55. 神人の影従
55. Nyarlathotep
主人の思いつきに下僕が振り回されることなど、日常茶飯事に違いないだろうが。それでも僕のわがままは、簡単に聞き入れては貰えないようだった。
結局、話はうやむやにされた。
彼の乱入によって、食事は速やかに閉められ、それ以上の交渉を続けることは叶わなかったのだ。
「私が来たからには、もーう安心!何か入り用なことがございましたら、いつでもこのフットマンをお呼びください!」
そう豪語して、ぶんぶんと一方的な握手を交わす彼に差し向けられる冷ややかな視線。
周囲からは露骨に邪険にされているのが見てとれた。
彼は、使用人の中でも、どのような立ち位置にいるのだろうか。
フットマンとは、聞ける立場にないのがもどかしかった。
そもそも、主人への奉仕中に酒臭くいられる役職なんて、あって良いはずがない。
寧ろ、ああいう風に、邪険に扱われ、家人らのストレスの吐口となるために存在している戯け者であるような気さえした。まるで、獣の群れにおいて下位の獣が身につける処世術のように。
Sebaが彼に対し、どのように辛くあたって来たのだとしても、それをしないが為に、彼から怪しまれることは無いと信じよう。寧ろ、有り難がられるのではと思われるくらい、彼が去った後のエマの言葉は痛烈なそれだった。
「兄上…あのアクセサリーも、そろそろお外しになったら?」
彼を雇い、維持するのは、かなり大変だという意味に聞こえた。
何故だろうか。富裕層の考えることは僕が立つ視点からは想像もつかない。
どれだけ綺麗に着飾って、驕り高ぶって見せても、こればかりは、繕うことはできないのだ。
「…ふぁーあ。」
欠伸は出るのに、これっぽっちも眠れない。
食後に、惰眠を貪りすぎてしまったみたいだ。心ゆくまで欲求を満たしたことに、何の悔いも無いが。
日中、エマの案内無しに出歩くのは、それこそボロが出そうで不安だったので、部屋に篭っているより選択肢が無かったのもある。けれど、もう少し部屋付きの侍女らとの会話を楽しんでも良かったかも知れないなあ。
「……。」
「せっかく、眠れるのに。」
戦地に赴いてからというもの、一度も、安心して眠りに就くことなんて出来なかった気がしている。
常に不安の付き纏う日々だった。誰かに喉首を狙われている気がして、微睡に抗えない気持ちよさが一番苦しかったのだ。
自宅でないベッド、というだけで、僕は思い出してしまって暗闇を覗けない。
第10管区に身を潜めようと、なけなしの報酬で泊まった宿屋での、あの襲撃を。
僕を殺そうとした張本人の庇護のもと、こうして安全な暮らしを享受できているのだから、皮肉な話だ。
さっき、ベッドの下も確認した。窓の下も、首を伸ばして見下ろした。侵入者を突き落とす絶壁、侵入できる余地などない。
そう分かっていても、不安で堪らなかった。
天蓋からそっと裸足を降ろし、布団を肩に巻きつけ窓辺まで歩く。
裸足に寒さが染みないのは、春が今度こそ冬をねじ伏せたからか、分厚そうな絨毯が底冷えから僕を守るからかわからない。
カーテンを開いたままの窓から溢れる月明かりをぼんやりと眺める。
王城から見える満月は、心なしか大きく、より輝いて見える。
「…?」
あれ…
開いている。
…ああ、昼間に開きっぱなしだったか。
それでも外気に震えないということは…
「ふぅー…」
吐いた息も白く立ち上らない。ということは、季節は本当に過ぎ去ったのだ。
「…信じられない。」
そんなに夜更けという感じもしなかったが、城下町は静かだった。
これがコンスタンツァ港であれば、上空からでも煌々と灯る繁華街の様子が見てとれ、聞き取れぬ群衆の活気に耳を傾けていられただろう。
今は、西部の第6、7管区を眺めても、そのような活気は伝わって来ない。
それが何を意味するかは、明らかだった。
ヴァイキングらが、夜の支配を弱めつつあるということだ。
全能感を得られる奴隷市場も、退屈凌ぎに興じていられる闘技場も、それらを取り仕切る長を失ってしまった以上、機能不全に陥っているのに違いない。
新たな統治者が台頭するのも、時間の問題だろうか。
余り、そのような予感はしない。
その為には、カリスマ的な指導者が再び、彼らをまとめ上げなければならないからだ。
闘技場で、悠々と僕らが命を奪い合う様を眺めていた、あの男。
ヴァイキングの中でも、遥かに体格で劣るはずの彼が、屈強な戦士たちを従えている。
あれに匹敵する者が現れるとすれば、それは見る者を魅了する神性を備えていなければ決して成し得ない。
そう、神のご加護でも、受けていなければ…
指導者として新たに立ち上がった者。彼は、ヴァイキングではなく、ヴェリフェラート王都の中から現れた。
瞬く間に、彼と、その後ろに立つ神様は、商業管区を制圧し、やがて王城へと向かってくるだろう。
何のために?
新たなる統治は、新たなる信仰を生むだろう。
それは、あの狼に、とって、一度失った力を取り戻し、同業者たる神々に立ち向かう糧になると言うのだ。
その恩恵に僕が肖ろうとするには、僕がSeba・Von・Marlboroという男の皮を自らに貼り合わせて、彼が動かしたい魅力的な駒に昇格するしかない。
それが…王に届く手だと、確信させるような、何かが。
何とかして、王城から、抜け出さなくてはならない。
でも、どうすれば、エマを説き伏せられる?
このまま彼女が狼に巡り会えるような幸運は訪れるか?
それでもし、実の兄に接触するようなことになれば、僕は終わる。
外の感覚を少しでも得たいと窓辺の積石を擦り、高層を吹き荒ぶ風を頬に当てたい衝動に駆られ、また僕がここから飛び降り、こっそり抜け出せる余地は本当に無いだろうかと首を差し出した。
その時だった。
「え…?」
急に、部屋が暗くなった。
誰かが、瞬きをしたのだ。
そうに違いない。
そうでなければ、月が夜空から消えることなんてない。
でも、誰が?
僕じゃ無い。
月だ。
月が、形を歪めて、ほら、また、目を瞑った。
何を言っているのだと、思うかも知れない。
でも、ほら、また。
今度は、上弦の月へと、その姿を変えた。
咲っている。
“グルルルルル…”
甘えるような唸り声を上げながら。
殺意を押し隠すだけの優位を見せながら。
“やっと、見つけたぞ。”
頭の中に、何匹もの貴方の吠え声が反響する。
“こんなところで、ぬくぬくと。”
“王様ごっこは楽しかったか?”
「あ、あぁ…」
「フェ…」
「Fenrir…様…」
声が、絞り出せない。
“楽しかったか!?”
「ひぃっ…」
布団の裾に足を引っ掛け、無様に尻餅を付く。
楽しかったです。我が大神様。そう自白する他無いように思われるほどの覇気が、僕を狂わせる。
その光の邪さに当てられ、僕は月焼けしてしまう。
その場に平伏し、どんなに着飾った陳述で赦しを乞うても、食い殺される結末を免れることは出来まい。
寛大な狼を持ってしてもだ。
“俺の前から姿を消せさえすれば、また平和な日々を送れるとでも、本気で思っていたのか?”
「ち、違うんです…これは…!」
“確かに、貴様は無用であった。それを鋭敏に感じ取った嗅覚は褒めてやろう。”
“裏切ることでしか、生き残る道は残されていなかった。その利己的な本質も、俺は買っていたぞ?”
こ、こうなることは、必然だったと仰るのですか?
“貴様ごときが、俺の行手を阻むとは、到底思えんが…”
“狼の正体を知ってしまった以上…生かしてはおけぬな。”
そ、そんな…
“フシュルルルゥゥ…!!”
「うあ゛あ゛あ゛あっ!!」
窓枠が震え、唸り声と共に漏れた吐息が臆病風を吹かす。
腰が抜けて、立ち上がれない。
四つん這いで良いから、廊下に逃げ出して、大声で助けを呼ぶんだ。
巨大な狼は入って来られないはずだし、騎士たちがすぐに駆けつけてくれるはず。
早く、早くしないと…
必死にそう言い聞かせるも、体は氷河に沈められたように言うことを聞かない。
僕は獲物だ。振り向くことさえできない。
完全に、狼の視線に射竦められてしまったのだ。
“と、言いたい所だが…”
凝視していた満月が、再び歪む。
“まあ、赦してやらん訳でも無い。”
…!?
ほ、本当ですか…?
“そうだな、償う術を与えてやるのも、神には必要な行いだろうと思ってな。”
何でもします。どんなことでも!
聞いてください、Fenrir様。
僕、貴方が力を増すのに絶好の機会を手に入れたんです。
遂に、王への謁見が、叶いますよ。貴方のお力を示す、またとない好機だ。
ヴェリフェラート王国の民の数を持ってすれば、もはや神としての地位は揺るぎません。
“貴様の罪は、片腕一本で、赦してやろうでは無いか。”
「…?」
今、何と…?仰ったのですか…?
“右腕が良い。”
“赦してやると言っているのだ。好きな方を選ぶぐらいさせろ。”
“ほら、早くしろ。”
月が窓から消え、代わりにぬっと姿を現したのは、暗黒だった。
牙が隙間なく垂れ、舌がさっさと寄越せと言わんばかりに踊っている。
“安心しろ、肘まで行ったら、ちゃんと噛み切ってやる。”
お、仰ってる意味が…
“鈍い奴だ。丸呑みはしないと言ってやっているのだぞ。”
そ、そんな残酷な…
お願いです。ど、どうか、お慈悲を…
“さあ、こっちへ来い。”
“Grrrrr …!”
あ、あぁ…
命令と同時に、僕は首輪をぐいと引き上げられたように、勢いよく立ち上がる。
全身が逃げろと警笛を鳴らすのに、操り人形のようなぎこちなさで一歩一歩、窓辺へ。
“そうだ。それで良い。”
視界に収まりきらない口が、ニタニタと嗤っている。
“良い仔だ。”
舌先に右手が触れた。
生暖かく湿って、ざらざらとした肌触り。
肘に、鋭利な牙が擦った瞬間。
もう駄目だった。僕は股間に、熱い湿りを覚えた。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!!!
ぶちゅ…
ごりっ…ぱきんっ
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛――――つ!!」
―――
「…ちゃま…ぼっ…」
「あ゛あっ!あ゛あっ…嫌だっ!やめてくれっ!」
必死に暴れる僕の身体を、何者かが抑えている。
「お気を確かに!坊っちゃま。何も致しませんよ。」
だ、誰だ?この男の人の声。
Fenrir様じゃない。これは…
「お可哀想に。悪夢に魘されていたのですね。もう大丈夫ですよ。」
「夢じゃ無い!すぐそこに…!」
「狼が…狼がっっ!」
寝惚けていると思われている。でも、本当に、僕はこのままじゃ、狼に喰い殺されてしまう。
「逃げなきゃ!逃げなきゃ…」
「馬車の準備は、既にできております。」
「え…?」
その一言で、ようやく僕は正気の欠片を取り戻す。
暗がりに、その輪郭は未だ朧だったが、衣服に染みついた、きつい赤酒の臭いではっとする。
「城下へお降りになるのでしょう?今しか御座いませんよ。」
こ、この人…もしかして…
フットマンか…?
「ここから、出してくれるのか…?」
「ええ。坊っちゃまが、そのように命令さえ頂ければ。」
「で、でも、何故だ…?」
「私はいつでも、坊っちゃまの味方です。お嬢様には、私から申し開きしておきますので。」
「日中は…少し厳しいやも知れません。しかし、皆の目を潜れる時間なら、私がこうして坊っちゃまを案内して差し上げられます。」
「さあ、お召し物を…」
「お済みになりましたか。」
彼は、僕の着替えを手伝わなかった。
代わりに薄く開いた扉から、廊下の様子をじっと伺っている。
もしかしたら、本当に僕が情けなく漏らしてしまっていたことを、知らぬふりをしてくれているのかも分からない。
「こちらの小召使用の階段へ…足元にお気をつけ下さい、」
そう囁くと、壁際の階段へ僕を優しく押し込んだ。
蝋と古布の臭いが漂う。
日中には案内されなかった階下から踊り場に出る。
似たような構造が続くのなら、此処は大廊下だったが、如何せん確信が持てない。
対照的に、彼は王城の構造を熟知しているらしかった。
「衛兵に見つかると、少々面倒です…」
「塩蔵がありますので、どうしても警備が手厚いのです。…言い換えれば、避けて通れば、それほど難儀は致しません。」
彼の呼び名であるフットマンとは、どんな職業なのだろう。
僕の元に駆けつけた、ということは、元は第6管区の方にある邸宅で働いていたのだと考えていたが。
ヴェルナーと同じく、エマと共に異動した経歴があるのだろうか。
彼は柱の裏から、入り口の様子を伺い、扉の脇で指を2本立てて示す。
「…今です。」
「はぁっ…はぁっ…私たちは、今、何処へ…?」
「小後門に馬車を付けております。夜間巡邏の交替刻は文官の書状運搬が通るので、それに偽装します。もう目と鼻の先ですが…」
「巡回兵がやけに多い。お嬢様も、報復を恐れていらっしゃるのでしょうね。」
「どういう、意味だ?」
「いえ。見つかる前に、ずらかると致しましょう。」
「なっ、何をする…!?」
「お怪我をされておりましたね、これ以上走るのは厳しいかと思いまして。」
彼はひょいと僕の身体を持ち上げると、お嬢様抱っこのまま、走り出した。
酔いの息のくせに、足音だけは、水の上を歩くように軽やかだ。
走り慣れているな、と思った。フットマンとは、或いはそうった職務に関連しているのかも知れない。
例えば、戦時中に国と国を行き来する伝使とか。
「すまない…」
情けないが、マントの重さに耐えきれず、息が切れかけていた。
数日寝たきりだったし、身の安全を感じて緊張の糸が解けてしまった僕は、もう狼との闘争劇を繰り広げられる気がしない。
「これくらい、どうってこと無いですよ。坊っちゃまも、大きくなりましたが、このフットマン、まだまだ平気なようです。」
でも、抱き抱えられたこの感覚。どこかで…
「さあ、降ろしますね。」
靴底が藁を踏む感触、自分が何処に向かっているかも分からないまま、どうやら外は、すぐそこだ。
内側の閂は既に外されているらしく、彼は紋章板に布を巻いた合鍵で音を殺し、体で風を遮って僕を押し出した。
満月は、形を歪めることなく、柔らかに城下を照らしている。
一つだけ、悪夢と異なることがあるとすれば、日中に身に纏った衣装と、分厚い外套を羽織っても、夜風は冷たかった。
フットマンの言った通り、一台の馬車が用意されていた。
厩舎の影でランタンの覆いが半分閉じられ、鼻息の白い蒸気が二つ揺れる。
「御者は借りです。安全のため、紋章板は外しております、お許しください。」
見ると車体の家紋プレートが外され、麻布で覆われている。
彼は門番小屋へ先に歩み、指をひと撫でするように銅貨を渡した。
「ああ…そうだ…薬箱を城医に。」
流れるようにやり取りを終えると、僕の袖を引き、ステップの革に手を添えて押し上げる。
背後を見上げると、天辺を見上げることすら叶わない辺り、此処はキープの麓、もしかすると使用人たちの居住区まで降りてきたのかも知れない。
「…戻られた際は、フード付きのマントを、ぜひ家の者にご所望になってください。街を歩くときは、きっと役にたちます。」
「そうだな…その方が良い。」
「私は、同乗できません…お忍びですから、窓の覆いは、するに越したことはございませんね。」
「わ、私は、どうすれば…」
元より、一人で抜け出さなくては意味がないと考えていたにも拘らず、
僅かな時間を共にしただけで、僕は彼と袂を分つのが不安に思えてしまう。
「ご安心ください、必ず安全に、お送りいたします。」
「私はいつでも、坊っちゃまのお側におります。」
「ま、待ってくれ…」
内側の厚布の垂れが落ちると、革ハーネスの軋み、拍車の一打が響き、
鉄輪が濡れた石畳を拾って、ゆっくり動き出した。
その日の夜、僕はこうして、フットマンの助力により、ヴェリフェラート王城を抜け出したのだった。
もう一度、Fenrir様に会うため。
その目的地は、僕にさえもわからない。




