80.天使の呼び出し
―― 地上 本部教会 ――
~ ロフィ視点 ~
中級聖職者の紋章が縫い込まれた黒衣にも、ようやく違和感がなくなってきた頃だった。俺は教会の中枢区画、白亜の回廊を歩いていた。壁には歴代の聖人の肖像、天井には金糸で編まれた神話の図。香の煙がゆらぎ、静寂が支配している。その静寂を破ったのは、直属の上司であるドルト司祭の低い声だった。
「ロフィ。天使様がお前をお呼びだ」
俺は一瞬だけ歩みを止めたが、すぐに平静を装った。
「……私を、ですか?」
「ああ」
ドルトは教会の最高位である“天使様”の側近の一人だ。理知的で無駄がなく、感情をあまり表に出さない男。俺が今ここにいるのも、彼の下で働いているからだ。しかし、天使様が、俺を?
心当たりを高速で洗い出す。異端審問の手続きは完全に法に則った。会計監査の報告も抜かりはない。
枢機卿派閥の不正を告発した件も、証拠は完璧だった。違法行為はしていない。教義違反もない。命令違反もない。……少なくとも、表面上は。そこへ、廊下の角から足音が近づいた。
「ロフィ!」
振り返ると、部下のリーナが血相を変えていた。
「聞いたわよ。天使様に呼ばれたんですって?」
「ええ」
「何かやらかしたの!? あなた、また上官を論破したでしょう?」
「合法的に是正しただけです」
「それが怖いのよ!」
彼女は私の肩を掴む。
「正直に言いなさい。本当に心当たりないの?」
「ありません」
即答だった。嘘ではない。少なくとも、規則の範囲内では。リーナは不安げにドルトを見る。
「司祭様、内容は?」
「知らん。天使様は“二人で来い”とだけ」
ドルトの声音にも僅かな緊張が混じっている。それだけで事の重大さがわかる。教会の頂点に立つ存在で神の代弁者。この世界で最も神に近い存在である天使。俺は胸の奥に小さな熱を感じていた。
天使様の部屋に向かいながら冷静に心掛ける。恐怖ではなく興奮でもない。人生の目的達成の機会かもしれない。白い大理石の階段を上り、最上階へ向かう。足音がやけに響く。巨大な扉の前で、ドルトが止まった。
「ここから先は言葉に気をつけろ」
「心得ております」
「ドルトでございます。ロフィをお連れしました」
少しの静寂の後やがて、内側から柔らかな声。
「入りなさい」
部屋は想像より質素だった。白を基調とした空間。中央には長机。奥の窓からは聖都の全景が見渡せる。そしてそこに座していた。金の髪が光を受けて輝いている。背に薄く浮かぶ光輪。人の姿をしているが、人ではないと直感できる存在感。俺は膝をつき、頭を垂れた。
「ロフィ、中級聖職者。お呼びにより参上いたしました」
「顔を上げなさい」
声は穏やかだ。だが、底が見えない。俺は視線を上げる。目が合った瞬間、背筋に冷たいものが走る。 表情、鼓動、思考、その全てを見透かされているような感覚におちいる。
「ドルト」
「は」
「あなたは下がりなさい」
部屋の空気がわずかに揺れた。ドルトは一瞬、俺を見る。その視線には、警戒と、わずかな同情があった。
「……承知いたしました」
彼は一礼し、部屋を出る。扉が閉まる音が、やけに重く響いた。俺は天使様と二人きりになった。外の音すら遠い。天使様はゆっくりと立ち上がり、右手を軽く掲げた。
空間に淡い光の紋様が浮かぶ。幾何学的な魔法陣。幾重にも重なる詠唱式。高度な防音結界。第6階級の魔術で人間の一人では使えない魔術だ。光の線が部屋の壁をなぞり、天井を包み、床へ沈む。音が消えて外界との接続が、断たれた。自分の鼓動だけがやけに鮮明に聞こえる。
「これで、誰にも聞こえません」
天使様は穏やかに微笑む。だが、その瞳は鋭い。これは叱責ではない。単なる人事の話でもない。俺は、階段の一段上に立ったのかもしれない。
「ロフィ」
「はい」
「あなたは、優秀です」
「法を守り、教義を理解し、腐敗を排除してきた」
評価だ。だが、賞賛ではない。
「しかし、あなたは、何を求めているのですか?」
一瞬、思考が停止した。しかし俺はは表情を崩さない。
「神の御心を、この身で体現することです」
模範解答。だが天使様は微笑を深める。
「それだけですか?」
空気が重くなる。防音結界の中で、逃げ場はない。俺は自分の心の奥を探る。まだ、言えない。まだ、知られてはならない。しかし、この存在は、どこまで見えている?鼓動が一つ、大きく鳴る。俺は静かに息を吸った。




