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56. 崇敬の塔

56. Tower of Latria


「ああ、貴方様でしたか!お待ちしておりましたよ!」


あいつとは大違いだ。いきなり姿を現すのには、もう驚きもしないらしい。

Sebaは俺の影を認めるなり椅子から立ち上がり、両腕を広げると、気に食わない微笑を貼り付けて歓迎の意を示した。


「ご来訪されたとは、家のものから…そろそろいらっしゃるのでは無いかと思っていたところでございます。」


「ふん…」


俺が屋敷内に現れただけで、身の安全を確信するのは、肝が座り過ぎているのではないか。そう思ったが黙っていた。

今日は、口数を少なめにしようと決めていた。あいつは、きっと一言の口を聞かなかっただろうから。せいぜい、適当な吠え声と、鼻をふすんと鳴らす程度の相槌が主だったはずだ。


「もう待ちきれませんね。こちらです…参りましょう。Fenrir様。」


彼は特段訝しんだ様子もなく、うきうきとした所作で外套を肩に纏い、裾を翻す。

俺を視界に入れる気が無い、ということは、信頼しきっていることの証だと取って良いだろう。

どうやら、Vojaは、うまくやったらしい。


「以前は、どのようにお入りになられたのでしょう?無粋な質問かも知れませんが…」


「…厳重な牢獄とは、言い難いようだな。」


Vojaの転送先は、きちんと指定したつもりだが、それは捕虜に振りかけたマーキングに基づき、同じ水位を選んだに過ぎない。


「返す言葉もございません。流石に神様の訪問を阻むことは、不可能だったようです。」


「しかし、実績は確かでございます。マルボロ家始まって以来、この監獄は一度も罪人を逃したことはございませんから。」


「…だと良いがな。」


地上からは、そのような要塞は、見受けられない。あるのは、商業管区と呼ばれる港町の中でも一際目立つ、華美なる邸宅だけだ。

しかし、こいつの家系は、代々、王国繁栄の妨げとなり得る火種を未然に取り払ってきた。

強固な武装も、遂には優先された貿易港の利益の犠牲になったようだが。

そうなってしまう前。愛する妹によれば、お前は誰よりもその責務を果たすことに没頭してきたそうじゃないか。捕らえる側ではなく、罰する側に。

いいや…寧ろ、傾倒し過ぎてきた。

ずっと引き篭もりで、碌に後取りとして期待された使命を果たさなかったぐらいに。


可愛そうになあ。お前の妹は、お前を救い出すにあたって、こうも言っていたぞ?

できることなら、あの頃の兄上も、取り戻したい、と。


先まで寛いでいたのは、自室だったのだろう。彼は埃臭い書斎へ俺を通すと、閉じた側から扉を内側から軽く踵で二度打った。


トンッ…ドンッ…


「はい…只今…!」


それが、召使の呼びつけ方か。まるで弱った野犬を隅へ追いやるようだ。

実際、俺たちの前に現れたのは、如何にもSebaを幼少期より世話していそうな、よぼよぼの老人だった。

黒づくめの服装からして、執事らしい。

撫で付けてあった髪がひどく乱れているが、きっと正体不明の狼藉の対応に追われていたのだろう。


「お、お呼びでございましたか、坊っちゃま。」


彼は、扉を開くなり、ぎょっと目を見開いたが、すぐに頭を下げて、命令を賜った。

てっきり主人だけがいると思い込んでいた部屋に、大きな狼がいるものだから、無理も無い反応だが。取り乱さないだけ、行儀が良いということにしようか。

それでも、俺が喋り出せば、きっと腰を抜かして慌てふためくに違いないのだが。


「開けろ。」


「は…坊っちゃま、こちらの…」


「私のお客様だ。丁重に持て成せ。」


「…かしこまりました。」


老人は、ある本棚の前で軋む腰を曲げて屈むと、ちょうど俺くらいの目線にある本の一冊に手をかけ、優しく引いた。


『De Regimine Principum, with Secreta Secretorum』


タイトルに、媚びるものは無かった。

今までの読み方に偏食的な癖があったからか、この手の書物は全く疎い。

そもそも、禁書に指定されていて、こうしたジャンルが俺の目の届くところに無かったのかも分からない。

あいつは俺に、閲覧権こそ与えたが…

此奴に読書の嗜みがあったことに驚かされる。時間があれば俺も漁りたいところだ。


現れた隙間に手を突っ込むと、カチリと(かんぬき)が外れる音がした。


それから老人は書架を手押しで重たそうに引きずり、隠し扉を露わにする。

なんともご丁寧な避難室だ。まるで、このような事態が想定されていたかのようでは無いか。


Sebaは、貴族が貧民に零す施しを思わせる所作で、何かを無造作に自分の足元に落とす。


カチャン…


「ありがとうございます。坊っちゃま。」


老人は恭しく彼の目の前に跪くと、視線の定まらない手つきでそれを受け取る。

鍵だった。お前にしか開けないようになっているのなら、それ自体は安心だが。自力で入ろうと思えば、出来たのだ。


ギィィィィ…

数歩ほどの屈んで通れるトンネルの先に、この部屋を鏡に映したような別室が見える。

当然窓などは無いのだろうから、これからこの執事が火を灯し、寛げるように取り計らうのだろうか。


本音を吐露すれば、Sebaとの談話などに時間を割きたくなかった。

Vojaが受けた歓待と同じ過程を踏まなくては、奴が垣間見て面白がったものが何かを窺い知ることはできないと、理解しているが、


「……?」


老人は、荒れた呼吸を整えながら、再び膝を付いた。

僅かな通路に敷かれた絨毯を端から捲ると、床を剥き出しにする。

地面には、木製の蓋が敷かれていた。


隠し部屋は、偽装(Bluff)か。確かに、奥の方へ視線が行ってしまって、略奪者は目もくれないだろう。


取手に手をかけ、板を起こすと、うぅ、と苦しそうな呻き声が漏れた。

その間、Sebaは外套に両手を隠したまま、爪先をとんとんと叩くばかりで、何もしない。


最後につっかえ棒で入り口が閉じぬよう支え、老人は再び主人に向けて深々と頭を下げた。


「どうぞ…お入りくださいませ。」


地下への階段が、続いている。

彼は労いの言葉をかけるでもなく、その中へと足を踏み入れていった。


段差と、足場の感覚が染み付いているのだろう。俺でさえその空間は暗く感じられたが、躊躇もなく、軽やかな足取りと共に、闇へと溶けていく。


「……。」


最後に、面を下げた老人と目が合った。

相変わらず無表情だったが、俺への奇異を表さなかったのは、単に疲弊しきっているだけのようにも見受けられた。


せっかく主人を取り戻したのだ。もう少し嬉しそうにご奉仕してやっても良さそうなものを。




―――




コツ、コツ…コツ…


先導するマントの揺らぎに従い、光の届かぬ地下牢を歩く。

Vojaが、この牢獄が立ち並ぶ迷路を同じように一匹で彷徨ったことは、想像に難くなかった。


あれからあいつは、共有した秘密を確認するような悪戯がしたいのか、時折、狂ったような笑みをこちらに向ける。

次は、いつ俺はお前の役に立てるのだ?と。

まるで、早く続きがみたいぞと強請むように。


俺の群れでの居場所と、仔狼たちの未来なんぞを取り繕ったがために、俺は、とんでもない過ちを犯してしまったのではないか。

そんな疑念を振り払うためだけに、俺は此処にいる。

Sirikiを確保することが先、そんな悠長なことは言っていられなくなった。


…Vojaは、うまくやり過ぎたのだ。


「私の願いを聞き入れて頂き、誠にありがとうございます。」


焦りに意識を加熱していると、Sebaは徐に口を開いた。


「…なんの話だ。」


「居館の掃除をして頂いたことです。お陰様で、私共も快適に過ごせております。」


「ああ…」


「厨房が使いたかっただけだ。」


「と、申しますと…?」


「腹が減った。幾らか、その辺のものを漁らせてもらったぞ。」


「もちろん構いませんが…なるほど、彼らを喰い殺さなかったのは、そういうことだったのですね。」


「人は、俺の口に合わん…ヴァイキングどもを殺さなかった理由は別だ。」


「そのようにお考えかと思いまして、全員、捕獲しておりますので。入り用になりましたら、お申し付けください。」


「ふん、あいつらに、それに見合う値打ちがあると良いがな。」



想定の範囲内ではあったが、マルボロ家の邸宅は既に、持ち主を、趨勢によって奪われ、ヴァイキングの豪族らの仮住まいとさせられていたのだった。


俺を目にするなり、血相を変えて大声で叫びやがった。

ヴェリフェラート民族とヴァイキングで、例の騒動における首謀者像は根本的に異なっている。

方や、Siriki…いや、Sebaという高貴な血統に託された希望であり、方や、神話から零れ落ちた狼の謀反者というのだ。


Sebaが再び彼らによって捕らえられることは無いと踏んでいたが、家の使用人たちが新しい主人に懐かなくて助かった。

と言っても、言語が通じず、ただ主人らと同じ運命を辿るのを恐れ、衣食住を提供し続けていたのであろうことは、容易に想像がつく。


そして、俺が屋敷を訪ねるまで匿ってもらっていたのが、この地下世界という訳だ。

富に目が眩んだ時の者たちが決して目を向けぬ、恐怖と飢餓の牢獄。

あいつは、そこで、何かを見た。


…見てしまったのだ。


地下にいるのに、雨が降っているのがわかる。

空模様で、いつ降り出してもおかしくは無いとわかったが。

なぜ、そう確信できるのか、うまく説明できない。

雨が屋根を叩く音も、湿った石の臭いも、此処には届かない。


それどころか、死肉に慣れた鼻ですら耐え難いと思うほど、酷い臭いに包み込まれている気がしているのに、吐き気が込み上げて来ない。

顔面を、皮の拘束具で覆われているようなのだ。


詰まるところ、本能的に忌避すべき、直接的な臭いでは無い、ということなのだ。

両脇に陳列されている、夥しい数の囚人が、すべて生きている。

良心があるならば、耳を塞ぐような悲鳴も、劈いて来ない。

管理された沈黙のもと、何を詰め込まれた喉から、ただ微かな呼吸を漏らすだけ。


「……。」


あいつを笑うような結果で済むのなら、どれだけ良かったことか。

これは…これは、俺が期待していた、弾圧のCasualtyでは無かった。

残虐な人間の一面がこれでもかと詰め込まれた、血生臭い裏世界が、Vojaの復讐の火を萎えさせるようなものであればと願っていたのに。


これでは、まるで、段取りだ。工程だ。制度だ。


俺が求めた、残虐は、どこだ。

狂気に飲み込まれそうなのは、俺の方だったのだ。


Sebaが揺らす裾が翻ったのに、ある種の安堵を覚えてしまうほどに。


「貴方様の指示があるまで、以前からの進展は、特にございません。すぐに続きから始められますよ。」


「…それで良い。」


生返事と共に、立ち止まった両脇の牢屋に視線をやる。

左側は、開いていた。俺たちが、今から潜り、捕虜の様子を伺う部屋だと考えて良いだろう。


焼きが回ったとはこのことだ。俺は獲物の存在すら、知覚しなかったらしい。

中央に鎮座した玉座は、何かの揶揄だろうか。

嘗てのヴァイキングの王を嗤うような。

それとも実用的な、拷問器具…


傍に、何かが蹲っている。

すうすうと、寝息を立てて、体を萎ませたり、膨らませたり。


ずいぶんと縮んだな。

こいつが、俺たちが捕らえた、同業者か?


顔を何度か傾け、錯覚でないことを確かめようとしていると、またも、外套の裾に視界を遮られた。

しかも、こいつ、起こすのに、また蹴りやがった。


「どうされたのです?今日は、もっと近くでご覧になりたいのですか?」


「……?」


どういう、ことだ?

一瞬の戸惑いのうちに、俺は二分の一を外したと悟った。


「……。」


そうだ、こいつだ。

ゆっくりと振り返ると、そいつはいた。


牢屋の中央に、膝を崩して座り込んでいる囚人がいる。


顔面を、革のようなもので覆われ、首から下は、四肢をつなぐ枷以外に、纏うものがない。

そいつは男で、どうにか飢餓によって命を脅かされない程度に痩せこけた肉のせいで、その鎖から逃れられずにいる。


「覚醒したばかりのころに比べると、これでも、だいぶ回復したのです。」


彼は玉座に腰掛け、膝下に余ったマントを丁寧にかける。


「自力で、起き上がれているとは、言い難いですが…」


首枷を天井から繋がれ、それだけでどうにか姿勢を保っているように見えた。

ぼうっと宙を見上げるような仰角のまま。俺たちの来訪に反応した様子もない。


「よし…きちんと、俺の言った通りに、してあるな。」


動揺を隠しきれている自信がまるで無かった。

確かに、拘束を徹底するよう強調して、身柄を引き渡したのは認めよう。

しかし、彼が丁重に持て成したいと思った相手に対して、慣れた手順を繰り返すことが、異常であると、俺は言わずにいられるだろうか?


「あ、あの指を動かそうとしたことは、無かったか?」


声をこいつの前で聞かせることは、しないつもりでいたが、こうなってはもう仕方がない。

自分が綴る論理によって、どうにか平常心を保つ支えになると信じたかった。

人間の言葉がうまく喋れているだけでも、その思いつきは瞬く間に俺を支配する。


「いいえ、指はくっ付けて焼いてありますから…両手は使えません。切り落とすのは、嗜好に合わないかと思いまして…」


「詠文を編むことが出来ないようにしてあれば、何でも構わない。俺が聞いているのは、こいつが本当に使えないかを確かめようとしたかだ。」


「はてさて…それは…看守に尋ねるしか無いようです。」


どんな奇跡を行使してくるか分からない相手に対して、これぐらいは、想定の範囲内だ。

実際に、一般的な脱出の手段が奪われた彼にとって、抜け出すための方法は一つしか無くなるはず。


そして、お前が此処にいるということは、それをする必要が無いか、したくても出来ない状況にあるかのどちらかだ。

そして、おそらく後者が、お前の逃げ場を今の所狭めていると見て良いだろう。


でなければ、この時間の歪みは、説明できないのだから。


「それと…以前お話ししておりました、通訳人を、お連れしております。この機会に、居合わせさせても宜しかったでしょうか?」


「…構わない。」


何の話だ。Vojaのやつ、そんな約束まで取り付けさせられていたのか。

吐かせる言葉は、俺にだけ理解できれば、それで問題は無いと思っていたが、ヴァイキングの言葉が理解できることは、尋問官である彼らにとっても確かに利益だろう。


「ありがとうございます。実は、先にお待ちいただいているので、すぐに連れて来させますね。」


そのやり取りの間にも、俺たちがやってきた方向とは逆側から、二人組の足音が大きくなる。

鎖をじゃらじゃらと鳴らす音が混じっていた。

片方は、捕虜だ。俺が蹴散らした、ヴァイキングの徒党を、早速活用しようと言うのだな。

良い方針であるように思える。


もしかしたら、何か思いがけない鍵を吐くかもしれな、い…


「紹介いたします。邸宅の前にある教会の修道女です。貴方様も、ご覧になられたでしょう…?」


「……!?」


もう、限界だった。

俺は、尻尾を股に挟んだ。お前がそれを見咎めなかったことを、心から願おう。

異様な二人組が鉄格子の隙間から、姿を現したのだ。


「そうです。あの忌まわしい造形の教会ですね。ヴァイキングへの寝返りとして、前々から捕らえようとは思っていたのですが…」

一人は、Sirikiとそれほど歳の変わらない青女だった。

俺は、会ったことがない。

目隠しをされ、首輪を嵌められた鎖の先端を、持ち主に預けているが。

口を半開きにして、身を委ねられずにいるあたり、盲目では無いだろう。


そんなもの、俺の心を乱すには値しない。


「咎めずにいた訳ではありませんが。彼女の献身的な祈りに、心を打たれまして。」


俺の目を奪ったのは、もう一人の、腹が垂れて恰幅の良い男の方だった。

荒い息を内側から漏らし、何とも言えない臭いを放っている。


人間であると言いたい。

頭に被った、その獣の頭は、


お前に緻密に縫い合わされているのではあるまい?


「そして、どういう巡り合わせか、こうして新たに仕えるべき神に巡り合わせることができた。」


「彼女に、罪を償わせてやりたいのです。きっと、貴方様のお役に立てると信じております。」


もう、Sebaが興奮気味に喋る言葉など、耳に入って来ない。



こいつは…


何者だ?



Sebaは、受け取った鎖をぐいとひっぱり、顎を愛玩の証に撫で、嘆息混じりに呟いている。



「…ああ、おいで。愛しのアーデリン。」








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