54. 宮廷の恩寵 3
54. Court of Grace 3
「私ったら、ごめんなさい。ほんとに、嬉しくて、堪らなくって…」
先程までのはしゃぎ声を聞いた後だと、泣いているのでは無いかと心配になるほどの落ち込みようだった。
「痛むところ、他に無い?兄上?」
「平気だよ、もう自分で歩けるから…」
「でも、顔色が、すごく悪いわ。そのまま横になっていて…」
「痩せ我慢なんて、してないさ。寧ろ、ここ最近では、一番元気なくらいだよ。」
本心からそうだった。彼らの献身的な治療には、感謝しても仕切れない。
しかし、ちょっとした騒ぎになってしまった。
先程まで甲冑の置物と化していた騎士たちが城内を殺気だって動き始めるわ、僕の看病に集まる女中や、野次馬がしたい貴族たちもわんさか集まるわで忙しない。
僕に関する噂が、多少の尾鰭を伴って、流れてくる。
「あれが、マルボロ侯爵の生き残りの…?」
「そうみたい。酷い傷を負っていらっしゃると聞いたわ…」
「ヴァイキングの軍勢を一人で相手取ったというのは、本当にこの青年…?」
「しかも、敵軍の将軍を討ち取ったのでしょう?俄には信じ難いけれど…」
「本当、奇跡よね。一度は捕虜となったものの、自力で生還したという話よ。」
「ただ…ちょっと…」
どれも間違いでは無い。神様のご加護があったこと、その一点を除けば。
そしてそれこそが最も見過ごされてはならない事実であるが故、彼らの賞賛と疑念の視線は針の筵だった。
ふと疑問に思った。あの狼は、彼の威光を最終的にはひけらかしたいのだろうか、と。
今は、代行者を通して、姿を顰める必要があると仰っていたけれど。
とにかく、一刻も早く立ち去りたかった。
この場を収めるには、僕が何事もなかったかのように立ち上がるより他無い。
「ダメよ!そのまま横になっていて…」
「きっと空腹が祟っただけだよ。お腹も鳴ってる、早く何か食べたいな。」
敷かれたマントの上に寝かされていた僕は、女中らの静止を振り切り、それを拾い上げて身に纏う。
そうすれば、彼女らは留め具のピンを綺麗に刺し直し、型崩れしたドレープの体裁を整えることに集中せざるを得ない。
「また、落ち着いたら、ゆっくり案内してよ。もっと城のあちこち、見てみたいな。」
「さ、行こう?エマ。」
「……。」
今度は、僕が手を引くことで、感じるものがあってくれるだろうか。
「もちろんよ!こう見えて、コネはそれなりに効くんだから。主塔にだって、舞踏会があれば、通して差し上げられるはず…!」
「い、いや、流石にそこまでは…」
変なところで、張り切らなくても良いのに。
それにしても、なんて下手な嗜みだろうか。間違いなく、貴族の教養を身につけていないとばれてしまいそうだ。
「冗談よ…兄上が、そういうの趣味じゃないのぐらい、知っていますから。」
「また、二人で、仲良く暮らせたなら、それ以上何もいらないんだから。私…」
―――
「ほんとに大丈夫、兄上?」
「大丈夫だよ。でも、この足じゃ踊るなんて当分無理かな。」
大扉の先へ通されるのを待つ間、小声で彼女に耳打ちする。
「ふふっ…まだ本気にしてるの?」
眩い光が差し込み、耳飾りも、笑ったように揺れた。
ギィィィィ……
扉の向こう、白い卓布に眩い光が跳ねた。雪原に差し込む朝陽を思わせるのは、誰の記憶だろう。
数十人が囲めるほどの長机に通される間、綺麗に整列されたメイドや給仕たちが、静かに目を伏せ頭を下げていた。彼らの、オブジェに徹する様には、感心させられるものがある。寝坊して、寄り道もして、
その間もずっと待っていたと思うと、何だか申し訳ない気持ちにすらなる。
案内された上座寄りに、金で豪華に装飾された壺が鎮座していた。
塩壺だ。
貴族と無縁の僕でさえ、一目で、それと分かった。これ見よがしに、塩の影が白布に小さく落ちている。
「おはようございます。ご領主様。」
席につかされると、白髪の物腰穏やかそうな老人が、殊更丁寧に深々と頭を下げる。
「ご気分は如何でございましょうか。メイドたちから、話をちょうど聞いて、向かおうとしていたところでございます。」
「ああ、お陰様で…」
反対側では給仕が盃を差し出す前に、小匙で一滴だけ啜って見せ、会釈だけを置いて下がる。
初対面の、それも目上の相手に遜られるなんて、何とも変な気分だ。生返事をしてしまったが、彼は…
「こうして貴方様にお仕えできる日がやって参りましたこと、この上なく光栄に存じております。」
どきりと胸が痛んだ。
彼は、昔のSebaを知っている人物だろうか。
もし、最近の彼の素顔を見ているなら、簡単に、別人だとばれてしまう。
一方的に面識がある相手には、誰であろうと細心の注意を払わなくてはならないのだ。
「ヴェルナーは、兄上のことをご存知でいらしたの?」
「居館でのお嬢様のお世話を仰せつかる前までは、あのお屋敷でお父上の執事としてお仕えしていた時期もございました。随分と昔になりますが…」
「あら、そうでいらしたの…?」
エマも驚いている。面識は浅くて当然だったようだ。
「覚えていなくとも、無理はございません。まだほんの、小さな子供の頃でしたでしょう…」
「申し遅れました。私、先祖代々マルボロ家に仕えております、ヴェルナーと申します。現在は、お嬢様の執事をさせて頂いておりますが、本日より、Seba様にもお仕えをさせて頂きたく、ご挨拶にあがりました。」
「それは、ご丁寧にどうも。妹が世話になったみたいで…これから宜しく。」
「おお、暖かいお言葉を頂き、ありがとうございます。」
―――
「こちらも如何でございましょうか。ご領主様。」
「ああ、頂こう…」
切り分け役が主皿の獣肉を卓上で捌き、トレンチャーへと移す。
豪勢な食事も、結局のところ貧しい舌には、わからないとか。
格調高い雰囲気だとか、見よう見まねの礼儀作法で緊張して、喉を通らないとか。
そんなものは全て杞憂に終わる。
上品ぶって、勿体ぶって、だらだらと食べるなんて、もう僕には無理な話だった。
どうか、沢山飲み食いできる、飢えた狼のような男児が此処では行儀が良いと信じよう。
唯一僕を理性的に押さえつける部分があるとすれば、具材の味付けに何を使っているのか当てようと、舌で懸命に転がそうとするところだ。
職業病が、こんなところでも出てしまう。
レシピが知りたい。根は殺人鬼などではなく、料理人でありたいのだ。
アーモンド乳の白いポタージュの熱みが、じわじわと身体の中に広がっていくのを、感動なんてしてしまった。ほっと吐いた溜め息に、ナツメグの香りがほのかに昇る。
マンシェットを指で割き、湯気を吐く内側を浸してもっちりとした食感を楽しむのは背徳的だった。
なんてちっぽけな夢だったのだろうと思う。自分で作っても、こんな風に食事を有り難がったことなんて無かった。
「ご領主様、お口には、合いましたでしょうか?」
「あ、ああ…」
言うこと無しだ。
強いて言うなら、頬も舌も、ご馳走にやられて、びりびりしていることぐらいだろうか。
指洗い鉢にはローズマリーが浮き、脂と香辛料の香りを淡く洗い流す。
「久しぶりに、口にしたよ…」
「な、なんとお可哀想な…」
「彼奴らは、貴方様にお食事さえ与えなかったというのですか?」
「あんまりだわ!誇りというものを知らないのよ…なんて野蛮なの…」
適当なことを呟いただけだったが、勝手に僕の生還劇と符合させられてしまう。
「はは…でもこうして、生きて帰ってこられたのだ。」
盃の液は濃かったが、蜂蜜酒にしては控えめな甘さだ。
お酒も、自分で飲むぐらいなら、料理と共に客に振る舞った方がと、あまり嗜んで来なかった。
それは失敗だったな、と今になって反省している。どのお酒には、こんな料理が合う、そういう視点が足りていなかった。まだまだ素人なんだな、僕。
喉から胸へ、ゆっくりと温もりが降りていく。
毎食飲んでもいいと思えるぐらい、美味しかった。頬が火照り、気分がとても良くなる。
「神ご加護に、感謝しなくてはな…」
銀の盃の中に歪む自分の顔を眺めて、ふと考え込む。
一瞬、僕は、神様が自分のためにしてくれたことを、そんな風に思い返す。
とんだ、罰当たりだと想っている。
僕に必要だったのは、崇高なる神の慈愛などではなく、あり触れて、すぐに手に入って確かめられる、人間の温もりだったのではないだろうか。
初心を忘れるつもりはない。
リフィアに会わせてくれる見返りとして、僕は平気で人を騙して殺せる、貴方の従順な駒となる。
あの誓いとは、呪いであると知っていた。
でも。
けれども、僕はもう、あの狼にとって、用無しなのではないか。
パン屑を親指で集めながら、そう考えずにはいられなかった。
僕よりも、もっと強力な動きを伴う、あのお方の本当の目的に相応しい駒を手に入れたことで。
約束は反故にされながらも、
もし、僕が手放された結果として、
神様の慈悲によって、第二の人生を謳歌する機会を与えられたのだとしたら。
きっとそれなりに、幸せだろう。
それなりと言うのは、失礼だ。こんな身分、僕がどれだけ努力したって、手に入れられるような地位じゃない。
二度と、冬の寒さに凍えずに済むだろう。
暖炉の前で、贅沢な衣装に鎮められて惰眠を貪っていれば良い。
飢えに怯える必要だってない。
金欲しさに、妻を置き去りにするようなことだってしなくて済む。
料理も、きっと自分の手で作らせてすら貰えない。
そして…
ずっと寄り添ってくれそうな、家族の片割れまで、用意してくれた。
新しい自分を与えてくれたと、解釈させてもらえるのなら。
僕はそれを享受して、二度とあの神様と関わり合うことをせずに、何不自由なく暮らす。
時折、偽りの身分は彼女を傷つけまいと僕に自戒の影を落とすだろう。いずれ、鍍金が剝げ、罪を償わされるかも分からない。
それでも、それに見合うだけのものを与えてくれた。その一点において、あの狼を、僕は神様として崇め続ける。
銀盃にクローブの影が揺れ、思考が一旦そちらへ逸れる。
「それでは、お嬢様。本日のご予定をお知らせいたします。その後、幾つかお耳に入れたいことが。」
……?
朝、いや午餉は、家令から、簡単に報告事項を聞く時間も兼ねているらしい。
自分も会話に入らなければならない気がして、そこで思考は途切れた。
「ええ、今日は何があったかしら。」
「まず午後からですが…ラテン語の読み書き、その後に歌唱のレッスンがございます。」
彼女は澄ました表情で聞き流すが、乗り気ではないと顔に書いてあった。
教養、という奴だろうか。貴族も大変なんだな。
「それから、司祭殿への公文書の書類作成指示を頂きたく…」
「またですの?この間も、指示したばかりではなかった?」
「ええ、最近になって、第8管区での犯罪が増えているようでございまして…」
「はあ…もう港区だけでは無くなっているのね。」
「書記が起草済みですので、裁可印だけ落としていただければ。」
「それから、軍事会議の方も、ご参加だけお願いいたします。夕食前になるかと、その時にまた改めてご案内致しますので。」
「ええ…今日は良いじゃない。忙しいわ。」
「恐れ入ります、旦那様からの言伝でございました。」
「兄上のことは伝えていなかったかしら?」
「はい、そのように申し上げたのですが、是非にと…」
「最悪…」
「エマ…こ、これだけ多くの仕事を、君一人がやらなくちゃならないのかい?」
これでは、せっかくの食事も冷めて不味くなる。
「女の私が、とも思うのだけれど、これもお父様からの頼みだったし、仕方ないと思っているわ…」
「領土関係の管理だけは、夫がしてくれているの。ただ、軍旗の下に集まる誓約騎士団と常備歩兵も、王城からの招集の号令の名の元にマルボロ家から派遣したということになっているものだから、そちらは私の名の下に動かさなくてはならないわ。」
「ぐ、軍事活動の指示も…?」
「と言っても、私にできることなんて、正直高が知れているけどね。市の取り締まりは市衛兵の任。第8管区は巡邏の増員要請だけ私から出せるわ。」
立て続けに耳慣れない言葉を使われ、僕の中での貴族の自堕落な像が霞んでいく。
「彼らが動くことになるのは、王城が攻め込まれた時…裏を返せば、そのような事態になるまでは、動かなくて良いと言っているようなものだもの。果たしてそれが、本当の意味で十管区を守ることになっているのか、甚だ疑問だけれど…」
エマは、盃の酒を飲み干すと、口元を丁寧に拭いて背もたれに身を預けた。
「今日の雑事は、それで全部?」
「はい、お嬢様。ご多忙の中、ご領主様とのお時間を作れず、申し訳ございません。」
「いいわ…ちゃっちゃと終わらせましょう。」
「お嬢様。もう一つだけ、お耳に挟みたいことが…」
「あら…何かしら?」
「例の男の目撃情報が、またあったようです。」
「…!?」
エマの視線が、僕へと向けられ、執事は目を伏せる。
彼女は案の定、顔を曇らせた。
「あ、後で聞くわ…その話は。」
間違いない。
Sebaだ。
Fenrir様がヴェリフェラートに来て、僕以外に用事があったとしたら、それは彼しかいない。
先程、僕の前に現れた、狼の影、タイミング的にも、符合する。
「かしこまりました。」
「……。」
動き出したのだ。
「それでは、本日は以上になります。引き続きお食事をお楽しみください。」
「兄上、まだお肉もパンも山ほどあるわ。無理に詰め込むと良くないかも知れないけど、遠慮しないで…」
「え、エマ、一つ、聞いても良いだろうか。」
僕は、おずおずと笑いかける。
ヴェルナーにも視線を投げかけ、会話に参加するよう示す。
「…?何でも、どうぞ?」
「あ、あの…」
「わ、私にも…責務があるはずだ。ぜひ、申してくれないか。」
迎え打たなくては。
皮を、完全に被るには、どうしたら良い。
「私は領主として、これから何をすべきだろうか。」




