57. 礼拝の監獄
57. Dungeon of Dulia
アーデリン、そう呼ばれた修道女は、再び狼頭に首輪の鎖を引かれ、隣の牢屋へと入室した。
束の間の休憩を享受した捕虜は、ぐったりと横になるだけの長さを垂らされておらず、辛うじて長座の姿勢を崩さずにいる。
お漏らしの上に座り込んでも、気にも留めないらしい。
「う゛ふふっ…ふぅぅっ…ふーっ…ぶふぅっ…」
不安は拭えなかった。
彼は、喉元を極限まで弄ばれ、狂ってしまわないかと。いや、常人であれば、二週間余りの監禁で、既に正気を減らされてしまっていてもおかしくは無いと思った。
懸命に呼吸をしているが、顔にぴったりと巻きつけられた革袋の何処から隙間が漏れているのかも分からない。
意識が混濁していることは、容易に想像できたし、対話の場に持ち込んだところで、碌な聴取は為されないのでは無いか。
しかし、少なくともこれ以上の責め具は暫く与えられないと知り、慈悲深い修道女との敵意ない一時が齎されたと感じてくれるなら、或いは、といったところか。
飴と鞭、と言うやつだろう。Sirikiのような素人がやるのとは大違いだ、その辺りを体系的に進めてくれるのは、非常に助かる次第だ。
より効果的に、それでいて変態の気質がある領主をこうして楽しませるような、即興劇の気質も持ち合わせているに違いない。まるで、闘技場で殺しを囃し立てる観衆を動員する経営と変わらないのだ。
…そう言い聞かせ、冷静を気取ろうとしたのも束の間、
彼らは、悉く期待を裏切り、覚悟が無いのは俺の方だと認めさせるまで容赦がない。
再び首元の鎖を握られただけで、囚人は情けない程に怯え、啜り泣きを始めてしまう。
一方的な希望的観測。終わっていないのだと、絶望に打ちひしがれる様が、表情もなしに克明だったのだ。
それでも、決して暴れる様子を見せないということからも、行き届いた調教が感じられる。
彼女は、首輪を引く力が抜けたのを感じたのか、その場にゆっくりと腰を下ろし、目の前の罪人に向かって、恐る恐る手を伸ばす。
そっと頬に手を添えるような優しさも、顔の感覚を奪われた彼にとっては、更なる暴虐の訪れでしかない。力なく首を振る抵抗で、鎖が軋む。
「見届けの賓客がいらっしゃるのだよ、アーデリン。囚人の前に立つのでは見えない。」
「も、申し訳ございませ…」
ジャラララッ
言い終わるか終わらないかのうちに、狼頭が鎖を引き上げ、囚人は苦しそうな呻き声と共に膝立ちの姿勢を強要される。
「ゥッ…」
高度は瞬く間に上がり、彼は殆ど抵抗する暇も与えられず、首を吊った。
もはや、枷を嵌められた両手で首元を触ることもせず、されるがまま。踠きすらしない。
鎖を十分な長さだけ巻き取ると、狼頭は、囚人を足先で蹴り、体を回転させる。
ぶらぶらと揺れる身体を抑え此方に半身だけ見えるよう向きを整えると、再び鎖の固定を外した。
ガララララ…
ドチャ、
その音で修道女は短い悲鳴を上げて飛び上がったが、すぐに倒れかけの囚人を探り当て、身体を起こすのを手伝おうとする。
「う゛っ…ぶふぅー…ふぐぅぅ…」
『怖がらないで!私は、貴方を傷つけたり致しません。』
「……!」
驚くべきことに、流暢なNorse語だった。
何処で覚えた。あの教会は、俺が想像する以上にヴァイキングに明け渡されていたのだろうか。
そうだとしても、処世術とは思えない。
そしてなるほど、これは、重宝しなくてはならない。
ネイティブの警戒心を解くには、これが一番、効果的であると実感する。
『……?』
囚人の反応は、明らかに今までとは違ったものだった。
やはり、母語が齎す影響は大きい。希望の色を全く隠せていないじゃないか。
俺の感心を代弁するように、Sebaは身を沈めていた玉座から体を起こし、溜息を吐く。
「そうだとも…あの神父よりも、君はうまくできると私は確信していたんだ。」
「ただね、アーデリン。もっと威圧的に話しかけると良いよ。何せ彼の耳は、膠と皮で塞がれてしまっているのだからね。うまく、聞き取れ無いかも知れ無い。」
この修道女が演じる役割は、中立なのだ。
神は全ての前に平等、か。俺たちのやっていることを知れば、さぞかしがっかりするだろうな。
彼女は、頬から手を滑らせ、僅かな突起を探り当てると、耳打ちをするように語りかけた。
『わ、私との会話に応じて下されば、きっと彼も、これ以上貴方を傷つけたりしないはずです。』
『…協力して頂けませんか?』
『……。』
彼は、大人しく首を垂れた。
懺悔をする決心がついたのに、違いない。
その直後だった。
大きな右手が、囚人の頭をがっしりと掴んだ。
顎をぐいと上げさせられ、見れば左手には、刃物が掲げられている。
「……!?」
一瞬、喉を掻き切るのか、本気でそう思ってしまった。
無表情というのは、それほどに恐ろしかったのだ。
実際、鋭利で、骨を断つのも難儀しなさそうな刃渡を持つ短剣は、躊躇なく顔面に突き立てられたのだ。
ざしゅ…
「あ、あ…」
思わず、嫌悪の声が漏れた。
そのまま横へ引き、何もなかった顔面に、口を横一文字に開いていく。
飽くまで、顔面の覆いを外すつもりは無いのだ。
或いは既に一体化して、皮膚を被せられているのでは無いか、そう思うほどに、囚人のくぐもった悲鳴は刃先に連動して違和感が無かった。
『んぐぅぅぅっ…ん゛ん゛ん゛っっ…』
適当に当たりをつけていただけだったのか、果実を切るように、鮮血が溢れ出る。
最終的に開かれた隙間から、猿轡を強引に引っ張り出すと、涎がだらし無く糸を引いた。
口を塞ぐ球体に、喉元まで塞ぎそうな棒状のそれが、深々と刺さっていたのだ。
『ぼほあぁっ…』
頻度は知る由も無いが、最後の食事以来だろう。ようやく、自由に息を吸えるようになった彼は、ぼんやりと呆けたように顎を垂らし、
『ふっ…ふひゅうぅ…?』
『お゛ろろろろろーーーーー……!』
突然、堰を切ったように吐き出した。
びしゃびしゃの液体が、咳と共に溢れて、修道女の胸元を濡らす。
「はぁ…」
Sebaはうんざりしたように嘆息する。
「彼女になんてことを…!」
直後に狼頭は、囚人の頭を捻り、彼女から口元を逸らすと、再び栓をする。
べきゅっ
かと思いきや、罰にも何にもならないだろうに、膝蹴りを喰らわせた。
『う゛う゛ぅっ…ぶふぅぅっ…うぶぶぶぶす…』
この狼頭、分からないな。
専門職として、拷問吏を淡々と遂行するかと思っていたし、現に恙無かったのに、主人の機嫌には人一倍敏感なのだ。彼の手足として、怒りを代弁するようでは、目的にそぐわ無い場合もあるだろうに。
声を出すことを、禁じられているのか?
「え゛ぇぇー…え゛っ、え゛ぇーおぼっ…お゛お゛…」
見ていると、こちらまで唇のあたりがぴくぴくとしてくる。
体を激しくと痙攣させながら、最後まで吐き終えると、鼻の呼吸も儘ならなかったであろう囚人は、始めて心ゆくまで呼吸することを許された。
『あ゛―っ…!あ゛ぁ―っ…!』
とても、歓喜に叫ぶ声には聞こえなかったし、寧ろ喋る言葉を忘れてしまっているかにさえ思えたが。
それは杞憂に終わった。
聞き覚えのある、いけ好かない声音だった。
『あ゛あ゛ぁぁぁっー…!』
『だじっ、だぎげでっ!』
『も゛お゛い゛やだあ゛あ゛―――っっ!!』
『も゛ぉ゛っっ、もぅだえられあ゛いぃぃっ!!』
ゴッ…
くすり、隣で漏れた笑い声を掻き消すように、すぐさま狼頭は、囚人の顔面を殴りつけ、黙らせる。
「アーデリン?そのお方には、質問に答えるようにだけ、それ以外の発言は…控えるように。お伝えて貰っても?」
『だ、大丈夫です。落ち着いてくださいっ!お願いですから、どうか、じっとして…!』
目隠しの裏からでも分かるほど、ようやく出会えた同じ舌を持つかも知れない相手に迫る必至の形相に、彼女は怯え切っていた。
「父なる神よ…どうか私とこのお方をお守りください…」
必死で胸の前に十字を切り、懇願するように祈りの言葉を呟く。
ともすれば、自分の首輪も一緒に天井からぶら下げられているようなもの。取り乱さない方が不思議ではあったが。
希求するように伸ばされた囚人の両手は、あっという間に取り上げられた。
天井から伸びる鎖に繋ぎ、希望に縋る自由を奪うと、
「……。」
狼頭は、腕を組んで牢屋の奥へと下がった。
向かい合う牢屋が、始めて静寂を取り戻した瞬間だった。
この間だけは、Sebaも楽しみたいと思い、せき立てることはしないらしい。
『私は…アーデリンと申します。第6管区にございます、ボルグンド・スターヴ教会にて、修道女として、主にお仕えしております。』
『…貴方のお名前を、教えて頂けますか?』
『……。』
片や、狼頭は調停者でもあるらしい。
随分せっかちだ。僅かでも不快な間があれば、即座に沈黙と捉える。
ガラッ…ガタッ…
首輪が、鎖輪2つ分、巻き取られた。
良い子にしていられない回数は…あと、4回ほどだろうか。
そして、それは随分と効果的だった。
『…ール!』
また吐き出したのかと思うほど、突発的に、舌の縺れた叫び声を上げる。
『トール……だ!』
『トー…ル…アズ…ガル、ド…』
「ほう…」
思わず立ち上がり、俺は簡単の声を漏らす。
尻尾が膨らんで撓った。
これはこれは。とんだ、茶番を見せられる羽目になった。
…しかし、大きな進捗だ。
先までとは一変して、Sirikiのことなど、途端にどうでも良くなるほど。始めてSebaが抱く高揚感が伝染する。
『…お会いできて、嬉しいです。…ール殿。』
一度歯止めを失えば、堰き止められていた自制心は、瞬く間に失われていくだろう。
沢山、彼女に喋ってくれると、願っているぞ。




