第4話
2017.6.14 文章修正致しました。
一と話してから一週間が経った。和美はあれから、自分なりに一について可能な範囲で調査を行なった。和美はMoleskineの手帳を自室の机に広げて椅子に腰かけた。窓を見る。徐々に空が暗くなり始め、カラスの鳴き声が雲に吸い込まれていく。薄暮気が近づいていた。
一 翔吾。二十七歳。高校英語教師。T大学を卒業後教員採用試験に合格し、都内で勤務。職場での評価も高く、生徒からも授業が分かりやすいと評判が良い。反面、保護者からは常に一線を引かれている印象があるという声が多い。
『何が間違っているというわけではないんです。ただ、昔ながらの熱意があって打ち込んでいくっていうタイプじゃないです。あの人と話していると、ここからここまでは学校で持ちます。だけど、ここから先は家庭の責任ですって冷たく言われている気がするんです。そりゃぁ直接そうは言われていませんよ。それに向こうの言っていることも分かりますけど、うちだって忙しいんですから、何もそんな突き放すような言い方しなくてもねぇ』
ある主婦は、和美にそう答えた。実際に何人かの保護者は過去に「杓子定規すぎる」と苦情を学校に申し入れたが、具体的な事例や問題点が無かったため、うやむやになった。
また、ある女子生徒は言った。
『一先生はとても真剣に話を聞いてくれるんです。私は一先生のクラスじゃないんですけど、一度相談したことがあるんです。そうしたら、放課後に2時間も話を聞いてくれて、その時は外も暗くなって危ないからって車で送ってくれたんです』
ーーー救われた気がした。
そう答えた生徒は男女問わず多く、中には恋愛感情まで持つ女子生徒までもいた。
それにもう一つ、今日分かった情報を付け加えていく。
幼少期に母親を事故で亡くし、父親はその後蒸発。素行不良が多かったため、親戚宅を転々とする。しかし、母方の兄の家に引き取られてから落ち着きを見せる。つまり、創平の交際相手の三笠 蒼空の家だ。
なるほど、確かに似ていると和美は思った。しかし、そこで何を感じ、何を尊いと思うかはそれぞれのはずだ。決して同じなどではない。和美は下唇を噛んだ。そして手帳を閉じて立ち上がると、夕飯の準備に取りかかった。
「学校裏サイト?」
食卓を挟んで向かい合い、夕飯のビーフシチューを食べながら和美は聞き返した。和美が学生の頃にも存在していたため、存在は知っていた。
「うん、それに最近俺たちのことが話題に上がっているんだ。その、悪い意味で。俺も今日友達から始めて聞いて驚いたよ」
学校が知らないところで、内部の何者かによって作成される非公式のコミュニティサイト。インターネットが一般家庭に浸透し、スマートフォンが普及したのと同時に恩恵の影の部分としてそれらも成長していった。
光があれば闇がある。匿名掲示板であることが多いこのコミュニティサイトは、暴言や悪口、猥褻画像等の見えないいじめの温床であり、それが原因で自殺に発展するケースもあり、問題が深刻化している。そこに、創平と恋人の蒼空の名前が挙がるということは。
和美は奥歯を噛んだ。一の張り付いた微笑みが脳裏をよぎった。
「創くんたちはやましいことはしていないんだから、堂々としてれば良いよ」
そう言いながら、和美は楽観視していなかった。いじめ。陰湿な言葉が頭をよぎる。それがたとえ暴力ではなくとも、暴力よりも悲惨なものであることはしばしば存在する。
「うん、蒼空も俺も今のところそうするつもり。ここでうじうじしたら、連中の思うツボだからさ」
だから、姉貴もそんなに心配しなくて良いよ。と、付け加えて創平はスプーンを頬張った。
「創くん。いじめって、どうして起こると思う?」
創平の目を見つめて、和美は尋ねた。そこにいつもの微笑みは無い。
「え?それはやっぱり、俺たちのことを気に入らない誰かがいるからでしょ?」
きょとんとして創平が言う。間違いではない。しかし和美は足りないと思った。誰かとは、どんな人なのかも考えなければならない。
「そう。ありきたりな表現だと『ムカつく』っていうことなんだよね。だけど、それがどこから来るのか考えたことはある?」
創平の表情が固くなり、じっと和美を見ている。
「私の時もそうだったけど、皆薄くて脆い人間関係をなんとか維持しようと、外の関係に対して殻を閉ざす傾向があるんだよね」
自分の領域を侵犯されたと思えば、善良そうな人間であっても容易に悪意ある行動を取り得る。それがいじめの根本だ。「ムカつく」人々の増加は「優しい関係」という同じ幹から伸びた枝のようなものだというのが、和美の考えだった。本来ばらばらな人々が、かろうじてお互いのつながりを保つために、コミュニケーションを続けた結果、場の空気を敏感に読み合い、行動する。悲しいものだと思いながら、和美は続ける。
「それは、ぼんやりとでも皆分かってる。それでいて、いじめの標的になった人たちは、自分がいじめられる理由が何かのルールを不用意に破ったことにあるって感じてるの。これ以上自分がルールを破った人間だってみなされたくないって思いながら行動する。ようするに自分を責め続けるんだよね。だけど、そうなったらダメ」
創平はゆっくりと頷く。
「だから、起きていることの表面に捉われないで。絶対に自分を責めないで。蒼空ちゃんにもそう伝えて」
創平の緊張を感じたため、和美は微笑みを浮かべ言葉を続ける。
「それに、いじめは衝動や直感が殆どだから、持続性や安定性が乏しいんだよね。逆を言えば、それだけ対立や軋轢は日常的生まれやすいっていうこと。しばらくすれば、二人の事なんて良くも悪くも皆気にならなくなっているはずだから」
あえて、最後は明るい口調で言った。無論例外があるのは彼女も承知していた。
衝動や直感などは怖く無い。恐ろしいのは、思想や信条。言葉によって連綿と紡がれた想い。一の空虚な瞳と張り付いた笑顔がまた頭をよぎる。
「ごめんね。長く話し過ぎちゃったね。ちょっと引いたかな?」
創平から反応が無かったため、少し不安になり和美は聞いた。
「いや、そうじゃない。やっぱり姉貴はすごいって思ったんだ。そんな風に深く物事を考えられるんだから」
和美とて始めからそうだったわけでは無い。そうなったのはーーー。
「創くんがいてくれたから」
ぽつりと、和美は呟いた。和美は創平のために、頼られる存在であり続けるため、あらゆる努力を惜しまなかった。勉強以外にも様々な本を読み知識を深め、見聞を広め、社会人として経験も積み重ねてきた。優しい、しっかりしていると周囲からもてはやされる反面、可愛げがない。固い、真面目すぎると言われる場面もあった。今思えば、それこそ小さないじめもあった。しかし、それらを全て耐えられたのは、和美にとって創平という存在がそれだけ大きなものであったからだ。自分の全てを投げ打ってでも尽くしたい相手。愛する存在。創平のことを想うだけで、あらゆることを耐えることができた。
「え?」
聞き取れなかった創平が首を傾げる。
和美は創平の目をじっと見つめる。心が吸い込まれるような気持ちがした。しかし、
ーーー遠い。
和美はそう思った。こんなにも近くにいるのに、手を伸ばせば届く距離なのに遠い。
ずきん。
胸が痛んだ。
「ありがとう。創くん」
瞼に熱を感じた。視界が滲む。
「姉貴?どうしたの大丈夫?」
創平が慌てた様子で、椅子から立ち上がり和美の隣に来て肩を抱いた。
「大丈夫。ちょっと、目にまつ毛が入って」
苦しい言い訳だと思ったが、和美は手で創平を制して洗面所に向かった。
疲れた顔が鏡に映っていた。和美は自分の肩を抱いてゆっくりとしゃがみ込んだ。深く息を吐く。心が水の中に沈んでいくような、強い悲壮感がおさまるまで彼女はそこを動かなかった。