第10話
次回エピローグとなります
シャワーからあがり、ミネラルウォーターを飲もうとリビングに入ったところ、冷蔵庫の前に創平の姿があった。
「えええ!?びっくりした。創くん。何でこんな朝早くに?」
予想外の遭遇に和美は声が裏返った。
「何でって……喉が渇いて目が覚めたから下りてきたんだけど……。なんか、そのごめん」
創平が気まずそうに目線を逸らしながら言った事で、和美は自分がバスタオル一枚の無防備な姿であることに気がつき、赤面した。
「いるならいるって、言ってよ。分かってたらこんな格好でなんか来なかったのに……って、無理だよねそんなの」
と、和美は自分で言って吹き出した。創平もつられて吹き出す。
「とりあえず着替えてきなよ。飲み物用意しとくからさ」
和美は胸がすっとした気持ちでいた。いつ以来だろう。こういう自然な会話は。いつの頃からか、創平との会話は和美の意図した対応が主になっていた。お互いが気を遣うあまり、「自然さ」が欠落していた。以前は当たり前のようにあった余裕や洒落っ気がなく、ギスギスとしていた。
「そうだ。今日の午前中に蒼空ちゃん家に呼んでくれない?三人でちょっと話そう?」
そう言い残し、和美は階段を上った。
「あれから、翔吾さんに会いに行きました」
ダイニングテーブルを挟んで創平と蒼空が隣り合わせで座り、反対側に和美が座っている。
「それで、彼の様子は?」
和美が尋ねる。
「脳震盪の影響で、事件の前後の記憶が無いようなのですが、何が起きたのかは理解できているようでした。そして、私にこう言いました」
蒼空が言葉を区切り、アイスティーに視線を下ろす。そして、ゆっくりと和美の方を向いた。
「『ありがとう。さようなら』まるで、憑き物の落ちたような表情でした。そして、『忘れて、前を向くといい』と。それ以外は何も……」
和美には分かった。一は選択したのだ。蒼空がいない自分の道を。
「あの廃工場の夜、蒼空ちゃんの膝の上にナイフがあったの覚えてる?あの意味ね。私は分かる気がする」
和美は自分のグラスを手で包む。
「本当は、あれであなたに殺して欲しかったんだと思う。叶わない想いならば、せめて最愛の人の手で何もかもを終わらせて欲しかった」
それを望みとしてしまうということは、一自身が自分の将来に対して何も期待をしていないのかもしれないと、和美は思った。
二人が息を飲む。和美は続ける。
「私と彼は似ている。だから、分かる。自分の全てを投げ打って、最後にそれを求めた。それくらいしか、求める事が出来なかった。だけど、それをあなたには言わなかった。強いることもしなかった」
それは一の何かがそうさせたのだと、和美はそう考えていた。
「愛ゆえに」
創平が呟くように言った。それは一があの夜に廃工場で蒼空に言った言葉だった。和美は頷く。
「彼は、自分の気持ちに区切りをつけることが出来た。それは彼にとって救いとなったと思うし、だから蒼空ちゃんにありがとうと言った」
和美はテーブルの上の蒼空の手を自分の両手で包んで言った。
「それじゃ、姉貴は?」
創平の顔が和美を向いて問いかけた。
「私は……」
和美は言葉に詰まる。
「俺は、姉貴の言葉を聞いてない」
「お姉さん。言った方が良いです」
今度は蒼空が和美の手を包んでいた。蒼空と目が合う。強く訴える目だった。
「今言わなければ、お姉さんの想いは永久に葬られてしまう。貴女の想いの価値は、永遠のものとして創平の中に残さないといけない!」
蒼空の手に力が込められる。
「お姉さんは、いつも正しくあろうとした。それは、創平を愛するからこそでしょう!私に気を遣っているのでしたら、無用です。憎ければ憎いとおっしゃって下さい。その覚悟を持って、今日はここに参りました」
蒼空の目は潤みながらも、まっすぐと和美を見つめていた。似ていると思った。偏見の無いまっすぐな創平の瞳と。ごくりと和美の喉が鳴る。彼女がいなければ、鎧を剥がされることはなかった。きっと誇れる自分のままでいられた。
「私は蒼空ちゃんが羨ましかった。創くんの隣にいられる、貴女が。何で私じゃないんだろう。何で私じゃ駄目なんだろう。私にまだ何かが足りないせいなのかなって、ずっとぐるぐるとそんな事を考えてた」
「姉貴……」
創平が悲しげに和美を見る。
「蒼空ちゃんと付き合うようになってから、創くんは変わった。いや、成長したと言うべき。優しいだけじゃなく、気が効くようになった。自分から何かをするようになった。それは、私にはできなかったこと。本当の愛情って、片方だけが何かをするんじゃなくて、双方向なものだと思う」
和美は続けた。
「私は自分の意思と努力で望むものを手に入れた。立派な姉としての立場、周囲からの賞賛」
和美は蒼空から自分の手を離すと、手のひらを上にして開いた。五指をまじまじとみる。
「だけど、本当に欲しいものは指の隙間からこぼれ落ちていった」
全てを手に入れてきたが故に、唯一手に入らなかった悲哀。全てを手に入れたのは、その唯一を手に入れるためだったという皮肉。
和美は下を向いて。沈黙した。五秒。十秒。時間が刻々と過ぎていく。
「創くん」
和美は顔を上げる。
「私は」
緊張で頰が痙攣した。創平の瞳が和美を見据える。あの時のように、まっすぐな眼差しだった。
「ずっとあなたを、愛していました」
過去形にしたのは、終わっているものだと自分で分かっていたからだった。
「ありがとう」
そして、間があって「ごめんなさい」と創平は苦渋の顔で言った。
和美は泣き崩れた。覚悟はしていた。しかし、しきれてはいなかった。それが涙となってこぼれ落ちる。蒼空がいつのまにか席から立ち、和美を後ろから抱きしめて泣いていた。創平も静かに泣いていた。頰を涙が伝い、拳を握りしめている。
その時、和美は悟った。ようやく終わることができたのだと。




