74.幻覚魔術 (イラストなし)
―― 地上 大貴族邸 ――
~ ロフィ視点 ~
重厚な扉が開き、俺とリーナは応接の間へ通された。前回と同じ部屋、同じ調度品。だが空気はまるで違う。こちらが「試される側」から「選別する側」へ移ったからだ。大貴族は席に着いたまま、ゆっくりと俺を見上げた。
「再訪を歓迎しよう、ロフィ殿」
「こちらこそ、お時間をいただき感謝します」
互いに形式的な挨拶を交わす。礼儀とは信頼のためではない。疑念を覆い隠すための布だ。着席を促され、俺は腰を下ろす。背後で、リーナが小さく息を呑む音がした。分かりやすい。彼女はこの場にある“死の近さ”を正確に感じ取っている。
「さて、先日、君から預かった“教会の権限”。私は試させてもらった」
俺は黙って頷く。結果は分かりきっている。
「徴税免除命令は即日通り、地方裁判への介入も問題なく行えた。教会の人員の動員要請も……承認された。つまり、あれは本物だ」
「ええ」
「そこで、だ」
大貴族は身を乗り出した。
「君の“上司”とは誰だ? 教会の誰が、私の悪事を欲している?」
背後で、リーナの震えが伝わってきた。当然だ。この質問の答えは、この場の重さを一段階引き上げる。
俺は演出で一拍置いた。言葉よりも雄弁な時がある。
「教会のトップである天使様。その側近のドルト様です」
大貴族の呼吸が止まり、空気が凍った。
「……ドルト、だと?」
声が掠れている。無理もない。この世界において“天使様”とは、神の代理人に等しい存在だ。教会の象徴であり、絶対権威。その側近からの誘いだ。
「そのドルト様が、あなたに興味を示しています」
背後で、リーナが小さく息を吸い、吐いた。震えが止まらない。それでも逃げない。そこは評価している。大貴族は沈黙したまま、俺を凝視している。疑念、恐怖、理解。それらが高速で入れ替わるのが分かった。
「……なるほど。だから、あの権限か。天使様の側近なら、説明がつく」
納得した。人は“理解できる恐怖”を選ぶ。
「だが、信じ切るには一つ足りない。保証だ。互いに裏切らぬという、絶対の保証」
俺は待っていた言葉を聞いて頷く。
「契約魔術、ですね」
「ああ」
大貴族は立ち上がり、侍従に合図した。運ばれてきたのは、一枚の紙。羊皮紙ではない。魔術契約専用の特殊紙だ。淡く赤黒い文様が織り込まれている。触れただけで、微かな脈動を感じる。
「契約内容を書き、血を垂らす。違反すれば、血を捧げた者は即死。逃げ道はない」
「承知しています」
俺は紙を受け取った。契約内容は単純だ。互いに情報を偽らず、意図的な裏切りを行わない。教会と大貴族、双方の利益を損なう行為を禁ずる。そして、もう一つ。
「……ドルトの血も必要だが?」
「すでにあります」
俺は小瓶を取り出した。中には、確かに血が入っている。リーナが息を呑んだ。説明はしていない。する必要もない。大貴族は目を見開き、やがて深く息を吐いた。
「……狂っているな、君は」
「よく言われます」
俺は契約文を書き終え、紙の中央に置いた。まずは大貴族が指を切り、血を垂らす。紙が赤く脈打つ。
次に、俺の血を垂らす。血が落ちた瞬間、紙が淡く光った。魔術が成立し始めている。
「……彼女も?」
リーナは自分の指を切りながら契約書に近づく。大貴族が視線を向ける。俺は振り返らなかった。
「彼女は私の同行者です。契約に含まれます」
リーナは震える手で前に出た。顔色は悪い。それでも、逃げない。
「……死んだら、恨むからね」
「生きれば問題ない」
彼女は小さく笑い、血を垂らした。最後に、小瓶の血であるドルトの血を紙へ垂らす。その瞬間、紙が強く光り、空気が震えた。契約は成立した。
やがて、大貴族が静かに言った。
「……これで、後戻りはできんな」
「ええ」
裏切れない関係ほど、分かりやすいものはない。俺は立ち上がり、軽く一礼した。
「では、良き協力関係を」
館を出るまで、誰も言葉を発しなかった。だが、確実に世界は一歩、歪んだ。屋敷の門が背後で閉じた瞬間、静寂が破れた。
「――――ロフィ!!」
予想通りの反応だ。俺は足を止めず、石畳を歩き続ける。
「ちょっと! 止まりなさいよ!!」
腕を掴まれ、強制的に止められる。振り返ると、リーナは顔を真っ赤にしていた。怒りと恐怖と混乱が、きれいに混ざった表情だ。
「何を、考えてるの……!」
「計画を実行しただけだが」
「それが問題なの!!」
彼女は息を荒くしながら、指を突きつけてくる。
「勝手にドルト様の名前を使った!しかも、勝手にドルト様の血で契約魔術!?あの人、天使様の側近よ!? 名前を出すだけで命が飛ぶレベルの人よ!? それを、あんな大貴族相手に!事実なら即処刑案件よ!? 私も巻き添えなんだけど!?」
「落ち着け、リーナ」
「落ち着けるわけないでしょ!!」
俺は小さく息を吐いた。この反応も想定内だ。
「……今の契約魔術だが」
言葉を選ぶ必要はない。真実を言えばいい。
「実際には、行っていない」
リーナの動きが止まった。
「……は?」
「契約魔術は成立していない」
「……じゃあ、あの光は? 紙が脈打って……血が……」
「幻覚魔術だ」
数秒の沈黙。それから、彼女の顔が引きつった。
「……げ、ん……かく……?」
「正確には、視覚・聴覚・魔力感知を同時に欺く複合幻覚だ」
「……あ、あんた……」
「大貴族と君は、契約魔術を行ったという幻を見ていた」
「……私も?」
「当然だ。君が違和感を覚えれば破綻する」
リーナは頭を押さえ、その場にしゃがみ込んだ。
「……意味が分からない……あれ、完全に本物だった……」
「そうでなければ失敗だ」
幻覚魔術は第2階魔術にあたるが、非常に使い勝手が悪い。誰も使わない理由がある。
「幻覚魔術は、相手の行動や言動を先読みしなければ成立しない」
俺は淡々と説明する。
「視線の動き、呼吸の間、思考の癖、言葉を発するまでの沈黙。そのすべてを予測し、相手の脳内で自然に補完される映像を流し続ける必要がある」
リーナは震えながら聞いている。
「少しでもズレれば、違和感が生まれて幻覚魔術が解除される。解除されなくても、少しでも違和感が生まれれば、人は確認する。確認された瞬間、すべてバレる。しかも、幻は長く保てない。せいぜい数分」
「…………数分しか……」
「そうだ」
幻覚は長く保てない。魔力的にも、情報量的にも限界がある。
「だから誰も使わない。使い所が存在しない魔術だからだ」
「……じゃあ、なんで……」
「使い所を作った」
俺は歩き出し、彼女も立ち上がってついてくる。
「大貴族は“契約を望んでいた”。君は“恐怖しつつも、成立を疑っていなかった”。つまり、二人とも結果を疑わない精神状態だった」
幻覚魔術に必要なのは、相手の思考の完全な読解。だが今回は違う。
「信じたいものを見せるだけでよかった」
リーナが息を呑む。俺は肩をすくめた。
「本物を何度も見ていれば、人は“再現度”で判断する。仕組みを考えない」
「……じゃあ、ドルト様の血は……」
「あれも幻だ」
断言すると、彼女は顔を覆った。
「……じゃあ、ドルト様は……」
「何も知らない」
事実だからこそ安全だ。
「血を勝手に使えば、いずれ必ず露見する。だが“使ったと思わせる”だけなら、証拠は残らない」
リーナはしばらく黙り込み、やがて絞り出すように言った。
「……大貴族は……信じきってた……」
「疑う理由がなかった」
教会の権限は本物。契約の流れも完璧。そして何より
「大貴族は“信じたい”状態だった。教会権限が本物だった時点で、疑念より期待が勝っていた。契約の儀式も、形式を知っているだけで細部は知らない。だから幻で十分だった」
リーナは頭を抱えた。
「……誰も使わない理由、よく分かった……」
「だからこそ使える。誰も使わない手段は、警戒されない」
「実際の契約魔術より、よほど強い。なぜなら、破れば“自分が死ぬと信じている”からだ」
リーナは苦笑した。
「……最悪……」
「褒め言葉だ」
「……ねえ、ロフィ……あんた、本当に人間?」
「さあな」
リーナは深いため息をついた。
「……いつか、本気で殺されるわよ」
「その時は、計算が甘かったということだ」




