54. 宮廷の恩寵
54. Court of Grace
『おはようございます。ご領主様。』
「ん…ぅ…?」
仕事柄、朝市に赴いて食材の調達に奔走しなくてはならなかった身であったにも関わらず、僕は朝がどうしようもなく苦手だった。いっつも、僕がリフィアに起こされる側だったんだ。
そんな、寝坊助なこの僕を誰かに起こしてもらえるような日々を久しく送ってこなかったのだ。
この瞬間を、僕は狼以外の誰かに気を許せた瞬間と受け取って喜ぶべきなのかも知れない。
天蓋から垂れた布を恐る恐る捲ると、深々と頭を下げて並ぶ二人のメイドの姿があった。
「えっ、と…」
でも僕はたじろぐ。余りにも熟睡してしまった自分を恥じつつも、こうして音もなく室内に入られると、身分を偽っている身としては、正直生きた心地がしないのである。
「未だ、お休みでございましたでしょうか?申し訳ございません。」
「い、いや、大丈夫、だ、です…」
「起こしてしまい申し訳ございません。ご気分は如何でしょう。まだ、お休みになられますか?」
「いいよ、起きるから。」
既に天蓋の内側からも、気持ちの良いほどの晴れた昼下がりだとわかった。
寝過ごした所ではない。自分でも分かるほどに、今までの緊張の糸が解けて、身体が怠惰を心の底から享受したいと呟いている。
まるで、すべての悪夢と呼ぶべき日々が去ったかのよう。
「あの…エマは…」
「食卓でご領主様をお待ちです。では早速、お召し物を着替えさせていただきますね。」
「じ、自分でやるよ、もう動けますから、それぐらい…」
「左様でございますか…?」
彼女たちは、きょとんした表情で、僕の赤面していく顔をまじまじと見つめる。
「承知いたしました。朝食のご用意ができておりますので、お着替えがお済みになりましたら、お呼びつけ下さい。ご案内させていただきます。」
「あ、ああ…わかった。すぐに行く…」
「では、失礼致します。ご領主様。」
ガチャン…
「……。」
「ふぅー…」
記憶喪失などでは、到底済まされないであろう挙動不審に陥っているのが自分でも分かった。
想像の範疇で、威張り散らかした貴族の態度を思い描き、そして2、3日を共にした本人の丁寧で控えめな口調を真似たとて、到底一つの矛盾の無い人格を形成できるわけがない。
メイドの身分からすれば、そんなことを訝しんでも、噯にも出せないのだろうか。
それすらも、わからない。
とは言いつつも、窺い知りたいと思う気持ちは抑えられなかった。
裸足で鏡台の前を通り過ぎ、僕が両手を広げて3人は通れそうな大扉の前で側耳を立てる。
「どうしちゃったのかしら、ご領主様…?」
ひそひそ声とはとても言えない、女中たちの会話が聞こえた。
「女性の私共では、ご領主様も恥じらわれているのでは…」
「そんなこと…と思ったけど、考えてみれば、坊っちゃま…いえ、ご領主様も、そういう年頃ですものね。」
「あまりわかっていないのですけれど、エマ様とは、お幾つほど離れていらっしゃるの?」
「私も実は…でも、近そうよね。3、4歳くらい?」
「それはそうと、誰かがお手伝いしないことには…」
「ええ、心配ねえ…」
…?
そんなに、身体中傷だらけの僕の容態を案じてくれているのか。
大袈裟だと笑い飛ばせないほどには、死線を潜り抜けてきた身ではあるけれど。
「そうよねえ、エマ様のお兄様ですもの。」
「靴、履けるかしら…」
靴も履けない…?
どうやら思っているのとは、違う心配のされ方をしているみたいだ。
僕って、いや、Sebaって、着替えも一人で出来ないような奴だと思われているのか?
貴族というものが、どれだけ人としての特権を享受できる存在かを思い知らされる陰口だった。
それぐらい、怪我をしていても、流石に出来る。
…屈んだり両腕を伸ばすのが、ちょっとしんどいぐらいで。
どうにか麻のブレーに足を通すと、僕は皺一つ無く畳まれたブリオーを机から拾い上げ、床に垂らす。
「……わあ…」
「絹だ…」
思わずたじろいでしまった。
降りたての雪のように白く滑らかな生地に、感嘆よりも嫌悪が口を突いて出る。
首周りと袖口に、金糸の刺繍を施した紫の縁がついていた。余りにも豪華なあしらいに、自分がこれを身につけなくてはならない事実をしばし忘れてしまった。
まるで、港町で偶然見かけてしまった高級品だ。手が届かないと分かりきってしまえる値段を聞いて、せめてその品の魅力を目に焼き付けることで取引をした気分になろうとしている。
「フットマンは…いらっしゃらないの?」
…?
「当家のお屋敷では、まだ雇っていたと聞いたことがあるけれど…」
「さあ…もう居なくても、おかしく無いわね。雇うだけの余力も、きっと無いのよ。」
「ご領主様のお父上も亡くなられた今…詮無きことね。」
い、いけない…あんまり時間をかけると、本当に、着替えさえ一苦労な世間知らずだと思われる。
誰だろう、フットマンって。男の使用人ということしかわからない。
「あ…」
チュニックの上からブリオーを被り、頭を通した時に、いい匂いがした。
すごいや、香り付けまでしてあるのか。しかも、全然きつくなくて、そこだけは良い趣味だと感服する。
確か、そう、これは…
袖口がやけに広いのも、巷ではあまり見ないデザインなような気がした。
僕が疎いだけで、流行りだったりするのだろうか。
「……!」
ガラス窓を見て、僕は心臓を大きく高鳴らせてしまった。
これが、僕…?
仮装が非日常を彩るのと同じような興奮を覚えた。
咲うなら、成金というのが、相応しいだろうか。
或いは、奴隷が一夜だけ王様の特権を得て処刑されるような逸話の体現か。
いずれにしろ、初めて僕は、偽った自分にわくわくしてしまったのだ。
こうして得られた特権に、自分の選択に対する見返りが含まれていると信じても良いような気がした。
ガラスの奥に揺れた自分が、金糸のさらりという音と一緒に他人へと変わった。
「あ、あの…着替え終わった…んだが…」
「はーい、ただいま!」
二人の元気な声が響いたので、再び僕のいた寝室へと入ってくるのを待った。
思えば、こんな広々とした部屋に、僕一人か。
何処を見渡しても、豪華だなあという感想しか浮かばない調度品ばかりで目のやり場が無い。
普通なら春先でさえ寒さを覚えそうなものだけれど、地面に敷かれたカーペットの沈む感触といい、一人の為に惜しみなく燃え盛る暖炉の爆ぜる音といい、道理で僕は目を醒さなかった。
がちゃ…
風が吹いて、カーテンが緩やかに靡く。
眩しい日の光が差し込むせいで、天国の夢を、僕は今度から、このような形で見るのだろう。
さて、これでSebaの妹の元へ案内して貰えるのかな。
色々と聞かなきゃならないことが多すぎる。
僕はどうやって、僕を装わなくてはならないのか。まさに手探りであるのだから。
「あ、あの、ご領主様…」
「こちらは、お召しになられないのですか?」
「え、えっと…」
やっぱり、これも身につけて良いものだったのか…
「いえ、私共が致しますので!大丈夫でございますよ。」
マントだった。表と裏で、色地が違う時点で、発想が庶民の羽織るものでは無い。
裏地が起毛された白で、外にこのまま出歩いても、全然寒くないだろう。足元まで垂れた緋色のそれは、靡けば大層映えるに違いなかった。
ブリオーでさえ煌びやかで、とても自分が身につけて良いものでは無かったのに、金の刺繍が施された首襟に埋め込まれた宝石は、趣味が悪いとは思わないけれど、余りにも派手だった。
これを、僕が、纏うんだ…
しかし、僕は味わってしまったのだ。
身分不相応に着飾る快感と、実はそれを受け入れてやるに相応しいと驕るこの背徳感。
そうだ。僕は、こうして貰えるだけのことを神様のためにしてきた。
肩にずっしりと伸し掛かる重みに、僕は思わず興奮のため息を漏らす。
罪悪感も、全部マントの重みで胸の奥へと押し込められる。
「腰帯も、締めさせて頂きますね。」
「あ、ああ、忘れていた…」
これは本当に、素で忘れていた。
これまた革紐を結ぶだけかと思いきや、金色の帯が、袖の刺繍と合うよう、同じ色味の模様で綴られている。
腰元で跪かれ、僕は為す術も無く立ち尽くすだけで良い。
「な、なあ…」
「どうされましたか、ご領主様?」
「これって、ラベンダーの匂い、か…?」
僕は、無言を貫き切れず、ぼそりと尋ねる。
精油だったら、目玉が飛びでる程高いとか、そういう次元ではなく、決して市井の民が手にすることはない。しかし、芳香のハーブで蒸留水というものを作ることができる、そんな話を巷で聞いたのだ。
それでも十分に高価な代物だったが、代替品として、稀に市場にも出回っているらしい。
貴族の消耗品としては、打って付けかもしれない。噂話を根拠に、かまをかけるのはどうかと想ったが、でも匂いの正体には自信があった。
狼ほどでは無いが、料理人として鼻は効くほうだ。
教会や、修道院では、必ずと言って良いほど、栽培している。
ヴァイキングの建築様式を備えたあの教会の裏庭にも、初夏には花を咲かせるだろう。
「はい、その通りでございます!」
メイドは顔を上げ、ぱっと顔を輝かせる。
「ラベンダーの茂みで乾かしますと、お召し物にその匂いが移って、このようになるのです。」
「へえ…近くにあるのか?」
「はい、お庭に。ですが冬にはそれは難しいので、エマ様が、お好きだと仰っておりまして、特別に精油を…お気に召しましたでしょうか?」
……。
全然、匂いの種は的外れという訳でも無かったらしい。
「そ、そうか…」
「覚えていてくれたんだな…」
呆気に取られてしまった気まずさを適当な嘆息でごまかせるぐらいには、僕も様になってきた自負がある。
寝室には、怠惰で緩く解ける時間が流れつつある。
「お腹周りは、苦しく無いでしょうか。ご領主様?」
「大丈夫だ…きつくない。」
「こちらにお座り頂いても宜しいでしょうか?靴を…」
「うむ…」
これ…覚えてる。僕が接吻したのと、おなじだ。
サイズも、ぴったり。
もう、僕のもの、で良いのか。
こんな、こんな為体が許される日常を享受して良いのか。
「お似合いです。ご領主様。」
最後に、腰に布施袋が結え付けられ、完成だった。
開けることはしなかったが、これが金貨の重みだとしたら、既に僕が傭兵の仕事を経て得た所持金を超えていた。
貴族って、こんなものを、普段から持ち歩いているのか…?
わからない、もしかしたら全然別のものが入っているのかも。
「……。」
そう、僕は何もわからないのだ。
僕が生活することを許されているこの空間が、ヴェリフェラートの何処かであることぐらいしか。
「では、ご案内いたします。ご領主様。」
「ああ、頼むよ。」
馬子にも衣装とは、よく言ったものだ。
これだけ華美に着飾ってしまえば、どんな発言も様になる気がしてきた。
分厚いマントに覆われて、身体を動かすのも勿体ぶった所作になるに違いない。
二人がいなかったら、一周ぐるりと回って、長たらしい衣装が棚引くのを楽しんだことだろう。
「兄上!良かった、起きてた…!」
ノックも無しに、開かれた扉から、溌剌とした、聞き覚えのある声が飛ぶ。
「…?エマ…!」
「お嬢様。おはようございます。今、そちらにお連れしようかと。」
メイドたちは、彼女らに向けて、深々と頭を下げる。
「ごめんね…自分でもびっくりする程、ぐっすりだったみたいで…」
彼女もまた、都市では目にしたことの無いような衣装で着飾っている。
こんな娘が市街地で側を通り過ぎたら、近い年の男は全員振り返るに違い無いだろう。
僕が身につけている衣装が、この身分に適正であるとすれば、彼女のそれも、また同じなのだろう。
でも、彼女のブリオー姿のほうが、よっぽど似合っていて、装飾も年頃の魅力を際立てているように感じられる。
「……。」
結局、女性のことを想って最終的に辿り着くのは、リフィアのことだ。
亡き妻が着飾る衣装が、これだったらと、頑張って想像してみようと思うのだが。
目の前の印象が、余りにも強すぎて掻き消されてしまう。
美しかった。
妹という、肉親の前提があって、本当に良かった。
「もう、待ちくたびれて、お腹空きすぎて、こっちが眠くなってきたところよ。」
「でも、ブランチには、ちょうど良いんじゃないかしら。」
「行きましょ。兄上!」
傷だらけの右手を優しく手に取り、にっこりと微笑む。
取り戻せたことを、肌で感じたかったのだろう。
この時を、どれほど待ち望んでいたか、言葉では言い表せないと、潤んだ瞳にはそう讃えられている。




