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53. 春霙 

53. Sleet


立て続けの転送は、注目を集めたはずだ。

Sirikiを連れ去った何者かと、俺がVojaを送りつけた事象が、僅かの時間差で発生したことで、俺は、きちんと反応したと示せているだろうか。


それで、彼方側が、俺の尻尾を掴んだと捉えてくれるのなら、一応は此方の思惑通りということになる。

少なくとも、応じた格好には、なっているはずだ。

きっと神々は、俺を丸裸にしようと、今度こそ傾れ込んでくる。

備えなくては。


“ふぅー…”


しかし幾ら気を引き締めても、俺がやっていることは、身を狼に窶して、願ってもない幸せを享受しているばかり。


吐いた息も、もう視界に立ち込めなくなった。

淀んだ曇り空が山嶺から滑り込んできたのを目の端では捉えていたものの、やはりこの温みは此奴らの相手をさせられ火照ったというだけではなさそうだ。


“ん…”


耳の縁を、ツ、ツと雫が撫でる。そうでなくとも、分厚い毛皮の上からでも、その感覚の変化を見逃すことは無かっただろう。


“…降ってきやがった。”


遂に、雪は堪えきれずにその形を失ってしまった。

あとは、どうにか景色を保ってくれていた縄張りの足元を汚すだけ。


しかし、悪いことだらけでは無い。

これでようやく、あいつが撒き散らしたSirikiの臭いも消えてなくなる。

辺りには地中に眠った土の臭いが立ち込めるだろう。皆はきっと、そいつを喜び勇んで毛皮に擦り付けるのに夢中となるはずだ。


それでも俺は、こいつらの毛皮を舌で繕うふりをして、人間の痕跡を丹念に舐め取らずにはいられなかった。


“おい、お前たち。もうお家に帰る時間だ。”


五匹、ちゃんといるよな。

一瞬目を逸らしただけで、あらぬ方向へと探検に向かうものだから、毎回気が気でない。

Lukaを労う体で、たまには洞穴で仔狼のことも気にせずゆっくり休んだらどうだと諭した結果として、彼らのお守りを一手に引き受けていた訳だが、自分一匹で担ってみて初めて、彼女の音を上げぬ忍耐強さに感服させられている。


母親の代わりを買って出る、か。

彼女も、番を求めたがる歳なのか。母性とか、本能的なものだったのかさえも分からない。


ただ、俺のように、捨てられた、いや、追放された身からすれば、そのような愛情を差し向けてくれる相手が、どれほどありがたくて、自分の生きる指針として縋り続けたい枷であるかは言葉では言い尽くせない。


でも俺はこいつらの父親の代わりを担おうなどとは、少しも思えなかった。

生半可な気持ちでするもでは無いとか、そういった覚悟の話ではなく。

俺が最期には、必ずこいつらを裏切ると、初めからわかっているからだ。

結末が初めからわかっている物語の役を俺だけが演じるのは、あまりにもこいつらにとって残酷だ。

この仔らは、何も知らないのだ。


この俺がそう思うのだ。そうであれば、何も知らなくて良いと思うのなら、手を差し伸べる行為は優しさではなく、俺は関わるべきでは無い。


それは、群れにも、そして彼女にも言えることだ。


できる限り、恩返しを尽くしてやりたいとは思っている。けれども、絶対に一線は超えてはならない。

その線とは、知ることだ。俺から狼以外の何かを垣間見ることだ。

そうなってしまったなら、俺は最終的に彼らとの別離を最悪の形で迎えることになるだろう。


“……。”


もう、あいつは戻れない。

俺は、Vojaを既に、こちら側の道へと迎え入れてしまった。

あいつだけが、知っている。俺の正体を、この群れの中で唯一正しく理解してしまった。

一緒に水底を目指す彼へ、どれだけの幸せを願っても、それは茨の道だ。



“えー?おうちい?”


“ぱぱは先に、帰っちゃうのー?”


誰がパパだ。何度そう唸って鼻面に皺を寄せても、こいつらは序列というものをまるで知らない。

そういったものを教えるのは、兄弟の仕事だ。この群れは歪な生き残りの寄せ集めだから、それに当たる若狼が良いが、少なくともそれは、俺では無い。


“お前たちも、戻るんだ。腹が減っただろう。”


“大丈夫だよ!まだお腹空いてない。”


“それよりもパパ、僕、あっちの方に行ってみたい!”


最終的には、俺が首根っこを咥えて、全員連れ戻せば良い…という簡単な話でもない。

一匹だけを相手取るのは容易いが、残りの仔らが統率を乱す意思も伴わず散り散りに駆けるのを制御するのは至難の業である。


なんといじらしい。彼らはこうして、集団での活動によって獲物を翻弄することを覚えるのだ。


“おいっ、ダメだ。そっちの方は…”


俺はわざわざ腰を上げ、先頭を立って冒険に出ようと短い尻尾を翻す仔狼の前に立ち塞がる。

どうしてどの家庭も、兄弟のうちの一匹は、いつも両親を困らせるほどに勇ましいのだろうな。


“聞いているのか、おい…!”


恐れを知らぬのは、大変宜しいことだ。俺がお前ぐらいの歳で、大狼に対峙した時に振りかかった恐怖は、並大抵のものでは無かったぞ。


しかし、知らんぷりだ。いや、それとも視界には4本の毛長な大樹が立ち並んでいるだけか?

するするっとその隙間を抜け、魅惑的に揺らぐ尻尾へ体当たりすると、お目当ての窪み目掛けて走り出す。


ざくっ、ざくっ…


“ハッハッハッ…きゅーぅぅ…”


小さな前足では無理だろうと踏んでいたが、意図も容易く掘り起こしてしまいそうなので、仕方なく邪魔をしてやる。

首根っこを加えるのではなく、鼻先でちょいと転がして、腹を晒させるだけだ。


“良く鼻が効くな。やっぱり腹が減っていたのか?”


“えへへ…”


雪下に埋めていた非常食の居場所を嗅ぎ当て、掘り起こそうとしたのだ。

雪嵩もだいぶ減らされていたから、殆ど地表に出かけていた。

こうしてお前も春を見つけるのか。

未だ出会ったことの無い季節を。


“こいつはお前たちが食べるにはちと早すぎる。腹を下して苦しむのは目に見えているぞ。”


“でも、良い臭いするよ?”


“そうだな。もう少し大人になったら、鱈腹喰わせてやるとも。”


“もう少しって、明日?”


“ああ…俺が覚えていたらな…”


頭が回らない。仔狼を相手に、気の利いた返事をしてやろうと考えること自体が間違いなのかも知れないが。


“だから帰るぞ。ほら見ろ、もう降り始めている。”


“降るって、何がー?”


“霙だ。と言っても、お前たちには、初めてかもな。雪も碌に知るまい…”


“じゃあ一緒に待とうよ。パパ。見てみたい。”


“頼む…お前たち全員の毛皮を濡らして帰れば、叱られるのは俺だ。”


“それって怖いの?”


“うむ、お前たちの母親より、おっかないな。”


“ママは怖くないけど?”


“…お前たちの言うとおりだ。良い仔にしている限りはな。”


“僕たち、良い仔だよ?”


耳の垂れた末仔が、首を可愛らしく傾げて足元に擦り寄る。


“ああ、だから大丈夫だ!”


自然と、語気が強まった。

そうだとも。良い仔であるお前たちが、なぜ、両親に見捨てられたことを悲しむ必要がある。


なぜ俺が、こんなことをしなくちゃならないという苛立ちと、この仔らの両親へ向けられた憤り、その結果として帰ってくる自責の念が混ざり合って、俺は耐えきれず吠え声を上げた。


“アオォォーウ!!おいっ、来てくれっ!聞こえているだろっ!?”


くそっ、Lukaのやつ、拗ねやがって…

俺が彼女の構う暇さえ無かったふりをしていたのが、裏目に出てしまったか。

しかし、迎えに来てくれても良いだろうが。

いっそのこと、他の狼でも構わないのに。なぜ俺はあんなにも意固地になって皆を寄せ付けぬような愚行走った。それもこれも、自らが蒔いた種であるというのが、心底腹立たしい。


“あうぅーっ!わぅっ!わぅっ!”


仔狼たちは、楽しそうに俺の合唱に付き合ってくれるが、それも母親の心に響くことはない。


だが、考えてみれば、元より酷く機嫌を損ねていた。

直近の行いについて反省しても仕方がないのだ。


垂れた萎れた尾でも、魅惑的に揺らせば着いてきてくれるのが、せめてもの救いだった。





“ん…Fenrir、さん?”


“毛繕い、手伝ってくれるか。”


本当に、眠っていたのか?それとも、狸寝入りを決め込んで俺を困らせたかっただけか。


“ずぶ濡れになる前で良かった…暫く此処にいさせてくれるか。”


“ええ…もちろん。そのための寝床(Den)じゃない。”


俺はもう一度全員を導き迎え入れていることを確かめると、身体をだらしなく震わせて、自らも身を屈めて洞穴へ滑り込んだ。

もっと広い天井が欲しいな。これは俺の家じゃ無いが。


“L、Luka…!俺じゃ無い!毛繕いしてくれと言ったのは、この仔たちのだ!”


“でも、貴方も濡れてるわ。もしかして、この仔たちと一緒に泥遊びでもしてたの?”


“するわけが無いだろう。心当たりがあるとすれば…そうだな、泥だらけの足で登山を試みられたことぐらいか…”


“ふふっ、分かるわ。登りたくなっちゃうのよね…耳の間に一番最初に辿り着くのがすごいと思ってた。”


“でもどうです?頭の上に乗っかられると、それはそれで、なんだか気分が良いと言うか。そのまま、その仔を乗せて、高い景色を見せて冒険させてあげたいなって、なりませんか。”


“…全く、共感できないな。地に足をつけて、狼は世界を踏破できる生き物だ。”


“そんなこと言って、強請られたら、満更でもない顔で駆け回るんですよ、私わかりますもん。Fenrirさんはそういう所あるって。”


“…本当にやめてくれ。”


首の後ろの周りに、不快な感覚が走った。

何故、そんなことを。


“此奴らが本気にしたら、どうしてくれる…”


“はいはい、わかりましたから、動かないでくださいね。”


彼女の舌が、首元の毛皮に触れた時、びくりと身体を震わせてしまったせいで、俺は群がる仔狼たちを驚かせてしまった。


“おい…外はまた今度だ。これ以上濡れたら、本当に風邪ひくぞ。”


本格的に降り出した。

まだ雨垂れの音さえ鳴らさなかったものの、これは地面も溶けて歪に固められてしまいそうだ。歩くのも難儀しそうで、不愉快この上ない。


“全く、油断ならない…”


じんわりと流れ込む冷気に、いよいよ春の訪れを感じさせる。


“…?”


“あ、こんにち、は…?”


傾斜を駆け上がろうとして、ぴたりと立ち止まった仔狼を捕まえようと口を開いて、入口を何者かの脚が並んでいたのに気がついた。


白昼の暗雲に照らされ、逆光ではあったが、後脚の並びで、すぐにわかった。

そして、そのときに嗅いだ、湿った鉄の匂いを、俺は忘れない。


“Voja…!”




“戻っていたのか…”


“すまない、こいつらで手一杯で、気が付かなかった。”


“しかし一吠えかけてくれても、良かったのだぞ。”


“ああ、そう思って立ち寄った。”



“どうだった?俺が言った言葉は、本当だったろう?あいつは死んでいない。”


“俺も様子が気になる。後で、じっくり話を聞かせてくれ。”



“ククッ…”


“…?”


一瞬だけ、空気が冬の陰気を取り戻す。


不気味に歪んだ口元だけが覗く。


“俺を赴かせたのは、失敗だったようだな。”


“何…?”




“Sirikiの居場所も分かった。”


…!?


“あいつも、ヴェリフェラートにいる。”




“早めに動いた方が身の為だとだけ、警告してやろう。”








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