同席していることに、気がついている?
いや、そうなのだ。俺が捕えたのだから、それは当たり前のことだ。
俺が隣で聞き耳を立てていることを前提とした上で、いきなり本題に入ったのだ。
「トー、ル……」
反射的に、首の辺りに耐え難い痒みが走り、
全身を、一挙に叩き潰されたような痛みが襲った。
吹き出した記憶の中で、俺はこの邂逅をどのように結論づけようか、必死だったのだ。
しかし、次の瞬間には、単なる挑発であると結論づけることは容易かった。
お前の戦いぶりは、凡そ北欧神話最峰のそれではない。
偽名だ。
そしてそれは、お前が冠して良い名前などでは無い。
尤も、変装の達人と名高いトリックスターのすることだ。何か勝算があってと言うより、息をするように嘯いただけに違いない。
神の話題を取り出した瞬間、お前のその苦しそうな喘ぎ声さえも、演技に見えて仕方がない。
これだけの苦痛を与えられた状況下でも、言葉遊びに励むのが、お前の本質だ。
人相の、偽装がお手のものであるのも、拍車をかけるのだろう。尤も、その顔も、今は黒く臭く塗りつぶされてしまっているが。
しかし、俺に思考を要するには十分な揺さぶりだった。
例えば次に神官が罵る台詞とは、次のように相場が決まっていると思った。
神の名を語るとは、何たる冒涜か。
それとも、それが、貴様の主の名というだけでは無いのかね?と。
しかし、そのように、こちらから発言することは難しい。
何故なら、その名が、現役の神様の中でも、最強の一角であることは、北欧神話の住人か、彼らのうちの誰かを信奉する、ヴァイキングの一人しか知り得無いからだ。
お前が神様であるのなら、モノリンガルではあり得無い。この場での発言権を支配している玉座の男が垂れ流す配慮なき妄言も、理解できるだろう。
その上で、ノルド語での対話を図らずとも此方が所望したことで、いよいよ俺の存在を確信したらしい。
そう考えたのなら、先の選択肢は、初めから無かったようなもの。
そう。違う、お前は、神様だ。
はったりでも、鎌をかけたのでも無い。
俺と、対話がしたいのだ。
交渉、と言っても、良いかも知れないな。
この期に及んで。
だが、それも俺を抜きにした対話が、殆ど成立しなさそうなことを見越してのことだろう。
普通に処刑されて、ヴァイキングへの反旗の見せしめの戦利品となって終わる。
所詮は蛮族なのだ。言語が通じないとかではなく、神と人間という立場の違いが通じない、ということだ。
それにしても、覚醒したお前は焦ったことだろうな、
俺がきちんと、ルーン文字を利用した力の行使の手段を奪ったことに。
情けないものだ、これだけで、脱出の手段に大きな制限がかかってしまうのだから、神様というのも案外脆い。
それもこれも、Odinを信用し過ぎるからいけないんだが。
神の発明たる、ルーン文字に基づく力を封じられた彼に残された力とは、俺と同じものになる。
文字は彼らを秩序の枠組みに押し込み、合理的で効率的な力を与えるだろう。
それに対して、個々人が持ち合わせている、何というか、生まれ持った能力みたいなものだ。
例えば、雷を操るだとか、転じて豊穣をもたらすとか、戦いを司るだとか、
ただ単に、殊更に運が良いとか、
そんな象徴的な力。
所以とかは知らない。生まれた時から持っていたのか、或いは啓示を得て、そうなるのか。
いや、あいつは言っていたっけ。
必要とされた瞬間から、神様となり、信仰が齎す希薄し尽くした時間を与えられ、
必要とされなくなった瞬間から、人間として残されていたはずだった余生を送ると。
『ぜぇっ…えぇっ…ぜぇぇ…』
彼は涎と鮮血を唇から垂れ流しながら、再び口内に何かを押し込まれる前に、必死で息を吸い込んでいた。溺れているように、吐くことが疎かになっていていけない。
気絶させられてからも、徹底的に弱体化の措置を受けさせられてきたことが見受けられる。
俺の意思では無いにしても、此方の本気が伝わってくれたのなら幸いだ。
お前たちが、俺にしてくれたことを、してやっているに過ぎないということを。
この世界に、逃げ場は無いと悟ることになったのなら、お前は最終手段に、お前自身に基づく力に、頼る他、無くなるはずだ。
その瞬間を、見たいのだ。信仰の敗北の危機と言っても良い。
俺がお前をこうして、観察している理由は、全てその一点に収束される。
そうだ、Vojaの態度が豹変した理由なぞ、どうでも良いのだ。
Sirikiは最終的にこの場に居合わせなければならないが、それも彼奴を探すことを優先する理由にはなり得ない。
俺は、この時間をもっと大事に扱わなくては。
そうだな。ひとまず、定型的なやり取りを見守ってからでも、遅くはない。
優位であることには変わりないし、お前に出し抜かれることを恐れるのなら、尚更臆病になるのが賢明だろう。
「…アーデリン?」
「どうしたの…?大丈夫かい…?」
Sebaも、同じ考えのようだ。
心から心配しているような、そんな怯えた声音で彼女を急かす。
彼女は自分の首輪を急激に引っ張られたような不自然さで体をびくりと震わせると、再び口を開いた。
『て、テュ…ルさん…?ですね?』
……!?
何だと…?
『お名前をお聞かせ頂き…ありがとうございます。』
寧ろ、彼女の方が、適切な挑発によって、俺を不快にさせたことを吐露しておこう。
流暢なノルド語に、片言の名前が浮く。聞いた通りに発音したつもりでも、得てしてそういうものだ。
そんなことに、一々不信感を覚えている場合でもあるまい。それはわかっている。
非はこの罪人にもあると思った。確かに、迫られて舌の縺れた、微妙な発言だったように聞こえた。俺がその場に居合わせなければ、どちらに聞こえてもおかしくないような、曖昧な発音。
そうだ、お前はそうやって俺をおちょくるのが、大好きなのだ。
『こうしてお話するのさえ、今のテュールさんには、お辛いかと思います。ですが、もう少しだけ質問に答えていただけますか?』
もう、どちらでも良い。どちらも、こいつの名では無いのだから。
『……。』
テュールは、答えない。
沈黙を是としたのか、僅かな頷きを感じたのかは、知る由もない。
『あ、貴方は、ヴァイキングを率い…いつ、コンスタンツァ港へ侵攻したのでしょう?』
『知らない…俺は、何も、やってない。ただの移民として、後から、此処に住み着いた、それだけなんだ…』
「アーデリン、彼は何と?」
「せ、戦士として、侵攻に携わったのでは無いと、申しております。」
直後にSebaは俺に視線を寄越す。
彼には、ノルド語への教養が無いので、聞き取る力に整合性があるか、確かめたいのだ。
俺は一瞥だけくれてやって、無視した。それで十分だろう。
アーデリンは質問を続ける。
『で、ですが私は、貴方がこの管区内のヴァイキングを従え、指導者として振る舞っていたと聞いております。』
『ちがう……』
『テュールさん、それは、貴方の意思でしたでしょうか…?』
『ちが、う…』
『誰かの命令で、港区を占有しようとしましたか?』
『……。』
『それは、誰ですか?』
『……。』
予期した通り、そこには典型的な、国家防衛の為の聴取が行われていた。
不意に彼の口が鈍くなった理由も、側から見ればその本質に迫ろうとしている肝心なところだからだと受け取れるだろう。
ガラララッ…
狼頭が、ノルド語を理解している筈が無かった。しかしその間は絶妙で、彼に自らの仕事を全うさせるのにちょうどよかったのだ。
『あ゛う゛ぅぅっ…う゛あ゛あ゛っっ!?』
しかし、勢いが良過ぎたようだ。
ひゅ、という喉首が閉まる音と共に悲鳴が止む。
ジャラ…
『神だっ…!』
『神に導かれ…神の名の元にやっただけだっ!』
……。
そうら、来た。
再び、長い静寂が訪れる。今度は、誰も二人の抱擁を急かすことはしない。
彼女は戸惑いの様子を隠せていなかった。
それは、彼女自身が信奉する神とは異なるものであろうことは明らかだったからに違いない。
しかし、寛大さ、慈愛さえも教義に深く仕込まれていたのだろうか。この修道女は、奇妙な解釈の捻じ曲げによって、この会話を大変興味深いものにしたのだ。
『その方の意思に賛同し、ヴェリフェラートにヴァイキングが安住する為の土台を築いた、ということですか?』
『そうだ…我らが神が、この地に降り立つ為の…』
『いつ、その計画は、実行されますか?』
…?
『貴方は、その方に、どのように、その合図を送りますか。』
そう。彼女は、神を、人と訳したのだ。この捕虜をも従える、真のヴァイキングの王と。
明らかなる誤訳。
だが、その尋問は、俺に新たなる展開を予感させたのだ。
『…この土地に降り立つ時だ、と。テュールさんから伝えることは、できますか?』
次なる刺客、そう言っても良い。
「彼女、使えるな…」
俺は思わず感嘆の声を漏らした。舌を巻いたのは、本当だ。
その気が無くても、中々に嫌悪感を催す、誘導尋問だった。
予め指示があり、強制されていたのだろうが。
狼男ほどでは無いが、興味を引く。
何者だ…この修道女?
「ああ…アーデリン!良かったね、お褒めの言葉を頂けるなんて!」
隣では、Sebaが恍惚とした表情で、賛辞を送っている。
彼女をこの役に仕立てるための労力が報われたことを、誰よりも喜んでいるのだ。
「素晴らしいよ!やっぱり、私が見込んだ通りだ。」
「この街が彼らで溢れ、もっと、もっと、このような機会が私たちに訪れると良いね…!」




