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「全く、ヒヤヒヤさせるんじゃないよ!人買いって言っても商人だろう?時間くらい守ったらどうなんだい」
「そうは言ってもだな、エイダ。ここ最近どうにも霧が酷くてなぁ。予定通りとは中々行かないんだよ」
「今日だってこんな時間になっちまった」と人買いの男はぶつくさとごちた。その手には鉄で出来た手枷が握られていて、「で、商品は?」と尋ねる。
エイダがそれに「こいつだよ」と顎をしゃくると、屈強な身体をした次男が麻袋に入れられた人間を肩に背負って運んできた。
麻の袋を引き下げると、人買いは「おお」と目を見開く。淡い色の髪、それにこの顔立ちは、一時期王都を騒がせ、人相描きまで添えられて新聞に載せられたレイスト公爵家の娘を思い出させた。かつて王太子の婚約者サマだった娘。
そうだ。そういえば、たしかあのお嬢様は貴族だから、平民である処刑人が殺せない代わりに最果ての森に捨てられたんだったか。
「……ほぉ。で、この娘の身元は」
「さあ?でも多分貴族だよ。元着てた服も、ボロボロだったけど上等なもののはずさ。ドレスかもね」
「なるほど?けど、それだけじゃあなぁ。貴族だって証明とか、保証とかあるのかい」
「そんなんこいつに聞きゃあ良いだろう。何回か殴ればすぐだよ。でも貴族だ、絶対に貴族だよ。アタシが保証する」
「あーーーー。まぁ、確かにエイダばあさんは得意先でもあるが、かといってはいそうですかと頷くわけにゃあいかないなぁ。何せ、貴族の娘とただの平民じゃ価値が違う」
「疑り深い男だねえ。おい、トータ」
やれやれとでも言いたげな声でエイダが呼ぶ。「しゃーねえなぁ」と仕方なさそうな男の声が近付いてきて、身構えるより先に、エヴァのみぞおちがグッ!と蹴り付けられた。
「んん"ー!!!」
「ばか!あんまり強く傷付けるんじゃないよ、売値が下がる!」
「ごめんお袋」
「まぁ良い……。この程度なら数日経ちゃあ治る。そうだね、人買い!」
「ま、商品によるね」
「いいさ。おいお嬢ちゃん。エヴァ、って言ったね。アンタ貴族だろ?」
「ん"んっ、」
エヴァが唸ると、ナイフが向けられて縛られていた口元の布が切り離される。息が十分出来るようになって、お腹の痛みに耐えるようにハッハッと短く息を整えるエヴァを、エイダは髪を掴んで頭を持ち上げた。
「っいや…!!」
「質問に答えな。こっちは食事と服までやったんだ。恩義に報いるくらいのことはするんだよ」
「っそれは、」
ちらりと視線を横に向ける。辺りがオレンジ色になっているから分かる通り、既に太陽は傾いていた。それどころか、もうすぐ日が暮れる。太陽がどんどんと沈んでいく。
もうすぐ、クロが来る。
「っきゃあ!」
「余所見すんじゃないよ!さっさと答えるんだね!?お前の名前は!?貴族なんだろう!?」
グンと引っ張られた髪が痛い。大丈夫。もうすぐクロが来る。
知られても、大丈夫。
エヴァは恐怖で唇や声を震わせながら、やがて小さな声で、「エヴァ……」と口を動かした。
「エヴァ、エヴァ……、レイスト……」
「っやった、そうだ思った通りだ!人買い、言った通り貴族の娘だよ!」
「苗字がある!」と、エイダは興奮に鼻息を荒くして人買いに詰め寄った。持ち上げられていた髪が離されて、エヴァはがくんと崩れ落ちる。人買いは降参するように両手を上げながら、「わかったわかった」と頷いた。
「金貨を出してやろう。それで良いな?」
「金貨!ああ、もちろんさ!この娘は引き取ってくれて結構!さ、早く金を渡しな!金貨だよ!!」
「わかった、わかった。そう慌てるな」
エヴァの手に、鉄の冷たい枷がかけられる。
馬車にそのまま放り込まれて、「大人しくしてろよ」と言葉を投げられる。エイダとトータは、そんな人買いから一枚の金貨を渡されて、飛び跳ねる勢いで喜んでいた。
「ほら、これで良いだろう?本物の金貨だ、確認してくれ」
「ああ、ああ!っなぁトータ!これでアタシら自由だよ!!お前の兄さんにも、妹にも伝えてやらなきゃ!!」
「………あ、ああ、お袋、お袋すげえよ!俺このまま役所に行って金出してくる!!」
────夜が、来た。
ああ、とエヴァは息を吐いた。日が完全に落ちて、辺りが暗い色になった。やっと、と思った。やっと、夜が来てくれた。
いい商売をさせてくれたから、と人買いがランプをトータに手渡す。遠くで微かに悲鳴が聞こえたような気がしたけれど、人買い達は気付いていなかった。本当に遠くの微かな声だったし、エヴァみたいにジッとして耳を傾けているわけではなかったからだろう。親子は何も気が付かないまま、ああ、ああ、と感極まった様子で、それで。
「おふく、」
トータと呼ばれた男の胸を、見慣れた黒い触手が貫いた。
「…………へ?」
次に、ぽかん、と口を開けて、間抜けな顔をしたエイダの首がトンと軽快な様子で飛ばされた。人買いは、「なんっ、」と声を上げる途中で地面に倒れた。あっという間だった。
さっきまでエヴァに値段をつけて、金銭のやり取りをしていた人間は、ほんの十数えるまでもなく物言わぬ屍へと変わった。
本来とても恐ろしいはずの光景は、けれどエヴァの心を喜ばせて、エヴァに心底の安心をくれた。
エヴァは両手を戒められたまま、崩れ落ちるように馬車を飛び降りると、「クロ!!」と心底ほっとしたような、嬉しい声を上げる。ぴちゃん、と血の池が跳ねた。新しい服が汚れたけれど気にならなかった。クロに駆け寄る。「クロ、クロ」と抱き締められない代わりに額を擦りつけるようにすれば、クロは「ゔ、ぁあ」と唸って、触手を伸ばしてエヴァをそっと抱きしめてくれた。
「よかった、よかったぁ……」
この村を馬車が出てしまう前でよかった。生きていてよかった。クロとまた、会えてよかった。
「来てくれて、ありがとう」とエヴァがポロポロと涙を流せば、クロはそれを拭うように、エヴァが朝にしたのを真似するみたいに、エヴァの頬にそっと裂けた口元を押し当てた。