千夏
辺境の村にて、千夏は生を受ける。
2歳で母の声を覚えた。父の声は少し遅くに覚えた。
5歳で自分の家を知った。周りと比べて少しボロい。
9歳で友達ができた。相手は凄い家の生まれらしい。
16歳の時、世界は変わった。
黒髪の華奢な、学生服を着た女の名は、千夏という。学校が終わり、千夏は、寄り道もせずに家へと歩いていた。この村に雪が降るのは珍しい。今日は長靴を履いた。今日のために、わざわざ母が買ってくれたものだ。
「それにしてもすごい量の雪だ…」
長靴がすっぽりと埋もれてしまうほどの積雪。16の千夏には、それは、強すぎる誘惑だった。
学生鞄を雪に投げ、手袋の中に雪を少し詰めた。そして、その中へ手を突っ込んだ。
冷たい。手袋を付けているのに冷たい。不思議で、新鮮な感覚だ。
「わはっ…!凄い。澪ちゃんも呼べばよかったな」
寒さに身体が震えた。白い息を目で追った。鼻水が固まっている。それすら、楽しかった。
「そうだ。帰って雪だるまを作ろう。大っきくて、えっと…まぁいいや、すごくおっきいのを作ろう…!」
学生鞄を背負い、足を取られないように慎重に、だが迅速に家へと向かった。
家が見えてきた。屋根が潰れるほどに雪が積もっている。千夏の家はこの村でも端っこにあり、周りに他の家はなかった。
ぐぢぁやが。なにか、肉を食っているような音が、凍える空気と共に千夏に届いた。この近くには熊が出るという。もしかしたら、近くにいるのかもしれない。
千夏は身を屈め、足早に家に向かった。玄関に手をかけた。何かの気配を感じ、チラリと横を見た。
「…は」
針葉樹を背に、血肉が倒れている。全身から血を流し、肉塊としか言えない形状。あれは、人間だ。
その横には人がいた。低姿勢に、四足歩行に、正気を失った瞳で、血肉を貪っていた。手も使わず、顎の力で肉を抉り、咀嚼し、食った。
(なに…あれ…)
足がすくんだ。身体の震えは寒さのはずだ。無意識に、一歩後退り、不幸にも、千夏は雪に足を取られ、盛大に転倒した。
「いった…い!」
千夏は咄嗟に口を塞いだ。あの奇怪な存在に気付かれていないか、目を向けた。
生々しい音が消えていた。アレは、開いた瞳孔で千夏を見ていた。歯に挟まる血肉が垂れた。喉を鳴らし、獣のような表情が、千夏を睨む。
そして、あの存在に千夏は覚えがあった。栗色のロングヘア。か細く線の薄い身体だが、あの人の包容は暖かい。目の下の火傷痕は、千夏が鍋をひっくり返したからできたモノだ。あの時も、私を責めずに慰めてくれた。
「ぁ…いや、違っ」
千夏の知るあの人は、四足歩行ではない。人を食うはずがない。私を見て、あんな怖い顔をするはずがない。
千夏に嫌な予感が走る。近くの血肉。アレは人の形をしている。なら、アレは誰だ。
想像がついてしまい、胃の中身が外へ出た。昼に食べた魚が、胃酸で溶け、独特な色味になり、雪を染めた。
「にげ…逃げな…ぁ…」
幸運なことに、アレは千夏よりも目の前の血肉を選んだ。胸部を開き、内臓を咀嚼する。顔が血に塗れてもお構いなしだった。
千夏は震える足で立ち上がった。身体の震えは寒さのせいだ。そう、何度も、ずっと言い聞かせた。
「たす…助け、た……道地さん、道地さんだ。警察…警察だ、あの人…大丈夫、大丈夫…!」
もがき、走った。村の中心には道地さんがいる。警察で、強くて頼り甲斐のある、あの人が。
息が上がってきた。防寒具が不要なほどに、身体中が熱い。それももう終わる。辿り着けば、あの人がいる。みんなを守ってくれる。
「……なんで」
村全体が見える場所で、村を見下ろした。
民家は燃え、悲鳴が絶え間なく響く。見える範囲でも、人が数人も死んでいる。そして、その上には、人が乗っていて、死体を食っている。食われている中には、道地さんもいた。
「なんで…な、なんでだよ……」
足が崩れた。状況は飲み込めないはずなのに、死は理解できた。村は壊滅。正気を失った村人が、村人を襲っている。そして、襲われた村人は這い上がり、正気を失う。
涙で前が見えづらい。冷気が喉を焼いている。もう終わりなんだ。
「…村。村の外…そうだ、村の外は…」
希望を抱いて、千夏は村から離れた。村から音が聞こえなくなったはずなのに、悲鳴と、肉を貪る音が延々と耳から離れない。
「澪…もいる。そうだよ、私は行かなきゃ…」
千夏は走った。無我夢中に、この現状を変えるために走った。
だが、無意味だとすぐにわかった。自分の村以外も、あの存在達に破壊されていた。澪の家から煙が上がっている。敷地には使用人が数人倒れていた。
「だめなの…もう、ダメなの…?」
いつのまにか足は裂傷を起こしていた。血が溢れているが、寒さで痛みを感じない。
その時、近くで女の悲鳴が聞こえた。聞き覚えのあるか細い声。
「澪っ…!」
千夏は走った。声はすぐ近くだったはずだ。この角を曲がれば、澪がいるはずだ。
千夏が見たのは、澪だったモノだった。複数の人間が、四つん這いに、ギラついた瞳で澪を貪っていた。たった数十秒で、澪は絶命し、その身体の半分を食われていた。
「ぁ……ぁあ…」
すり足で後退した。絶望の最中でも、本能は生きていた。静かに、音を立てず、アレに気付かれずに逃げる。千夏の意識とは別に、本能が千夏を生かそうと必死だった。
ギュルンと、澪を食っていた奴らが千夏を見た。その刹那、駆け出した。
「なっあ…!まだぅ!!」
千夏は焦り、背中を向けて必死に走った。運動は得意な方だ。とはいえ、足からは血が流れ、雪が足取りを重くする。
美鈴。雄太。涼介。寧々。学校の友達との思い出が、一瞬、頭をよぎる。
「なんなんだよぉ…!なんでぇ…ぁあ!もう…!」
必死に、必死に。命懸けに走り続けた。後ろからは複数の足音。四足の何かが追いかけて来ている音。
「どこか…!なんかないのかよっ…!!」
周囲を見回し、どこか避難する場所を探した。そして、目に入ったのは扉が開いた一軒家。千夏は咄嗟に家に入り、扉を閉めた。鍵を閉めてチェーンをかける。
安心して、ぺたりと尻餅をついて扉を眺めた。唸る声。扉の奥からはカリカリと扉を掻く音がしている。
歯が震える。足が痛みを感じ始めた。一時の休息に、安堵してしまった。
「っ…安心してんなよ…私」
扉とは別方向に、ヅゥ…と、何かを引きずる音が聞こえた。千夏は振り返った。
口に、齢10ほどの少女を咥えた、その少女の母と思しき存在が、虚ろな瞳で千夏を見つめていた。
「まっ…」
突進。少女を離し、唸った女が千夏へと走り出した。咄嗟に立ち上がり、滑り込むように横へ飛んで回避した。そのまま階段を駆け上がり、突き当たりの部屋に入った。
「鍵っ…!」
ガチャガチャと震えた手で鍵を閉めた。振り返った。落ち着く間もなく、目の前には新たな敵がいた。痩せこけた中年の男。下にいたやつと同じく、正気を失っていた。
「があ…ぁ!」
「あえぇ!?」
男の飛びつきを、しゃがむことで回避し、前転で男の背後を取った。立ち上がり、近くに立て掛けられていたバットを手に取った。木製のバット。
「ごめんっ…!」
振り返りざまに、男の頭部を打った。間髪入れず、再度振り下ろす。三度、四度、五度。骨を砕き、肉が潰れ、血が弾け飛ぶ。
バット越しに伝わる骨の硬さ、肉の反発。手から、腕から、全身にかけて、今自分がやっていることを自覚させられる。
ピタッと手が止まる。目の前の存在は頭部を潰され、力無く地に伏せていた。死に姿は人間と変わらない。
千夏は息が上がっていた。人を殴るのは初めてだ。それも、バットで殴った。
焦っていたとはいえ、やりすぎた。いや、死ぬかもしれなかったのだ。これは仕方のないことなはずだ。
「なんだよ……思ったより弱いじゃんか…」
バット一本で倒せた。倒せてしまった。小柄な自分でも、奴らを倒せた。
「…澪も…死ななくて済んだじゃん」
バットを握りしめた。男の死体を避け、外に出た。一階にはまだあの女がいるだろう。アレも、倒すべきだ。
それは廊下にいた。少女を食っていた。千夏はこれからも、奴らを、人を殺すだろう。だから、ここで躊躇っていても意味がない。先に進めない。
千夏は音を立てず近寄り、その頭蓋を砕いた。二度三度と振り下ろし、再起不能にまで破壊した。
「この先どうしよ…」
運良く、この家の中にいるのは千夏だけだ。戸締りもしっかりしていて、窓が破られている形跡はない。食料の備蓄もあるはずだ。水道があるなら水も出るかもしれない。
アドレナリンのせいか、まだ足は痛くない。だがすぐに痛くなるだろう。そうだ、少しここに住もう。最低でも足の怪我が治るまでは、この安全な家で暮らそう。
二階に上がった。千夏は、窓からこの街を眺めた。そして、その有り様を目に焼き付ける。玄関付近の奴らは、千夏に興味を無くしどこかへと歩いている。道路には人が倒れ、奴らに食われていた。遠くには火事により立ち上る煙が複数あった。混乱に対応できず、全ての生物は奴らに蹂躙されていた。この街は、既に崩壊していた。
「…みんな」
生きている人は、あとどのくらいいるのだろうか。数人?数十人?それとももっとか。
日本はこの脅威に太刀打ちできているのだろうか。まず、この現状を知っているのだろうか。
私は、この世界で生きていけるのだろうか。
この世界を、変えることができるのだろうか。
「最終目的地は都会。行ったことはないけど…誰かいるかもしれない。そこでなら、水とか食料も…」
母も、父も。皆死んだ。そして、あの存在へと成り変わった。それは、人を襲い、さらなる災害となる。
あれはなんなのか、なぜあんな姿になってしまうのか、私は解明しなくてはならない。
それが、私の希望。
「蹲ってても意味ないよね。ずっと動き続けないと…」
DAY 1




