54. 宮廷の恩寵 2
54. Court of Grace 2
「こちらです、兄上…!」
「わかった、わかった…そんなに急ぐなよエマ…」
大広間へ向かう片廊下を連れられる最中、エマの手は僕を握ったままだ。
彼女の中で、きっと二人の関係は、最後にこうした思い出のままで止まっているのだろう。
勝手な想像だ。けれどもSebaに対して、薄情な印象を育てるのは、そんなに難しいことでは無い。
どれだけ、この瞬間が嬉しいのだろう。
小走りで先を急ぐ彼女は、まるで自分だけに打ち明ける秘密の場所を早く披露したくて堪らないと言った様子だった。
後ろ髪を束ねる古風な飾りだけが唯一、生まれ変わる前の僕が何も感じずに見惚れていられる場所だった。
首元から放つ匂い、首筋を揺れる金の装飾、瑠璃色の袖から覗く白枝のような手のひら。
あらゆる側面が、僕には眩しすぎる。
「ふふっ…」
そう思ったら、ぱっと満面の笑顔と目が合って、それがどうしようもなくたじろがせるのだ。
丁寧な治療を受けていたようで、酷く捻った右足に、もう違和感すら残っていないのが救いだった。
傷跡こそ目立つであろう身体は、概ね完快している。
目を覚ました時だけ、一瞬ずきりと頭が痛んだ気がしたが、それも眠り過ぎからくるものだったみたいだ。
こんなに、溌剌としていられる自分は、いつぶりだろうか。
身体を暖かく包む衣装のお陰で、心も希望に満ち溢れている。
ずっと、寒かった。
何を頬張っても、どれだけきつく巻きつけて纏っても。
あの日から、身体を芯から温めてくれるような施しは、一度も受けたことが無いような気がしていた。
僕らが歩いている歩廊は、両側では無く、片方にしか扉が無かった。そしてどうやら、左手には窓や光彩のスリットの一切が見られないので、外壁では無い。敢えて廊下を使わないのは、土地に余裕があって、金持ちの証拠だと言うが。
食卓へと連れられる道中に、なんとなく気づいていたことではあった。
余りにも無限に東西へ伸び続ける石造の歩廊。
此処は、いわゆる豪邸と呼べる場所では無い。
道中ですれ違う婢女らへの会釈も、なんだか疲れてきた。
深々と頭を下げられているのだから、もう彼女のように無視して良いのだろうか。マントの中から一々左手を出すのも、面倒だ。
しかし、余りにも裏地の肌触りが良いので、マントの中で仕切りに片手を遊ばせているのは内緒だ。この装いで、街を歩くのは、正直言って恥ずかしいとは思う。けれども、僕はすっかりこの貴族らしい衣装が気に入ってしまったのだった。
「ほら、兄上、此処からの景色をご覧になって!」
「もちろん。一体、何が見えるんだ、い…?」
長かった回廊の突き当たり、
礼拝堂でしか見たことが無いような光柱が、この建物が設けている数少ない出口から降り注いでいる。
「わっ…!!」
「きゃっ…!」
二人が同時に漏らした感嘆は、方や、その中に入った瞬間、眩しさに目を潰されてしまったからだ。
方や、冷たい春風に、ぶわりと吹き上げられた兄のマントの裾に、視界を遮られてしまったからだ。
外界とのつながりを感じられる程度に思える。頬を擦るこれが、皮膚を削るようで、死ぬほど怖かっただなんて、今思えばとても信じられない。
「……!?」
ゆっくりと目を開く最中で、僕は強い眩暈を覚えた。
強風に長衣が煽られたせいにして、一瞬ふらついたほどだ。無意識に、彼女の手を強く握り返す。
「わあっ…!!」
石の縁に手をついて、霧が滑る眼下を覗き込む。
僕は、驕りすぎた。きっと、この立派なマントが、王様のような気分にさせてくれるせいだろう。
より傲慢にも、神様にでもなった気分と言えば、寧ろ貴方は喜ぶのだったか。
洞穴での微睡の中で、そんなことを仰っていたのを、朧げながら記憶している。
「こ、ここって…!?」
ヴェリフェラート城下町だった。
その全てを一望できる場所は、空以外に一つしかあるまい。
十管区の大通りを南に歩いたことのある人なら、誰しも一度は想像しただろう。そこからは、きっと行き交う群衆の全てが、見下ろせるのだと。
そんな解像度の低い想像は、嘲笑にも値しない。
王族に、そんな下々の営みなどが、見て取れる訳がないのだ。
隣で、威風堂々と靡く国旗に描かれた、後脚立ちした獅子の紋章。
間違いない、此処は…
「初めてだったでしょう?王城からの景色。」
理解が追いつかない。
「な、なんで…」
絶句だけは、避けなければならなかった。変なことを口走るよりも、訝しまれる。
しかし、何故、僕は此処にいるかを尋ねることは、自らボロを出しているに等しいのでは無いか。
「私は、いつだって、独りで待っている兄上を迎えにいく。それだけです。」
「小さい頃から、ずっとそうだった。でしょ?」
いつだって…?
それは、本当の兄妹であれば語る必要のない約束なのだろうか。
「って言っても、私は逆に、あのお屋敷が、懐かしく感じるんですけどね。」
「本当のところは、私がみんなの元へ戻ることばかり、考えていた。」
「商業管区の港に面した、あの館にかい?」
「ええ…こちらに嫁いできたばかりの頃は、恋しくて夜泣きしていたわ。」
「初めて、兄上の気持ちが分かったような気がして。」
嫁ぐ…?
この年で、もう結婚していたのか。なんて思ってしまうけれど、歳の差が3つかそこらであるなら、僕も彼女の年齢で、とっくの昔にリフィアと結婚していた。
実際には契りを結ぶ前だとしても、早い段階で、僕らの仲は引き裂かれてしまっていたらしい。
詳しいことは知る由もない。政略結婚という奴だろうか。
でも、マルボロ家が抱える公女の嫁ぎ先が、王族とは、恐れ入った。
それで、ヴァイキング侵攻によって国家からの信用が地に堕ちたマルボロ侯爵家は没落。残された兄は、嫁ぎ先の妹の家系に拾われる形で、奴隷の身分から救われた。
兄弟の再会がこのような命運を辿ったのだとすれば、一応僕が巻き込まれた経緯は納得がいく。
「気に入ってもらえたかしら?兄上?」
「地下からは、絶対に見られない景色でしょ?」
「あ、ああ…」
今の僕にはなんとも皮肉な言い回しだった。彼らは、敬虔であり、自分たちが人の上に立っていながら、神様とは程遠い存在にある自覚がある。
それゆえ、自分たちが立っている場所こそが地上であり、その足元で暮らす僕らの世界を、そのように呼ぶのだ。
「そうだね。君と一緒に、眺める日が来るなんて、正直思ってもみなかった…」
身を乗り出せば、吸い込まれる。
怖いとは思わなかったけれど、片手で石柵を、もう片方の手で彼女を握っていなければ、足元が揺らぐ気がした。
「でも、この高さ…王城で言うところの、どの辺りに位置しているんだい?」
王城内部のことについては、素人を装って問題ないだろう。
「主塔は、北にあるわ。此処からでは…見えないわね。」
「ここが防衛塔に直接繋がっている、第3キープ居館塔なの。」
「嫁ぎ先のKenrith家は、第2キープに在住の王族の一人よ。」
第2、第3と言われても良くわからないが、おそらく天に向かって聳える、一際高い3本の針のような主塔を指しているのだろう。
Kenrith家と言われても、庶民である僕には、ピンと来ない。
王様と言えば、Smahlt家だ。近しい王族であることは、容易に想像できるけれども。
「真下に見えるのが、ベイリーよ。騎士たちや、使用人の居館があるわ。」
迫り出したバルコニーから、比較的近いところに見える。これも民衆が住まう区画かと勘違いしていたが、それとは別に、僕らへの給仕の為にはたらく人々の館があるのだ。
「騎士というのは、君の名の下に、仕えている…?」
「両方かしら。私が嫁いだことで、抱えている兵力の半分を、こちらに移すことになったと、父上が仰っていたのを、なんとなく覚えているわ…」
「此処から直接降りて行けるわ、でも1階が…兄上一人で赴かない方が良いわね。後で案内させて。みんな、喜ぶと思うから!」
「それで、その先が、10管区の民衆たちの家屋ってところね。」
「…今日も平和。」
平和…?
荒れ狂う6、7管区に比べればそうかも知れないが、お世辞にも在りし日を思わせる活気が無いことは、僕自身が歩いてみて実感したことだ。
やはり、地上、ではなく、地下へと投げかける視線とは、その程度の観察でしかない。
それとも、緩やかな滅びの予感に、気づかぬふりをしているだけなのか。
「ああ…静かだ…」
この国は、もう負けた。
ヴェリフェラートは今や内側から腐り、利益の源泉をヴァイキングにしゃぶり尽くされていく。
これまで通りの生活を享受し続けるのは、彼らに始めから味方することを選んだ一握りの商人と、死ぬまで富を切り売りできるだけの余力がある王族だけ、か。
反感を覚えても、仕方のないことだ。
それに、少なくとも後者に、僕はなれそうだろうか。
もちろん、それが望みなのでは無い。
そもそも、未だに、何故自分が此処で、Sebaの妹君と偽りの邂逅を楽しんでいるのかわからないのに。
僕はもう一度、春の陽気と穏やかな陽の光にぼやけた第10管区の高層を見降ろす。
あの狼と一緒に伝った、闘争路は、どの辺りだろう。
そんなことが、この視点を得たことで、気になり始めたのだ。
雪も溶けた黒屋根には、どれも画一的で特徴が無いけれど、関門のどこかを、怪我した片足を庇い、曲芸まがいの綱渡りで切り抜けたのは、覚えているなあ。
自分で考えても、高熱に魘されていたとしか思えない奇行だったけれど…
ああ、ほら、彼処に見える。
「ぜひ、キープの内側にもいらして、兄上。お外よるもずっと暖かい中庭があるの。お昼寝にはもってこいだし、もう少し暖かくなったら、一緒に散策しましょう?兄上の大好きな…」
っ…!?
「うわあ゛ぁっ!?」
僕の叫び声に呼応するように、旗が張り詰め、雨樋の鎖が跳ね、近くの鳩が束で飛び立つ。
「どうしたのですっ!?兄上…?」
当然バランスを崩した僕に釣られ、彼女も一緒になって身を屈め、左肩に手を添えてくれた。
冷や汗が、どくどくと吹き出している。
実際には、隠れようとしたのだ。
目覚めてから初めてのことだ。狼に付けられた全身の傷跡が、居場所を持ち主に知らせるかのよう。
「あ、あ…?」
関門の塔の屋根の上に今、誰かが、いた。
え…?
声を漏らしたら、
そいつは、空を仰ぐように、顔を上げ。
此方を見て、嗤ったように見えた。
“そこにいたのか。”
行き交う群衆の姿も分からないほどの距離だ。
人間であった確信がまるでない。
鳥だ。地上の残飯を狙って、滑空したに違いない。
一羽だけで、独り占めをするつもりなだけ。
そうだ、点のように小さかったから。きっとそう。
そうでないなら、彼は己が生を思い詰めていたに違いない。
僕を認めたかに感じられたその直後、
ひょいと高台から飛び降り、屋根の狭間に消え去ったのだ。
翼も持たぬのに。
何故、そこにいる?
「い、いや…何でもないよ。エマ…」
「足首、捻ったところが、急にぐらついて…」
今のは、本当に…?
強風に混じる、狼の遠吠え。
聞こえているのは、僕だけか?
「あに、うえ…?」
心配そうに覗き込む妹君に振り撒く笑顔よりも、僕にはできることは無いだろうに。
強張った頬は、射竦められた獲物の表情のまま、解けてはくれなかった。




